今週の月曜、火曜日とある教派の牧師研修会で拙著「心が傷つきやすい人への福音」からお話しさせていただく機会がありました。とっても素晴らしい反応をいただいたのですが、肝心の結論部分があまりにも漠然としてしまった気がして、ちょっと後悔しています。それで改めて、結論部分を書き抜いてみました。
心の傷つきやすさ(無防備さ)の核には、恥、恐れ、自分の無価値観などがありますが、それは同時に、喜び、創造性、所属意識、愛、信仰などの誕生の場でもあります。この社会は、傷つきやすさを麻痺させる知恵を教えますが、人間の心は、傷つく感情を麻痺させようとすると、喜びや愛をも感じなくなる傾向があります。痛みを抑圧すると、喜びもなくなるのです。痛みに耐えるために必要なことは何よりも、日々の生活に与えられた、ごく普通の恵みと思えることに感謝し続けることです。傷つくことを受け入れるには何よりも勇気が必要です。しかし、あなたの心を傷つきやすくするものには、同時に、あなたを美しくする力があります。
私たちの主イエスは、あえて傷つきやすい者となってくださいました。キリストに倣うとは、この世の不条理のただ中に身を置いて傷つくということなのかもしれません。しかも、私たちは傷を負う中で、イエスとの交わりを深めることができます。エレミヤの哀歌三章の終わりで、エルサレムを滅ぼした異教徒に対するさばきが、「横着な心を彼らに与え、彼らにのろいを下してください」(3:65、新改訳第三版) と願われていました。これは2017年版では「彼らの心に覆いをかけ」と訳されたように、「横着な心」には、「覆いをかぶされた心」という意味があります。彼らの心が繊細で柔らかいなら、彼らはすぐに神に悔い改めます。するとあわれみ深い神は、彼らを赦してしまいます。それでは期待していた神の復讐が実現しません。それで彼は被害者の正直な気持ちとして、「彼らが傲慢のままいて、神にさばかれる」ということを願ったのです。この著者は同胞の痛みや敵の嘲りに深く傷つく「繊細な心」をもって主に祈っていますが、それこそ神の賜物といえましょう。あなたは「横着な心」と「繊細な心」のどちらを望んでいるでしょうか。私たちの身近にも「心の覆いが取られたことで、自由に自分の気持ちを表現できるようになった」という人がいます。
私が牧師としての働きを始めて六、七年が経った頃、大きな試練の中に置かれました。そのときドイツの宣教師から感動的な曲を紹介してもらいました。そのドイツ語の曲を何度も聞きながら、感動に胸をふるわせました。それを「イエス、あなたのもとへ」という題の曲に訳し、編曲し、2007年の拙著「心を生かす祈りー二十の詩篇の私訳交読文と解説 付録「ドイツコラールの翻訳」の発行に際し、作者の許可を得て掲載させていただきました。
多くの讃美歌で、このままの自分を神が愛しておられるという歌詞と、このままの自分を神に差し出すときに、「このままの私」から神に喜ばれる「最高の私」へと造り変えていただくことができるという意味の歌詞が重なって描かれることは稀かと思われます。ここに「心の傷つきやすい私」が、神の働きのために用いられる「最高の私」へと造り変えられ、用いられるという計画が美しく歌われています。しかも私たちにとっての「救い」のゴールは、「天のイエスのもとで永遠に安らぐ」という個人的なものではなく、この世界に神の平和(シャローム)が実現されることにあります。
遠藤周作の小説「沈黙」に、江戸幕府の役人が宣教師に向かって「パードレ、お前らのためにな、お前らがこの日本国に身勝手な夢を押しつけよるためにな、その夢のためにどれだけ百姓らが迷惑したか考えたか。見い。血がまた流れよる。何も知らぬあの者たちの血がまた流れよる……」と語る場面があります。多くの日本人は、「おまえの信仰のせいで、みんなが苦しむ」ということばに敏感に反応します。もし私たちが、キリストにある「救い」を「自分のたましいの救い」という観点に留めて考えなら、信仰とは、自分の夢の実現のため、また自分一人の「救い」のために、周りに迷惑をかけるという自己中心の極みにもなり得ます。しかし、神の救いのご計画は、世界全体のシャローム(平和)の完成にあります。そこでは、あなたやあなたの友が「苦しむ」こと、「悩む」ことが、またそれを他の人に分かち合うことが、多くの人に共感を生み、世界を変えるきっかけになると言えるのではないでしょうか。たとえ周りの人が強引に二者択一の答えを迫ってきたとしても、敏感気質の人は、そこに欺瞞があることにすぐに気づくことができるのではないでしょうか。あなたが素朴に感じる何らかの疑問は、あなたや友人の心だけに留めるべきものではなく、皆がともに考えるべきことではないでしょうか。葛藤を味わったままの自分をイエスに差し出すことがすべての出発点です。そこで何よりも求められるのは、ただ、「正直」であるということだけです。
以下にそのドイツ語の直訳を記し、その後に、原作者の許可を得て、日本語で歌うことができるように編曲したものをご紹介します。ここに「心が傷つきやすい人への福音」の核心が歌われているように思います。じっくりと味わっていただけるなら幸いです
イエス、あなたのもとへ
Jesus, zu dir kann ich so kommen, wie ich bin
1989年 Manfred Siebald作詞
- イエス様 あなたのもとに私は、このままの姿で来ることができるのですね。
あなたは「だれもが来ていいよ」と言われたのですから……。
私はあなたに、まず「より善い人になることができる」と証明する必要はありません。
私を御前でより善くするためのことを、ずっと前に十字架で成し遂げてくださいました。
あなたは私が戸惑っているのをご覧になって、御手を差し伸べてくださいました。
それで、私はこのままの姿で、あなたのもとに来ることができます。 - イエス様、あなたに私は、このままの姿の自分を差し出してもよいのですね。
私はあなたの前で、正直であること以上の何も求められてはいないのですから。
あなたに私は何も隠す必要はありません。ずっと前から私をご存じなのですから。
あなたは見ておられます、何があなたのもとに引き寄せ、何があなたから引き離すかを。
ですから私は御前に、自分の人生の光の部分と闇の部分をそのまま置きます。
それは、あなたのもとにこのままの私を差し出すようにと招かれているからです。 - イエス様、あなたの前で私は、このままの姿に留まる必要はないのですね。
どうか、私の中から自分と他の人を壊してしまうものを、取り去ってください。
あなたはこの私から、新しいひとりの人を、造り出そうと望んでおられます。
その人は、あなたに喜ばれるあなたの手による手紙で、世界に対する愛で満ちています。
あなたはずっと前から、私に対しての最高のご計画をお持ちでした。
ですから私は、このままの姿に留まる必要はありません。
以下に、一昨年11月にコロナ下で開かれた大きな集会のビデオをご紹介します。ドイツ語の歌詞とメロディーを味わっていただくことができます