君たちはどう生きるか〜ローマ2章15節

「君たちはどう生きるか」という題名の宮崎駿の映画が7月14日の公開以来大きな人気を呼んでいるようです。映画の内容は一切書きませんが、宮崎駿がこのタイトルを選んだのは、彼が子どものころ読んだこのタイトルの本に心から感動したからです。

原作の本は日本が第二次大戦に向かう前の1937年です。今から85年前のことです。政治的なことを書くことができない社会風潮の中で、「正しい生き方」に関して子どもの心に寄り添いながらすばらしい物語が展開されています。

2017年に羽賀翔一氏により漫画化され、これがまたベストセラーとなっています。お父さんを亡くした主人公のコペル君が、おじさんから人生について教えを受けるという内容ですが、コペルくんが深い自己嫌悪に落ちるような卑怯な行いをしてしまいます。

そのときおじさんが彼に書いたことばが感動的です。

心に感じる苦しみやつらさは人間が人間として正常な状態にいないことから生じて、そのことを僕たちに知らせてくれるものだ。そして僕たちは、その苦痛のおかげで、人間が本来どういうものであるべきかということを、しっかり心に捕らえることができる。

人間が本来、人間同志調和して生きて行くべきものでないならば、どうして人間は自分たちの不調和を苦しいものと感じることができよう。お互いに愛し合い、お互いに好意をつくしあって生きて行くべきものなのに、憎みあったり、敵対しあったりしなければいられないから、人間はそのことを不幸と感じ、そのために苦しむのだ……
2017年 マガジンハウス P295

聖書によると、すべての人間は「神のかたち」に創造されています。上記のことばはその本質をとらえています。また使徒パウロは聖書の教えを知らない異邦人も、何か悪いことを行ったときに反省能力が与えられていることをその創造の原点に立ち返りながら次のように記しています。

彼ら(律法を持たない異邦人)は、律法の命じる行いが自分の心に記されていることを示しています。彼らの良心も証ししていて、彼らの思いは互いに責め合ったり、また弁明し合ったりするのです。
ローマ人への手紙2章15節

私たちが罪の意識を持つことがなければ、キリストの十字架の意味は分かり得ません。罪の意識が健全に作用するために「良心」という心の機能があります。

すべての人が神のかたちに創造されており、反省能力を持っているということは平和が築かれるための原点です。それに対し、「汚れた良心」(テトス1:15) というのもあります。それはとんでもない悪を働きながら、それを悪と認識できない状況です。独裁国家ではそのような良心の働きのゆがみが生まれがちです。

私たちはこの世界の平和のために祈りますが、その際、信者にも未信者にも通じる心の作用としての「良心」という「心の機能」があることを感謝して受け止めなければ平和のための協力関係を築くことはできません。

これから映画をご覧になる方も、予備知識として、1937年に記された感動的な名作があることを心にとめていただければ幸いです。