ドイツと日本〜Ⅰコリント9:2「権威の意味」

 昨日、日本のGDP(国内総生産)がドイツに抜かれたとの報道がありました。今から40年余り前のとき、僕はドイツに住んで、「日本の株式に投資することがいかに有利か」ということを説いていました。
 本当にそのときに日本の株式を買った多くのドイツ人やドイツの機関投資家は大きな利益を上げることができました。
 当時のドイツ人も、これからの日本はますます成長すると期待されていました。
 しかし、今、人口が日本の三分の二に過ぎない国にGDPが抜かれてしまったのです。

 それにしても僕は、当時からドイツと日本の仕事の仕方の違いに驚いていました。ドイツと日本は、秩序を大切にするという点で国民性が極めて似ていますが、意思決定の仕方が根本的に違います。
 日本は聖徳太子の時代以来、「みんなで決める」という形を取ることを大切にしています。一方ドイツでは、「誰に決定権を委ねるか」が慎重に決められた後は、その権威者の決定に従うことによって秩序が保たれます。

 株式投資を勧める営業をしていたとき、決定権のある責任者に出会うと、驚くほど簡単に、数千万円、ときには億単位の投資を、即座に決定してもらうことができました。
 それは日本では考えられないことでした。日本では大きな決定は、なるべく多くの人の招いた会議で決められることが最善とされているからです。

 しかし、この数十年のIT技術の急成長と国際情勢の急展開の中で、日本の「みんなで決めるのが最善」という形が、ついて行けなくなっています。
 そこでは無駄な書類作りと長時間に及ぶ会議ばかりが重ねられるばかりでなかなか意見がまとまりません。
 そのような中では、時に、「私はいのちをかけて、この決定を下す」という健全なリーダーシップこそが、時代の変化に対応できる面があるかと思います。
 その点で、効率的な意思決定ができるドイツが、この数十年の間に、力を復活させてきたような気がします。

 末期のすい臓がんを宣告された清瀬福音自由教会の岩井基雄先生(63歳)が、力を振り絞って、キリストの教会の大切さを語っておられました。以下からご覧いただけます

 その中で繰り返し、クリスチャンになるとは、自分が神の所有の民となることである「Owner
changed(所有者が変わった)」ということを喜びとして生きる者であり、キリストを主人として、その方に従う中に喜びがあると繰り返し語っておられます。
 人生が、自分の期待通りに歩むと思うことから思い煩いが生まれるとも語っておられます。葬儀の準備まで明るく語りながら、神から与えられた使命のために生きておられる姿は感動的です。

 私たちは日本に住んでいますから、ドイツのような意思決定の仕方を貫こうとすると、まとまった行動が取れません。
 しかし、どこか肝心の時、ここで決める必要があるというときに、神が誰を権威者として立てているかを見極め、その方にゆだねるという態度も必要です。

 使徒パウロは、コリントの教会を開拓しました。その後で、パウロを批判する勢力が教会内に入り込んできました。それは福音を曲げる教えでした。
 使徒パウロはそのとき、必死に自分に与えられた権威を次のように弁明しています

あなたがたは、主にあって私の働きの実ではありませんか。たとえ私がほかの人々に対しては使徒でなくても、少なくともあなたがたに対しては使徒です。あなたがたは、私が主にあって使徒であることの証印です。
Ⅰコリント9:1、2

 私たちが日本という文化の中で、その良さを生かしながらも、ときに重大な決断が求められるときがあるかもしれません。
 そのとき「和」を大切にする以上に、「主のみこころはどこにあるか」ということを真剣に祈る必要があります。
 そのときに、みんなの意見とは違うけれども、この人は自分の命をかけて語っている……という声が、ひょっとしたら神が立てた権威かもしれません。
 もちろん、何でも権威者のままにということは私たちの教会の理念に反します。しかし、ドイツ的な意思決定の大切さという点に、私たちは心を留める必要もありましょう。