ウクライナのゼレンスキー大統領が、広島の原爆資料館を見た後、以下のような演説をしておられます
私は「人影の石」にならんばかりの危機に陥っていたことのある国から来ました。ただし、我が国の人たちは、戦争そのものをただの“影”にするよう、歴史をひっくり返しました
……
この影が、資料館でしか見られない(=新たな「人影の石」が作られない平和な世界になる)ように
この「人影の石」とは、広島に原爆が落とされた朝、当時の住友銀行広島支店の正面玄関の石段で、開店をまって座っておられたご婦人が、一瞬のうちに息を引き取られ、その影だけが残された石段が、資料館に展示されているものです。
先日もご紹介しましたが、村上春樹の新作小説「街とその不確かな壁」に詩篇144篇4節が引用されています。以下のみことばです
人は息にすぎず その日々は影のように過ぎ去ります
その小説はこの三年余りのコロナ自粛下の不自由な生活の中で記されました。そこに「終わらない疫病」という鍵のことばがあります。そして、そこに描かれた架空の街は、その住民を守るため、高い頑丈な壁を作りました。ただ、その街の中に住む人には、一切の「影」がありません。日に照らされても、影ができないのです。その街は安心安全を保障するのですが、そこには生きることの喜びや感動がありません。極めて無感動、無機質な空間となってしまっているのです。
村上春樹は四十年前にも似たような小説を書いていますが、今回は、その影のない街からの脱出が描かれています。
私たちが生きている世界は、様々な危険と隣り合わせです。そして、私たちが「影」を持っている人間であるというのは、真の意味で「生きている」ことの証しでもあります。「人影の石」は、その直前まで「生きていた」ことの証しとしての「影」でした。だからこそ、私たちに原爆の恐ろしさを想起させるモニュメントとなっています。
神様は私たちをあらゆる試練から守ってくださる方ではありません。時に厳しい試練に合わせる方です。ただそこには次のような告白が伴います
あなたがたが経験した試練はみな、人の知らないものではありません。神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。試練とともに脱出の道も備えていてくださいます。
Ⅰコリント10:13
私たちは確かに、この世界では、事故や疫病によって命を落とすことはあります。しかし、神は私たちに脱出の道としての「永遠のいのち(復活のいのち)」を保証してくださいました。
安心安全ではあっても「何の感動もないいのち」ではなく、不安に圧倒されるような中でも、そこで神の目に見えない守りの壁を体験できる、そのような、日々の感動に満ちた人生を与えてくださっています。
これからの人生をより豊かなものにする鍵は、安心安全ではなく、最終的な神の守りを期待して、この世の危険の中に歩み出ることではないでしょうか。