最近、少し前に読んだ本を読み返して、改めて心に留まったことがあります(ストレスを力に変える:ケリー・マクゴニガル著)。昔から、ストレスがどれだけ身体に悪いかということが言われます。確かに、様々な病の基本的原因の中に、ストレスがあるとも言われます。
ただそこで、「『ストレスは健康に悪い』と思うと死亡リスクが高まる」という調査結果があります。そこでは、「ストレスは健康に悪い」と思っていなかった人は、死亡リスクが低かったという現実があります。
実際、いつも食事を中心に健康に驚くほど気を配っている人が、かえって早死にするという事例もあります。それはいつも健康被害という不安にばかり目が向かうからです。たとえば、タバコの包装紙に健康被害の警告が大きく記されていますが、喫煙者にはかえって、「猛烈にタバコを吸いたい」という気持ちが起こされるという研究結果があります。それは、そこで恐怖が煽られることで、かえって不安な気持ちを落ち着かせるためにタバコを吸いたいという気持ちを刺激するそうです。
同じように、ジャンクフードが身体に悪いと言われれば言われるほど、それがストレスになって、人々をジャンクフードに向かわせるという効果があると言われます。
私たちはこの三年余り、新型コロナ感染対策に万全の注意を払って来ました。ただ、クリスチャン新聞福音版8月号のコラムに僕が書いた記事をお読みいただきたいのですが、安心安全の保障を求めることが「いのちの喜び」を消してしまうという逆説があります。村上春樹の新作「街とその不確かな壁」は、その問題を取り扱っていると思われます。
私たちはこの地に生きる限り、いろんな危険にさらされており、ストレスがなくなることはありません。もちろん、感染リスクを科学的に把握し、身体の弱い方の前でマスクをするというのは、当然の務めですが、過度に感染リスクを恐れて、求められている働きができなくなると、そちらの方がはるかに大きな健康被害をもたらすことでしょう。なぜなら人は、いつも誰かのお役に立っているという感覚こそが生きがいになり、それが心と身体の健康につながるからです。
最近のストレスマネージメントの基本は、ストレスを減らそうとする代わりに、ストレスにどのように向き合うかを教えることになっているようです。
ヘブル人への手紙12章11節は次のように訳すことができます
すべての鍛錬(訓練)は、当座は喜ばしいものではなく、かえって悲しく(苦しく)思えるものですが、後になると平安の実を、これによって鍛えられた人々に義を結ばせます。
ここでの鍛錬(訓練)とは、まさに私たちにとってのストレスとも言えましょう。それは、筋肉トレーニングが、筋繊維の破断と修復によって筋肉を大きくすることに似ています。
正直、僕は、訓練とか鍛錬ということばが好きではありませんでした。しかし、ストレスが大きくかかった時期を振り返りながら、それを通して自分をより深く知ることができ、新しい視点が開けたことを思わされます。
ストレスや危険を避けることよりも、今、自分に何が問われているか、何をするように召されているかに目を開くことの方がずっと大切だと思われます。