今日の箇所には、「楽しみにふけり、安心して住み、心の中で『私だけは特別だ……』と言う者」の破滅が宣告されています。自分の人生の土台が、神の御心しだいで一瞬のうちに崩れ得るということを知ることは、何よりも大切な知恵ではないでしょうか。
私たちの人生を導いてくださる主 (ヤハウェ) を知ることこそ、明日何が起こるかわからない世界で働く最大の基盤になります。
なお詩篇40篇7節に、「巻き物の書(聖書)に私のことが書いてあります」と記されていますが、私は聖書に私個人の失敗や挫折、そして私に対する神のご期待が書いてあることが分かり、本当に気持ちが楽になりました。それと同時に、何度愚かな失敗をしてしまっても、主 (ヤハウェ) との対話のうちにやり直す勇気と力をいただくことができています。
1.「私たちを贖う方、その名は万軍の主 (ヤハウェ) 、イスラエルの聖なる方」
47章は、「下って、ちり(土)の上に座れ」という宣告から始まりますが、それは前節46章の終わりが、「イスラエルにわたしの光栄(栄え)を」と記されたことと対照的です。そしてそのさばきの対象が「おとめ、娘バビロン」と呼ばれ、栄華を誇っているバビロン帝国の貴族たちを指します。
さらにそれを主 (ヤハウェ) は、「王座のない地面に座れ、娘カルデア人たちよ」と言い換え、「もうあなたは二度と優しい上品な者とは呼ばれないからだ」というさばきが宣告されます。
人は一時的に没落しても、復活の希望があれば生きられますが、主 (ヤハウェ) は勝ち誇っていたバビロンの貴族たちに永遠ののろいを宣告しておられます。
そして彼らの永遠の没落を、当時の女奴隷の仕事に着くことに例えて、「ひき臼を取って粉をひけ」と嘲って命じます。そしてさらに、「ベールを取り去り、裾をまくってすねを出し、川を渡れ」(47:2) と命じますが、それは、それまでベールをかぶりロングドレスを着て、台座に載せられて運んでもらっていたときとの対比を描いたものです。
また、「あなたの裸はあらわにされ、恥もさらされる」(47:3) とは女性としての尊厳が奪われる様子を表しています。なおこれはすべて、エルサレムを廃墟にしたバビロン帝国に対するさばきですが、そのことを主はさらに厳しく、「わたしは復讐をする。だれ一人容赦しない」と言われます。
ところがそこで突然、「私たちを贖う方、その名は万軍の主 (ヤハウェ) 、イスラエルの聖なる方」(47:4) と、主への賛美のことばが記されます。
当時の世界の人々にとって、エルサレムがバビロン帝国によって廃墟とされたということは、エルサレムの神が無力な神であるという証拠になりました。しかし、主は、イスラエルを奴隷状態から「贖う」ことができる万軍の主、他に比類のない「聖なる方」であるというのです。
当時の人々にとっての主の「救い」とは、自分を虐げる者に、主が明確な復讐をしてくださることとして表現されました。
イエスは、「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい」(マタイ5:39) と言われましたが、これは「ドア・マットのように踏みつけられるままに……」という弱者の道徳ではなく、神のご支配に信頼して、暴力の連鎖を断ち切るという勝利への道でした。
事実、イエスの時代のユダヤ人過激派はローマ帝国に武力で対抗しようとして二千年の流浪の民としての悲惨の道を開きましたが、ローマ帝国はその数百年後にイエス・キリストの前にひざまずくことになります。
そして主は再び47章5節で、「黙って座り、闇に入れ。娘カルデア人たちよ。もうあなたは二度と国々の女王と呼ばれることはないからだ」と宣告します。
ただ同時に、かつて神の民が彼らに屈服せざるを得なかった理由を、「わたしの民にわたしが怒り、わたしの嗣業(ゆずりの民)を汚し、彼らをあなたの手に渡した」と、神の民、神の財産を、神ご自身がさばいた結果だと強調します。
しかし、彼らは自分の力を誇り、イスラエルの民に無慈悲に振舞いました。そのことを主は、「あなたは彼らをあわれまず、老人にも、ひどく重いくびきを負わせた」と責めます (47:6)。
これが、主のさばきであるなら、バビロンにも同じ悲劇がもたらされる可能性があるのに、バビロンの貴族たちは、「『いつまでも私は女王でいよう』と言って、これらのことを心に留めず、自分の終わりのことを思ってもみなかった」というのです (47:7)。
現代の世界経済で一部の大企業がそれぞれの分野で独占的な地位を得ていることが問題にされていますが、それらの大企業は30年余り前にはほとんど存在していませんでした。
一方、1989年(平成元年)に世界時価総額ランキングの上位50社のうち32社を日本企業が占めていました。今やその上位50社に日本企業の名はありません。トヨタが52番目にようやく入っているだけです。どんな大国も大企業も一瞬でのうちに滅びる可能性があります。
世界が一つの市場となる中で、どんな大企業も安泰ではいられません。そこに神のご支配を見ることができましょう。神は何よりも人々の傲慢にさばきを下されます。ですから私たちは他の人の成功などに妬みを覚える必要はありません。
それ以上に、そのような中で神を知ることなしに、だれがこの競争社会で誠実な生き方を全うできるかを問い続けるべきでしょう。
2.「『私だけだ。他にはいない』と言う者よ……わざわいがあなたを襲う」
47章8節で、「だから今、これを聞け。楽しみにふけり、安心して住み、心の中で、『私だけだ。他にはいない。私はやもめにはならないし、子を失うことも知らなくて済もう』と言う者よ」と記されますが、これは45章5、6、18、21節で繰り返された神ご自身の宣言、「わたしは主 (ヤハウェ) 。ほかにはいない」ということばを、被造物に過ぎない自分に当てはめ、自分を神の立場に置くという意味です。
それは14章12–15節に記されたバビロンの王に対するさばき(サタンのことを示唆する箇所)に通じる表現です。
創世記によると人間の「堕落」とは、高い所から低い所に「落ちる」というより、「神のようになり、善悪を知るようになる」ことを意味しました (同3:5、22)。私たちは常に成長を目指すべきですが、それが「私だけは特別だ!」という意識になるなら、それは創造主に逆らうという最も大きな罪になります。
たとえば、真の科学者や哲学者は、「研究すれば研究するほど、分からないことが増えてくる……」と言います。真の成長とは、自分の限界を深く自覚することであるはずですが、中途半端な成長は人を傲慢に導くと言えます。
実際にパウロも、「自分が何かを知っていると思う人がいたら、その人は、知るべきほどのことをまだ知らないのです」と、人間の知識の限界を示しながら、「しかし、だれかが神を愛するなら、その人は神に知られています」と、神への愛こそが何よりの人生の基礎となることを語っています (Ⅰコリント8:2、3)。
神は、安逸をむさぼって「国々の女王」と誇っている者に、「これら二つのことが一日のうちに、瞬く間にあなたを襲う。子を失い、やもめになることが」(47:9) と、彼女の人生の土台がいかに脆いものかを指摘します。
その上で、彼女たちの宗教がそれに対して何の役にも立たないということを、「どんなに多く呪術を行っても、どんなに呪文の力が強くとも、これらは突然、あなたを襲う」と、皮肉を込めて描きます。
なお、バビロン帝国の遺産は、今も身近なところにあります。十二星座を用いての星占いは、この帝国に由来します。実際に、現在の天文学の基礎はバビロン帝国によって作られました。一年が12カ月、一週間が七日、角度の1周は360度という概念、また惑星の会合周期や日食予報などが計算され、粘土板にもその数字が残されていると言われます。
それにしても今も、「あなたの星座は、牡羊座ですね。今日のあなたの運勢は……」などという占いに耳を傾ける人が身近に数多くいますが、天体の法則を把握したと誇っていたバビロン帝国の中東支配はたった七十年間で終わり、史上稀なほどはかないものでした。
47章10節では、彼らの愚かさが、「あなたは自分の悪の中で安心し、『私を見る者はいない』と言う」と指摘されます。これは8節で「安心して住み」と言われたことに関係し、自分を断罪する者はいないと安逸を貪っていることを皮肉った表現です。
人は、自分が人から評価されていることを意識し、それが道徳的な制御力になります。日本的に言うと、「恥を知る」ということです。しかし、バビロンの貴族たちは、自分をこの世の価値観から超越した者としてしまった結果、恥知らずな行動を取りながら、なお「安心して」いました。
これはかつて、日本軍の指導部が恥知らずな残虐行為を自国民にも他国民にも行いながら、「神国日本は無敵である!」などと豪語していたことに似ています。
そして、そのようになった原因を、神は、「あなたの知恵と知識、これがあなたを迷わせた」と皮肉を込めて言います。中途半端な「知恵と知識」は、人間を傲慢にしてしまいます。
そして彼らの愚かさが再び、「そして、あなたは心の中で言う。『私だけだ。他にはいない』」と描かれます。
それに対し先の場合と同じように、「しかし、わざわいがあなたを襲う。それを払いのけるまじないをあなたは知らない。災難があなたに降りかかるが、避けることはできない。破滅は突然、あなたを襲う。それをあなたは知らない」(47:11) と描かれます。
原文では最後のことばが強調されています。彼らの占星術の知識も「まじない」も何の役にも立たないというのです。
その上で12節では、「さあ、呪文や呪術の数々をもって立ち上がれ。若い時からそれを労してきたように。あるいは役立つかもしれない」と言われますが、これはバビロンの呪術師に対する皮肉です。
神は今、東のペルシア帝国を用いて、瞬く間にバビロン帝国を滅ぼそうとしておられるからです。呪文や呪術の空しさは、すぐに明らかになります。これは今も占星術を生業としている者に適用できることです。
さらに13節では、「助言する者が多すぎて、あなたは疲れている」と言われます。これは多神教に対する最高の皮肉とも言えましょう。
多くの神々を持つことと、自分を神とすることは相反するようで、同じことです。それは、自分を世界の中心において、自分に都合の良い教えだけを集め、自分の中で統合しようとする試みです。あなたの周りにも、「あの先生はこう言っている、この先生はこう言っていた」などと多くの情報を知っていても、「では、あなたは……」と聞くと答えに窮する人がいることでしょう。
しかし本当に必要な知識は二つだけです。それは、「創造主を知ることと、自分を知ること」です。それが聖書に記されています。大切なのは、聖書全体を読みながら、そのストーリーの中で自分の人生をとらえなおすことです。いろんな学説を聞いても、それを自分で消化できなければすべては徒労に終わります。
その上で、「さあ、天を観測する者、星を見る者、新月ごとにあなたに起こる事を知らせる者を立たせて、あなたを救わせてみよ」(47:13) と言われますが、これはこの世の知者や哲学者にも当てはめることができます。実際、どんなにこの世を生きる知恵を習得しても、最終的な神のさばきの前では何の役にも立ちません。
なお47章14節での「火」とか「炎」は、神のさばきを意味し、「これは身を暖める炭火でもなく、その前に座れる火でもない」と描かれます。それは私たちにとっては神の最後の審判を指すとも言えましょう。
さらに15節での「あなたが若いときから仕え、取引してきた者たちは、このようになる」とは、あなたの助言者たちが、「自分勝手に迷い出る」ことで、神の厳しいさばきを受けることを示唆しています。
それらをまとめるように「あなたを救う者は一人もいない」(47:15) と、この世の助言者に頼ることの空しさが宣言されます。本当の知者とは、自分の無力さと愚かさを知っている人、イエス・キリスト以外に私たちを救うことができないということを知っている人と言えましょう。
この世にはいろんな助言者がいますが、真の助言者とは、あなたとイエスとの固有の出会いを深めることを助けてくれる人ではないでしょうか。
3.「今から、新しいこと、秘め事を聞かせよう。それらをあなたは知らない」
48章の初めで、「これを聞け」と厳かに命じられています。それは「ヤコブの家」「イスラエルの名で呼ばれる者」が、「聞くべきことを聞いていない」という現実があるからです。
なお「ユダの源から出て」とは2節の「彼らは聖なる都の出だと自称し」と同じく、自分たちがダビデ王家やエルサレム出身であることを誇るばかりの者たちへの非難です。
そのことが、「あなたは……主 (ヤハウェ) の御名によって誓い、イスラエルの神を告白するが、誠実(真実)をもってせず、また正義をもってしない」と言われます。それは彼らが、自分たちの立場に安住し、神の愛に応答する責任を忘れていたからです。
それがさらに2節では「その名が万軍の主 (ヤハウェ) であるイスラエルの神に寄りかかっている」と描かれます。「神に寄りかかる」こと自体は正しいのですが、主 (ヤハウェ) が求める「誠実」も「正義」も軽んじてしまうことが問題です。
「かつて起こったこと(先のこと)は、前からわたしが告げていた。それらはわたしの口から出て、それらを聞かせていた。にわかに、わたしは行い、それは成就した」(48:3) とは、イスラエル王国の没落からバビロン捕囚、またそれからの回復のすべてが、既にレビ記や申命記に記されていたということを示しています。
特にイザヤの活躍したダビデ王国の没落の過程では、エルサレムの住民はアッシリア、バビロン、エジプトのような大国のご機嫌を取り、それらの国々の偶像にも敬意を払うようなことをしていました。バビロンの支配が広がるとバビロンの神が、ペルシア帝国が支配権を持つとペルシアの神が崇められるというのは当時の世界の常識でした。
それを前提に主 (ヤハウェ) は、「あなたが頑なであり、首筋は鉄の腱、額は青銅だと知っているので、かねてからあなたに告げ、まだ起こらないうちに聞かせたのだ。『私の偶像がこれをした』とか、『私の彫像や鋳た像がこれを命じた』とか言わせないためだ」(48:4、5) と、ご自分の預言の意味を説明されます。
歴史上、何よりも不思議なのは、イスラエルの民が、自分たちの神殿を破壊された後で、支配者の国々の偶像を崇める代わりに、それを自分たちの神、主 (ヤハウェ) のさばきとして受け止めたことです。それは彼らが、あらゆるわざわいが既にモーセの時代から警告されていたことの成就だと知ったからです。
そして「あなたは聞いた。さあ、これらすべてを見よ」(48:6) とは、その事実を認めるようにとの迫りであり、また「あなたがたは、告げ知らせないのか」とは、彼らがその後、自分たちの神、主 (ヤハウェ) こそ、全世界の支配者、歴史の支配者であることを告げ知らせるべきであるとの勧めです。
そして主 (ヤハウェ) は、「今から、新しいこと、秘め事を聞かせよう。それらをあなたは知らない」(48:6) と言われます。これは、異教徒であるペルシア王キュロスによって救いをもたらすという不思議です。
確かに申命記30章4節にも、「たとえ、あなたが天の果てに追いやられていても、あなたの神、主 (ヤハウェ) は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻される」と預言されていましたが、そのために主が異教徒の王を用いるなどとは、誰も予想もできません。
そのことが、「それは今、創造された。ずっと前からではない。今日まで、あなたはこれを聞いたこともない。『ああ、私は知っていた』と言わせないためだ」(48:7) と描かれます。なぜなら、そのような不思議な救いのご計画がイスラエルの耳に届く前に、彼らがエルサレムの滅亡を、主 (ヤハウェ) のさばきであると心の底から反省することが必要だからです。
私たちは過去を反省しながらも、未来については、先入観を持たずに神のみわざを期待する必要があります。
残念ながら、今も「先のこと」と「新しいこと」の区別をつけられない人が多くおられます。私たちが歴史を通して学ぶことができるのは、失敗には共通の法則があるということです。しかし過去の成功例を前提に将来を決めようとすると、時代錯誤な決断をして失敗をします。
イスラエルの民が、神の救いのみわざが「日々新しい」と心から知っていたとしたら、ローマ帝国に無謀な戦いを挑んで、二千年間の流浪の民になることはありませんでした。それは、日本の第二次大戦の悲劇が、日露戦争に勝利したことに酔いしれたことから始まっているのに似ています。
失敗の共通法則はあっても、成功の法則は日々新しいということを忘れてはなりません。既成概念に囚われている人は、時代の流れから取り残されます。今は特にそれが加速されています。
それは主 (ヤハウェ) が、「先のことを思い出すな。昔のことを思い巡らすな。見よ。新しいことをわたしは行う。今、もうそれが芽生えている」(43:18、19) と言われた通りです。
なお、主 (ヤハウェ) はイスラエルの失敗の根本的な原因をまず、「あなたは聞いたこともなく、知っていたこともない。ずっと前から、あなたの耳は開かれていなかった」と、彼らの「聞く姿勢」の欠如にあると言われます (48:8)。
その上で主はその当然の帰結として、「確かにわたしは知っていた。あなたがきっと裏切ること、母の胎内にいる時からそむく者と呼ばれていることを」と宣言されます。実際、人は何かの失敗をしたとき「私としたことが……」と言いますが、多くの場合は、失敗すべくして失敗しています。
ただそこで主 (ヤハウェ) はご自身の民に向かって、「わたしの名のために怒りを遅らせ、わたしの栄誉のためにそれを抑えて、あなたを断ち滅ぼさなかった」(48:9) と言われます。それは、彼らを消してしまうなら、世界の人々はイスラエルの神を知ることができなくなるからです。
ただし主 (ヤハウェ) はご自身に立ち返らせるために、ときに応じて怒りを発せられます。それは、人は基本的に自分で痛い目に会うまで、生き方を変えようとは思わないのが常だからです。しかしそれを過度に恐れる必要はありません。私たちが主にすがっている限り、主はご自身の栄誉のために私たちを守り、助けてくださるからです。
そして主 (ヤハウェ) は、「見よ。わたしはあなたを練ったが、銀のようにではない」(48:10) と言われます。銀の場合は溶けますが、主は私たちをそこまでは溶かしません。
そのことが、「わたしは苦しみの炉であなたを試した。わたしのために、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしの栄光を、他の者に与えはしない」(48:10、11) と言われます。
主 (ヤハウェ) はイスラエルが苦難を通して主に立ち返り、それによって主の栄光が全世界で崇められることを願っておられました。なお、主の救いのご計画は、私たち自身の幸せというより、ご自身の栄光のためにあるということは理解し難いことです。
しかしそれこそ私たちが自分自身から自由にされる道、神の平和(シャローム)が世界に広がる道なのです。自分の幸せのために神を求めている人には、神が見えなくなります。なぜなら、目の前には不条理が消えることがないからです。
そればかりか「私たちの信仰の程度に応じて、神は幸せを与えてくださるはず……」などと思い込んでいると、真面目な人ほど息が詰まります。しかし主 (ヤハウェ) が、私たちの状況に無関係に、ご自身の理由で私たちを守ってくださると分かるなら、希望を持つことができます。
主の祈りの第一は、「あなたの御名が崇められ(聖とされ)ますように」というものです。私たちが神のあわれみなしに生きて行けると思うことこそ、もっとも神を侮辱することです。
自分を神のようにして、心の中で、「私だけだ。他にはいない」と言っていたバビロンはまたたくまに滅びました。バビロンで発達した占星術は何の役にも立ちませんでした。それは、明日のことは誰にもわからないとからです。
一方、私たちの犯す様々な罪や失敗は、創造主にとっては意外なことでもありません。私たちが自分の愚かさや弱さを認め、主の前に謙遜になることこそ、主の御名が私たちの心の中で聖とされることの始まりです。
その意味で自分の人生が順調と思うときこそ、危ない所に立っています。彼らは神を求めなくなるからです。しかし主は、心の中で主の御名があがめられている者の生涯を、守り通し、祝福してくださいます。