「外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」〜Ⅱコリント4:16

昨日は5月の引っ越し以来、数カ月ぶりにゆっくりとでき、スポーツクラブでの運動の後、洋子と二人で映画を見に行くことができました。「インディー・ジョーンズと運命のダイヤル」です。何と主演のハリソン・フォードは、つい先週81歳の誕生日を迎えたばかりです。「自らもスタントを行う驚きの80歳」という評価もあります。

実際の年齢に関わりなく、急速な身体の衰えや病いにおかされる人もいますから、「高齢になってもこんなに元気にすることが可能……」という感じで報じられると、多くの弱さを抱えた方には、かえってつらい思いをさせてしまうことになりましょう。人は、年相応を生き方をするというのは、人生の大切な知恵ですから、高齢になっての体力の自慢をすることは、かえって「はた迷惑……」ということもありましょう。

ただ、私たちが注意すべきなのは、「自分はもう社会の役に立つことなどできない……」と、自分の可能性を閉じてしまうことなのかと思います。

聖書には、イエスを自分の人生の主と告白する者の生き方が、「たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています」(Ⅱコリント4:16) と記されています。

「内なる人が日々新たにされる」と言われるのは、イエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が私たちのうちに住んでおられるからです (ローマ8:11)。私たちの内側にはすでに復活のいのちが生きています。

多くの人は、自分の気力も体力も衰え、人々の重荷となり、その存在が迷惑がられてしまうことを「恥じて」います。この誤った恥の意識が、引退年齢を超えた多くの人々を孤立させていると言われています。僕の場合は今年70歳を迎えたばかりですが、この日本人の意識に住みつき、人々を孤立に追いやる恥の意識を、聖書の視点から解説する本を書きたいという熱い思いがあります。恥の問題は、35年前の神学校での のテーマでした。それは下手な字による手書きの論文でしたが、それを誰もが理解できる内容と、その後の発見も含めた分かりやすい書物にしたいと心から願っています。

ポール・トゥルニエというクリスチャンの精神科医が、老いることに関して注意すべきことを次のように記しています

大抵の老人たちの性格には、若い頃彼らが示していた傾向が特に顕著になり──しばしば戯画化されて──深められているのが見てとれます。自己中心的だった人は年齢がすすめばますますその程度がひどくなり、高潔な性格の持ち主が老人になると、気立ての良い親切さが深まり、自分の窮乏や孤独をほがらかに肯定することに全力をあげるようになります。
 このようなわけで、光と影とがちょうど半分ずつに均衡を保っているような平均的な老人というものはごくにまれにしかいません。このように老年期は、人生の途上ですでに醸成されているのであり、現実のものとなるまえにすでに、ゆくゆく現れ出てくる姿が刻印されているのです。

ポール・トゥルニエ「人生の四季ー発展と成熟」 三浦安子訳 1970年ヨルダン社 P134

ただこれは、高齢になったら若い頃の自分が現れるだけだという、運命論的な意味ではなく、私たちが現在、どのように生きているか、どのように心を開き続けるかが、自分の老齢期を決めるという前向きな意味として記されています。その気づきは遅すぎるということはありません。

復活の霊をいただいている私たちは、日々新たになることができます。歳を重ねても私たちには生きる使命があります。その第一は、周りの世界のために、また身近な人々の痛みを自分の痛みとしながら祈り続けるということではないでしょうか……人々や世界の苦難を自業自得と断罪する代わりに、アダム以来の罪の累積が、このような問題を生んでいると認め、主の再創造のみわざに期待し続け、祈り続けることではないでしょうか。