ニック・ブイチチというオーストラリア人がいます。彼は生まれた時から両手両足がなく、たった一つの短い足の先しか使えません。しかし彼は普通の学校に通い続け、大学で会計学の学びを修了し、水泳が好きでサーフィンを楽しんでいます。
ただ一番苦労するのは起き上がることです。ひっくりかえったら首と頭で体を支え何かを頭の台にしてようやく膝の上に立つことができます。その彼が、どのようにサーフィンボードを用意してその上に立つのでしょう。しかし仲間が立たせてくれます。
前向きにチャレンジを繰り返す彼にはいつもすばらしい助け手が与えられます。彼は苦労して頭を使って立つ姿を見せながら、「人生は決して諦めてはならない。なぜなら、決して、神はあなたを諦めないのだから……『主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように上って行く』とあるように、私は状況を変える必要はない。腕も足も必要もない。私に必要なのは、ただ聖霊の翼だけです。そして私は飛んでいます。イエスが私を支えてくださるからです」と言います。
そして今、彼は日系人の宮原佳苗さんと幸せな家庭を築き、四人のお子さんの父となっています。(七分あまりの日本語の字幕もついた昔のビデオをご覧いただけます。)
私たちにとって一番難しいのが、このチャレンジする気力を湧かせることかもしれません。その教えの鍵が安息日です。その中心は、この世界のすべてが、聖書の神、主(ヤハウェ)によって始められ、主こそがすべてのいのちの源であることを覚えることです。気力さえも、いや真の気力こそが、神の霊によって与えられます。
残念ながら多くの人は自己憐憫や恨みに苛まれて、本当の意味で自分の絶望感を主に告白することができていません。主に自分の心を変えていただく必要があると心から認めることができません。そのためには、日々の忙しさから離れて、主の前にただ静まるというときを持つ必要があります。それができるように、主に祈る必要があります。
56章から新しいテーマが始まります。それは、敗北意識を捨て、主の御教えを実行させていただく、またそれによってこの社会にさえ変革をもたらす、主にある勝利者としての生き方です。
1.「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには」
56章は、主(ヤハウェ)ご自身による、「公正(さばき)を守り、正義を行なえ。わたしの救いが来るのも、わたしの義が現われるのも近いからだ」という宣言から始まります。
ここでは「神の救い」と「神の義」が並行して記されます。「神の義」は例えば、「主 (ヤハウェ) の名を呼ぶ者はみな救われる」(ヨエル2:32) という約束の中に現されるからです。
その希望に満ちた確信こそが、「公正を守り、正義を行う」ことの動機になります。
その上で、「幸いなことよ。このように行う人、これを堅く保つ人の子は。彼は、安息日を汚さないように守り、どんな悪事も行わないようにその手を守る」(56:2) と記されます。
神の「救いが……近い」ことは、何よりも安息日の中で覚えられる現実であり、「安息日を汚す」ことの中心は「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ……あなたはいかなる仕事もしてはならない」(出エジ20:8、10) という命令への違反です。
つまり、「悪事」とは労働をする、また労働をさせることなのです。労働自体が「悪事」になるとは驚きです。私たちは労働が絶対的な美徳と見られる社会に生きています。しかし何が良くて何が悪いかを決めるのは神のことばであって、社会常識ではありません。
ですから、例えば「仕事が忙しくて礼拝に出られません」などと言うのは、悪事を正当化していることに他なりません。ただ私たちは既に、仕事を休むこと自体を悪と見られる日本社会に深く組み込まれています。個人的な決心だけでは安息日律法を守ることはできませんし、それぞれが抱えてきた問題があまりにも違います。
ですから、これをもって、安息日を守れない人を責めるなどということはあってはなりません。義務化した安息日ほど空しい戒律はないからです。
この安息日律法は、何よりも社会の構造を、神の視点から作り直すということにあります。それは、安息日には、奴隷や家畜をも働かせてはならないと命じられていたことに現されます。もちろんそこには、主婦の家事労働も含まれます。
週に一日、すべての人を労働の義務から解放することこそ、最もユニークな聖書の教えです。一方、自分の手の働きが富を生み出すという幻想が、ワーキング・プアなどと呼ばれる社会的な弱者を追い詰めます。
そしてこの安息日律法によると、雇用者は、七日間のうちの一日を休んでも生活できる給与を労働者に支給する義務があります。ドイツでは、日曜日にはすべての商店が閉まっており、例外的に開いているのは空港のスーパーマーケットぐらいで、働き詰めの日本の駐在員は、頻繁に空港まで車を走らせました。
日曜日の午後は、教会でも基本的に何のプログラムもありません。役員会を日曜日に開くなどというのは論外です。ただ、いっしょにどこかを散歩するというプログラムぐらいはありました。
しかも、その延長として、最低四週間の夏休みが保障されています。
ですから、安息日律法は、社会的な弱者を絶え間のない労働に駆り立てることを防ぎ、社会のすべての人が、そろって豊かさを分かち合い、喜ぶことができるという枠組みだったのです。
現代のイスラエルはドイツなどより安息日の休みが徹底しています。戦後生まれたばかりの国ですが、一人当たりの国民所得では、日本の1.6倍の水準にまで達しています。安息日にはパソコンを使わない中で、IT大国になっています。
ところで、不思議なのはここで突然、その安息日の教えに、「主に連なる異国の民」とともに、「ああ、私は枯れ木だ」と嘆く「宦官」に対する慰めの招きが記されます (56:3)。
「宦官」はこのイザヤ書と深い関係にあるペルシア帝国において政治制度として確立していました。宦官はもともと、後宮に仕えるために男性器を切り取った者でしたが、跡継ぎの子を設けることができないことで、後継者争いが激しい王族や貴族にとっては脅威ではなくなり、世襲されることのない高級官僚として重用されるようになりました。
一方、割礼の儀式を何よりも大切にするユダヤ人の感覚からしたら、男性器を切り取った宦官が神の民に加えられるなどということは到底信じられないことでした。
確かに申命記には、「睾丸のつぶれた者、陰茎を切り取られた者は主 (ヤハウェ) の集会に加わってはならない」(23:1) と書いてありますが、神ご自身がもたらす新しい時代には意味を失います。
それはその直後に、「モアブ人は主 (ヤハウェ) の集会に加わってはならない。その十代目の子孫さえ、決して主 (ヤハウェ) の集会に入ることはできない」と命じられていたにも関わらず、モアブの娘ルツが神の民に加えられ、その四代目にダビデが生まれ、イスラエルの王となったということから見ても、この排除の原理が一時的なものに過ぎなかったということが明らかになります。
そしてこの「宦官」が主 (ヤハウェ) の民に加えられるという不思議が、「なぜなら、主 (ヤハウェ) がこう言われるからだ。『わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶことを選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘にもまさる記念の名を与え、絶えることのない永遠の名を与える』」(56:4、5) と記されます。
そして、ここでも神の「契約」の中心として、「安息日を守る」ことが記されます。
なお「宦官」は、「息子、娘」を持つことはできませんが、「永遠の名」という名誉が与えられるというのです。これは宦官自身にとっての福音であるとともに、当時の社会を根本から変える希望となっています。
神の民からは永遠に排除されていると思われた「宦官」さえ、「安息日を守る」ことによって永遠の祝福に預かることができるのです。あなたのまわりの野蛮な人をも、神は「救い」に招いておられます。
2.「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」
56章6節は、「主 (ヤハウェ) に連なる異国の民」ということばから始まり、その意味が「主に仕え、主 (ヤハウェ) の名を愛し、そのしもべとなっている人」と説明されます。
続けてユダヤ人と外国人の区別を超えた神の民の概念が、「安息日を汚さないように守り、わたしの契約を堅く保つすべての人」と表現されます。つまり、真の「主 (ヤハウェ) の民」とは、血筋ではなく「安息日を守るすべての人」を指しているのです。
そして、主は、当時のユダヤ人の常識を超える形で、神の民から排除されていた人々さえも、「わたしの聖なる山に来させて、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる」(56:7) と招かれました。
現実には、イエスの時代の神殿では、いけにえを献げる祭壇に近づくことができるのはイスラエル人の成人男性だけでしたが、ここでは、「異国の民」ばかりか「宦官」を含むすべての主 (ヤハウェ) の契約を守る民に向かって、「彼らの全焼のささげ物やいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる」と約束されています。
そして、その理由が、「なぜならわたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれるからだ」(56:7) と説明されました。
その最後の宣言こそ、イエスの乱暴な宮清めの意味として引用されたことばです (マルコ11:17)。そこで「イエスは宮に入り、その中で売り買いしている者たちを追い出し始め、両替人の台や、鳩を売る者たちの腰掛を倒された。また。だれにも、宮を通って物を運ぶことをお許しにならなかった」(同11:15、16) と描かれていました。
確かに神殿内での商取引を許す制度は合理的な意味がありました。一般の硬貨はローマ皇帝の肖像が描かれており、両替して献金する必要がありましたし、神殿内部で売られた動物は「いけにえ」として不適格にされる心配はありませんでした。
しかし、主を求める異邦人は、この利便性の影で、静かな礼拝の場を奪われました。一方、祭司たちはこの商売の許認可権によって特別収入も得られました。
しばしば、イエスの宮清めの意味を誤解し、教会でバザーや信仰書の販売をしてはいけないという人がいますが、イエスの頭にあったのは何よりもイザヤ56章を成就させることでした。
問題は、宮での商取引ではなく、自分たちのカルチャーに会わない人に静かな礼拝の場を提供することにあります。
たとえば「使徒の働き」に、エチオピアの女王の財産全部を管理していた「宦官」が、エルサレムに礼拝に来たことが描かれますが (8:27)、当時の規定では、多大な時間と労力をかけきた彼が入れるのは神殿の外庭までで、自分の「ささげ物」が祭壇で焼かれた煙を隔たれた壁の外から見るしかありませんでした。
しかも、彼が立つ外庭には、鳩を売る者、牛や羊を売る者たちが座り (ヨハネ2:14)、両替人もおり、大声で客を呼び寄せていたことでしょう。
彼らはエチオピア人の「宦官」を見かけで軽蔑しながら、その謙遜な心を見もせずに、お金を取ることばかりを考えていました。
そしてイエスが神殿の中を歩まれた時も、敬虔な心を持った外国人や身体障害者、子供たちが、礼拝の場から排除されているのをご覧になり、心を痛められたに違いありません。
そのような中でイエスは、神殿の外庭に礼拝の静寂を取り戻すために、「わたしの家は、あらゆる民の祈りの家と呼ばれる」と言われたのです。
しかも主はそれに続き、「それなのに、おまえたちはそれを『強盗の巣』にしてしまった」と驚くほど厳しく非難しました (マルコ11:17)。
ところでマタイ21章14節では、宮清めの直後、「また(すると)、宮の中で、目の見えない人たちや足の不自由な人たちがみもとに来たので、イエスは彼らを癒された」という新しい展開が描かれます。
それはイエスが世的な利便性の論理を排除した時、世で軽蔑されていた人々が前面に出て来ることができたことを描いています。
ダビデがエルサレムのエブス人を攻撃した時、彼らはダビデに、「おまえは、ここを攻めて来ることなどできない。目に見えない者どもや足の萎えた者どもでさえも、おまえを追い出せる」と嘲ったために、身体障碍者はダビデの王宮からは締め出されました (Ⅱサムエル5:6、8)。
そしてパリサイ人たちも彼らを「神にのろわれた者」と見て、彼らを排除していました。しかし彼らは、イエスのあわれみを知って、みもとに迫り、癒されたのです。神殿は弱者を排除する場から、癒す場へと変えられました。
ニック・ブイチチさんのような重度の身体的な障害を持つ方が、キリストの教会で歓迎されるのは、イエスが当時の神殿において彼らを癒し、彼らに真の安息を実現したからです。その結果として、目に見える不自由さが残っていながらも、彼らはこの社会で自由に生きることができるようになりました。
イエスは安息日に敢えて、足の不自由な人や目の見えない人たちを癒すことによって、彼らに真の安息の日を与えてくださったのです。
そればかりか、もう一つの大きな変化が起きました。それは宮の中に、子どもたちによる「ダビデの子にホサナ」という賛美が響き渡ったことです (同21:15)。子どもの感性は鋭いのですが、キリストの教会は、子どもたちをどのように受け入れてきたでしょう?
これは心の宮の問題でもあります。牛がいる所に「目の見えない人」は安心して入って来られませんが、同じように大きな理想を追及する人は、自分の心の中から自分の「弱さ」を締め出す傾向があります。
精神的な弱さを覚える人を受けとめることは、自分の弱さを受け入れることでもあります。同じように、心が忙しすぎるなら、自分の中に住む子どもの声を窒息させ、喜びがなくなります。
目の前の子どもを受け入れることは、自分の中にいる子どもの気持ちを受けとめることでもあります。その時、あなたの内側に、真心からの神への賛美と、自由な喜びが生まれます。
3.「わたしは、高く聖なる所に住む。砕かれて、へりくだった霊とともに」
56章9節の「野のすべての獣よ。食べに来い。林の中のすべての獣も」とは猛烈な皮肉です。それはイスラエルの指導者が、野獣が襲ってきても「ほえることもできない」「犬」のように「眠りを貪る」ばかりだからです (56:10)。
同時に「この犬どもは貪欲で、足ることを知らない。彼らは牧者なのに、悟ることがない。だれもがみな、自分勝手な道に向かって行く。一人残らず自分の利得に」という状態でした (56:11)。そして彼らは、酒宴に明け暮れ、そのことに何の反省もせず、その堕落を加速させていました (56:12)。
一方57章初めで「義人が死ぬ(滅びる)。しかし、だれも心に留める者はいない。誠実な人が取り去られる。だれも、義人がわざわいの前から取り去られることを悟ることがないまま。彼は平和 (シャローム) に入る。まっすぐに歩む人は、自分の寝床で憩う」と記されています。
これは、「義人」や「誠実な人」は、しばしば人には認められることがなくても、神が最終的な平安(シャローム)に導いてくださるという約束です。
しかし、3節から11節には、姦淫と偶像礼拝にふける人の姿が描かれます。彼らはカナンの偶像礼拝の様々な淫らな習慣を採用しながら、6節に記されるように、愚かにもそれで主(ヤハウェ)を「慰めよう」としているというのです。
また10節に描かれるように、彼らは偶像礼拝のための「長い旅に疲れても、『あきらめた』とは言わなかった……手の活力(元気)を回復し、弱らなかった」というのです。これはしばしば現代の元気に満ち溢れた偶像礼拝者に適用できることです。
そして11節では、このように偶像礼拝の習慣を混ぜ合わせて主を礼拝する人に対し、「このわたしが、久しく、黙っていたので、わたしを恐れないのではないか」と警告を発しておられます。そこには主のさばきが迫っていることが示唆されています。
57章12節では「このわたしが、あなたの義とあなたの行いの数々を告げよう。しかし、それらはあなたにとって役には立たない」と言われます。彼らは偶像礼拝をしながら、信仰を混ぜ物にすることを正当化し、自分に「義」があると思って元気を保っています。
しかし「義」とは神の基準であり、人の勝手な自己正当化を許すものではありません。それで13節では「あなたが叫ぶとき、あなたが集めたものどもに、救わせてみよ」という皮肉が述べられます。
ただ主は、その直後に、「しかし、わたしに身を寄せる者は、地を受け継ぎ、わたしの聖なる山を所有することができる」という希望を語ってくださいました。彼らはこの世でいかに不遇な目に会い、虐げられていても、やがて目に見える現実の世界の祝福を体験できるというのです。
これは、この地上の生活と、来るべき「新しい天と新しい地」を含めての概念です。イエスはこれをもとに、「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐからです」(マタイ5:5) と言われました。
そして「主は言われるー盛り上げよ。土を盛り上げて、道を整えよ。わたしの民の道から、つまずきを取り除け」(57:14) とは、これらの箇所での転換点です。これは40章3節で「荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ」と命じられたように、主 (ヤハウェ) がエルサレムに帰られる道を整え、神の民の前から、つまずきを取り除くようにという命令です。
私たちは常に、互いのために、主の招きを受け入れやすい環境を整える必要があります。それは、心の中に主のみもとに近づくための道を整えることです。
その上で、私たちすべてに対する主のみ教えの核心として、「わたしは高く聖なる所に住む。砕かれて、へりくだった霊とともに。へりくだった人たちの霊を生かし、砕かれた人たちの心を生かすためである」(57:15) と語られます。
福音が広まった結果、謙遜が美徳とされ、謙遜なふりをする人が多くなっていますが、神が目を留めてくださるのは、本当に自分の惨めさや弱さに打ちひしがれている人であり、自他共に認める尊敬されている人格者のことではありません。
この世ではしばしば、10節に描かれたように、偶像礼拝者のほうが元気に見えるという現実があります。しかしイエスは、「こころ(霊)の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3) と言われました。
人の目には低い所に、「高く聖なる神」がいてくださるという神秘がイエスにおいて明らかにされました。それは53章3節で「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」と描かれた「主 (ヤハウェ) のしもべ」の姿です。
そして主は「いつまでもわたしは争わず、いつも怒ってはいない。それは、霊がわたしの前で衰え果てるから。わたしが造ったいのちの息が」(57:16) と言われます。
ここでは不思議にも、主の怒りを受けながら、自分の道を改めようとしない頑なな心をさえも主ご自身が癒してくださると約束されています。
私たちの最大の問題は、自分で自分の心を変えられるはずだと思い込むことにあります。そのような中で、ある人はますます傲慢になり、ある人は自己嫌悪に陥ります。
せっかく良い教えを聞いても、それを自分や人を失望させる「ねた」にしてしまいます。それでは真の意味で、聖霊の翼をいただくことはできません。
最初に引用したニックさんは、「今あなたは自分の苦しみを、(両手両足のない)私の苦しみと比べているかもしれない。でも希望とは、自分よりも苦しい思いをしている人がいると考える所にあるのではなく、神の御名の中に、主イエスの中にあるのです。
希望とは、自分の苦しみを神の無限で測り知れない愛と恵みとに比べるところにあるのです」と言っています。
その圧倒的な愛と恵みを覚える日が安息日、日常の働きをやめて主の前に静まるというときです。
「ユダヤ人が安息日を守ったのではなく、安息日こそがユダヤ人を守ってきた」とも言われます。安息日の教えは、イエスの時代には厳しい戒律と化していましたが、本来は、人間に「神のかたち」としての生き方を回復させるものです。
神から与えられた仕事を、神のリズムの中で行うことの核心に安息日の教えがあるのです。しかも、そこにこそ隣人愛の基本が現されるはずでした。
私たちには、最も身近な隣人を、また社会的な弱者を一週間に一日休ませる責任が与えられています。
安息日ごとに創造の原点に立ち返り、また、キリストの復活によって私たちの人生が、「のろい」から「祝福」へと移されたことを思い起こし、この世界の人々を「神の安息へと招く」(ヘブル4:1) ために遣わされるのです。
その際、まず私たち自身が神の安息を味わってなくて、どうして他の人に神の安息を紹介できるでしょうか。すべてが神のあわれみから始まっているということを自分自身の心の奥で味わう、そんな安息日を過ごしたいものです。