「にもかかわらず」という信仰〜ハバクク2章4節

先日のメッセージを聴いてくださった方が (ローマ1章1–17節)、「にもかかわらず、真実に生きる」というのが私たちに求められていることですね……と応答してくださり、とっても嬉しくなりました。

毎日のように、目を覆いたくなるような悲惨が報道されます。しかも、その争いが信仰の名のもとに行われていることが何よりも悲しくなります。また、身近なところでも、いろいろと悲しいことがおきます。自分の正しさを主張するものどうしが、争いを加速させてしまいます。

ドイツ系のユダヤ人がナチス・ドイツの強制収容所の中で、Trotzdem Ja zum Leben sagen(にも関わらず、人生に「はい(イエス)」と言う)と励まし合っていたとヴィクトール・フランクルは伝えています。それは、どんな絶望的な状況の中でも、そこで問われている小さなことを大切にして生きるという、徹底的に人生を肯定する生き方です。

そこにはハバクク書のストーリーがあると思われます。その2章4節で最初に突然、「見よ。彼の心はうぬぼれていて、まっすぐでない」と記されます。これは1章4、13節に記された「悪者」のことです。それは第一にはエルサレムにおける、真の神を忘れた権力者たちを指します。そしてそれは次にバビロン帝国のように、「自分の力を自分の神とする者」のことを指します。彼らの心の特徴は、「うぬぼれ」にあり、真の神を「まっすぐに」見上げるということがないことに現されます。

一方、すぐその後、「しかし、正しい人はその信仰によって生きる」と描かれます。「信仰」の原語は、「エムナー」で、アーメンと同じ語源に由来することばで、「真実」と訳した方が良いかもしれません。興味深いことに七十人訳(ギリシャ語)では、「わたし(神)の真実によって」と記されています。それは、ヘブル語からの直訳ではありませんが、この文脈における意味を適切に描いているように思えます。それは、目に見える現実や、すぐ先に待っている現実が、人間の目には、神の不在、神の無力さを示すようにしか思えない中で、イスラエルの神ヤハウェが確かに、全地の支配者であり、正しく世界を治めて(さばいて)おられるという、神の真実に信頼して歩む者こそが「正しい人」であり、神に喜ばれる人であるというのです。

信仰の父アブラハムは、世継ぎが生まれない時に、主 (ヤハウェ) から「あなたの子孫は星のように増え広がる」というヴィジョンを示されて、そのことばを「アーメン」と受け止めました。

それに対し、「主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6) と記されています。つまり、私たちの信仰とは、神がご自身の「真実」をみことばを通して示してくださったときに、それを「真実」に受け止めるという、心の応答なのです。それをもとにパウロは、「義人は信仰によって生きる」ということばをローマ人への手紙の中心に置きました。

これは、私たちの身近な現実にも、いろんな場で適用できる真理です。「信仰によって生きる」とは、この世的な損得勘定や効率性の原則に従って生きるというようなことへの対比としても考えられると思います。

僕はいつも無意識のうちに、何かの目に見える目的を掲げ、それを効率よく達成するということに生きがいを感じてきました。何らかの目に見える結果から自分の働きを評価するということです。

この数年、もう何度も東京と北海道の旭川市の郊外の東川町の母の施設を往復しています。往復の高い航空運賃をかけて行っても、このコロナ禍の制限の中でほんの短い時間しか会話でません。しかも、ほとんど会話にもなりません。今回も一日目は元気で安心したら、二日目には前日のことを忘れています。何か、とてつもない無駄なことをしているような気に、ふとなります。

でも、今まで母から僕に注がれてきた豊かな愛情を思いながら、そのような効率性の原則で計画を考える自分を恥じています。信仰によって生きるということも、神の真実に、一歩一歩応答して生きる、それがどのような結果を生むかなどに関わりなく、今ここで、問われていること、一つ一つに誠実に向き合うということかと、ふと思わされました。

世界や周りの状況を見て、一喜一憂する代わりに、今、ここで問われていることに誠実に応答して生きるということが、「信仰によって生きる」ということかと思わされます。