雪やこんこ 犬は喜び 猫はこたつで——「人はそれぞれ負うべき重荷がある」〜ガラテヤ6:5

 一昨日から東京は大雪警報が出たりで、そのニュースが持ちきりでした。北海道の大雪山の麓の村で生まれた者としては、この程度のことで、「不要不急の外出は控えるように」と何度も言われることに、とてつもない違和感を覚えていました。

 それでふと以下の童謡を思い出しました

 その二番目の歌詞で、「犬は喜び庭駆け回り、猫はこたつで丸くなる」と歌われていることが妙に心に留まりました。

 よく言われますが、人間には犬型の性格と猫型の性格があるとのこと。ここでも犬型、猫型の差が現れるような気がします。

 ここでの犬型は、雪を喜んで庭を駆け回ると歌われてます。そんな人にとって、雪が降ることは喜びの理由なのです。

 僕のような雪国で生まれた人間にとっても、冬の厳しさとともに、そこでの喜びがありました。僕の中では、吹雪を理由に、やるべきことができないというのは恥ずべきことでした。しかも、大雪になると、不思議に、それに立ち向かって、そこで喜びを見出したいという思いになります(幸い、北海道の雪は、北陸の豪雪地帯の雪とはちがって、風で飛ぶような軽いもので、屋根を壊すような不安もほとんどありません)。

 とにかく、北海道生まれの僕にとっても、雪は 犬が喜び庭駆け回る……とう感覚はピンときます。楽しさ、創造性の原点になります。
 ですから、つい「大雪……」と言われると、スポーツクラブに行って激しい運動をしたくなってしまいます。今週は木曜、金曜、土曜と聖書の講義をするという異例の予定になっているのに、雪を理由に動きたくなってしまい、月曜、火曜と激しい運動をしてしまいました。

 道産子と呼ばれる馬がいます。僕が幼少の頃、当家でも飼っていました。農耕のために欠かせない存在でした。次のような解説がついています

その特徴は一般的な乗馬クラブにいる馬と違い、北海道和種馬は体高も小さく、ずんぐりむっくりとした体型が特徴で、「道産子(どさんこ)」という俗称で知られています。厳しい北海道の自然を生き抜いてきた北海道和種馬は、調教という面において西洋の馬たちより難しいと言われており、現状では肉として消費されていることが多いそう。

 不器用で、柔軟性が足りなく、使い物にならないので食用とされることが多いというのは極めて残念な表現ですが、何か自分に当てはめて考えるとよくわかります。でも、人それぞれ、生かされ方、用いられ方があります。

 昔、ある結核患者が次のように自分のことを書いていました

私が病気になったのは、単に私の過労によるものでもなく、また結核菌にたまたまぶちあたったからでもありません。
 それは、自分が今までの自分とは違う何かになろうとしたためです。

 私は大いに外向性を発揮し、あちこち駆けずり回り、一度に三つの仕事をし、瞑想とか読書、思索に時間を割かず、またフルスピードで突進したり働きまくるよりも、「わが魂を呼び戻すような」自己の側面を発達させること、またそれを活用することもないままにしてきたためです。
 私の病気は、失われている自分自身の機能の再発見を求める声であるとともに、またそのチャンスでもありました。
 その病気は、あたかも次のように語りかけていることばともとれます。すなわち、「おまえはおまえの全体としての自己にならなければならない」。

 もちろん、ある人が病気になる原因には様々な要因がありますから、これを一般化することは危険です。でも、すべての試練は、ある意味で、失われていた自分自身の再発見の機会、自己の再統合の機会となるべきというのは共通原則だと思います。参考文献 ロロ・メイ著「失われし自己を求めて」P120)

 雪が降ると、汗をかく運動をしたくなる……ということに何の合理的な説明もありません。でもそのような直感にすなおに生きるのも、自分らしい生き方なのかなとふと思いました。

聖書ガラテヤ人への手紙6章5節には次のように記されています(新改訳第三版)

人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。

それぞれのユニークさが生かされる道があります。
 犬型人間は、雪が降ったときに、「不要不急の外出は避けてください」などということばに反発を感じます。
 僕なら、「慣れない積雪には注意して、その中で、ご自分らしく生活してください」と言いたいと、ふと思ってしまいました。