先日、ちょっと嬉しい話がありました。拙著「心の傷つきやすい人への福音」は、キリスト教書店本屋大賞候補の11作品には惜しくも選ばれませんでしたが、次点の二作品の中には入って「キラリ本」として選ばれたとのことです。
その意味は、「惜しくもノミネートされなかったけれど、あなたのキリスト教書ライブラリーにぜひ加えてほしい良書リストです」の意味だそうです。キリスト教、ライブラリー、リストの頭文字を取った形です。
来週月、火曜日にも 日本のある大きな教会グループの牧師研修会で Zoom を含め45名程度の牧師の方々に、この本のエッセンスをお話しさせていただくことになっています。
私たちの心は、どんなときに傷つくでしょうか……それは自分にとってほんとうに大切なものを否定されたときではないでしょうか。ですから、私たちは自分が人から無価値と見られるときに、心が深く傷つきます。
しかも、多くの人々は、自分の心が簡単に傷つくという弱さ自体を恥じる傾向があり、それが「強がり」として現れます。そして、神の御子イエスは、神に愛されているという深い自覚を持っていたので、「心が傷つかない」方である……と思い込んでいる場合があります。
しかし、それは事実ではありません。詳しくは拙著を見ていただきたいのですが、イエス様が引用された詩篇、またイエス様の御苦しみを預言的に記している詩篇には、イエスがいかに深く傷ついておられたかが明らかに描かれています。
イエス様は、人々の嘲りや嘲笑に、深く傷つきながら、祈っておられたのです。そのことがヘブル人への手紙5章7節には次のように描かれています
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。
つまり、イエスは、心が深く傷つきながら、「大きな叫び声と涙をもって」、その気持ちを父なる神に訴えられ、それが聞き届けられた……ということがご自身の復活として表されているのです。
多くの人が「罪の赦し」を求めるのは、自分の罪のゆえに神のさばきを受け、地獄に落とされるから……と言えましょうが、イザヤ書の最終聖句は、永遠の地獄の刑罰を以下のように描いています
すべての肉なる者がわたしの前に来て礼拝する。
ー 主は言われる ー
彼らは出て行って、わたしに背いた者たちの屍(しかばね)を見る。
そのうじ虫は死なず、その日も消えず、それはすべての肉なる者の嫌悪の的となる。
イザヤ66:23、24
この最後のことばは 聖書協会共同訳では「それは、すべての肉なる者に忌み嫌われる」と記されます。
私たちは人々から「忌み嫌われる」存在になることを何よりも恐れます。私たちの「心が傷つく」のは、自分が「忌み嫌われる」ことへの反応とも言えましょう。そして、イエスの十字架は、人々から忌み嫌われたことの象徴です。ただし、イエスの復活は、イエスは神から愛されていたことの最大の証しです。
心が傷つくことは、イエスとの交わりを深めるチャンスです。地獄を恐れるよりも、地獄の本質を知るべきです。そこは、神への礼拝を軽蔑する者の行き着く場所です。
そして、私たちはみな心が傷つきますが、そこでこそイエスに倣った対応が求められています。信仰とは、傷つきながら、それを癒やしてくださる方にすがることに他なりません。自分の傷つきやすさを認めることこそ、イエス様との交わりを深めるという祈りの生活の始まりとなります。