私たちはみな、様々な「恐れ」に囚われて生きています。しかし私は長い間、自分の心の中にある漠然として「恐れ」を無視して生きてきました。傍から見ると、自分の道を次々と切り開いてきたようでも、実際は、「恐れ」の気持ちに駆り立てられながら、一生懸命に勉強をし、仕事もしてきました。
その心の奥底にある「恐れ」が顕になるのは、ひとりで静まろうとしたときでした。ですから私は静まることが嫌いでした。
人の目から強く見える人でも、自分の内側にとてつもない恐怖心を抱えながら生きています。そして、その恐怖心が、人をしばしば攻撃に駆り立て、また反対に、愛の行いをすることを躊躇させます。私たちが神と人とを真の意味で愛することができないのは、「恐れ」に囚われているからです。
しかし、そんな私たち一人ひとりに、天地万物の創造主である神が、「たじろぐな。わたしがあなたの神だから……」と語りかけてくださいます。あなたを召してくださった神は、あなたが想像もできないほどに、力強いお方です。
1.「あなたは、わたしのしもべ。わたしは、あなたを選んで捨てなかった」
神はイスラエルの人々の目を全世界へと向けさせながら、「島々よ……諸国の民よ」と呼びかけます (41:1、5)。なお「諸国」や「地の果て」が、「島々」と呼ばれるのは、地中海を意識しているためでしょう。ソロモンは海上貿易で大きな富を得ましたが、エジプトやメソポタミヤの国々(アッシリア、バビロン、ペルシアなど)より遠い国々は、「島々」、また「地の果て」として一括りで呼ばれたのでしょう。
そして、「われわれは、ともに、さばきに近づこう」と語りかけられるのは、全世界への「さばき」、すなわち、神の公正なご支配を見たいという思いの現れです。
さらに「だれが、人を東から起こし……」(41:2) と記されますが、主 (ヤハウェ) は、敢えてその「人」の名を記さないことで、偉大な王よりも、ご自身こそが歴史の支配者であることを示しておられます。
新改訳は、「その行く先々で勝利を収めさせる」と訳しますが、「義(正義)が彼をその足元に呼ぶ」の方が原文に忠実な訳です。これは「神の義」が彼に勝利を与えているということです。
それにしても、このメッセージは自業自得で国を失ったイスラエルの民に向けて語られています。彼らの名が歴史から消え去ると思われたそのとき、神が彼らのための「救い」をもたらしてくださるというのです。
私たちは切羽詰った状況に追い込まれ、そのとき目の前の人が助けの手を差し伸べてくれるということがあったとしても、その背後におられるのは神ご自身です。その人が信者か未信者かなどというのは関係ありません。イスラエルを解放したペルシアの王キュロスは異教徒に過ぎなかったのですから。
そのことが41章4節では、「だれが……これをなし、これらを行なったのか」と言い換えられ、その答えが、「わたしが主 (ヤハウェ) 。初めであり、終わりとともにある。わたしがそれだ」という宣言としてまとめられます。
そして、この歴史を動かす神のみわざを覚えることこそ、1節の「わたしの前で静まれ。島々よ。諸国の民よ。力を新たにせよ」という呼びかけです。
全世界の創造主の御前に静まることこそ、「力を新たに」させていただくための何よりの秘訣です。そこには公正な「さばき」が実現するからです。
その上で、5–7節では、2–4節に述べられた偉大な王の出現が、島々や地の果ての人々を、更なる偶像礼拝に駆り立てるという皮肉が描かれます。それらの偶像は、力への恐れと互いの弱さの反映でしかありません。
たとえば日本で奈良の大仏を発願したのは聖武天皇ですが、彼は底知れぬ不安の虜となっていたと言われます。彼は藤原氏の支配の強い奈良から何度も遷都をしたあげく、飢饉や疫病、天変地異が続く中で、民衆の恐怖心に訴えかけながら協力を取り付け、国家財政では賄いきれない一大事業を成し遂げました。
彼らは、6節にあるように、「互いに仲間を助け合い、兄弟に『強くあれ』と言いながら」、途方もなく巨大な仏像を作り上げました。しかしそれから30年余りで都は京都に移されます。
41章8–20節では、無力なイスラエルに対する慰めが語られます。
8節の始まりには、「だが、あなたは」という神からの呼びかけが記され、それが転換点になっています。そして主 (ヤハウェ) は彼らを、「わたしのしもべ」「わたしが選んだ」「わたしの友アブラハムの裔(すえ)」と繰り返し呼びかけています。そこには、全世界の創造主がイスラエルをかけがえのない宝物と見て、世の権力者たちの手から守るという熱い思いが込められています。
彼らは「地の果て」(41:9) に追い散らされていても、神が彼らをとらえ、約束の地に連れ戻してくださいます。そのことが、「わたしはあなたを選んで、退けなかった」と言われます。それは神が一人のアブラハムからイスラエルという奇跡の民を造り出されたという歴史に現されます。
そして、そのような神の一方的な愛を前提として、「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから」(41:10) と語られます。
今から約30年前、あるご高齢の方に洗礼を授けさせていただきました。彼はこのみことばを暗誦し、ただこのみことば一つによって心の底から神と出会っているように思えました。ただ、最初は、正直、イエス・キリストの贖いのみわざをどれだけご理解いただけたか不安でした。教科書的に、「あなたの罪が、イエスを十字架にかけたのです」と納得させてさしあげようとしたら、「私はこれまで誠実一筋に生きてきたつもりです……」と切々と訴えて来られました。
これは、教科書的には、「あなたには罪の自覚が足りない」と言われることになるかもしれません。しかし、私などよりずっと、ご自分の弱さや頼りなさを自覚しておられました。私たちは神の救いを、ある神学的な枠組におさめようとする傾向があります。
しかし、この10節のみことばが心の奥底に響いていることこそ、神の救いがこの方に及んでいるしるしであると、聖書を読めば読むほどわかるようになりました。
人間的な誇りにより頼む人は、「わたしのしもべ」と呼ばれること自体に喜びを感じることができません。しかし、神のしもべと呼ばれることに喜びを見出す者に対し、神は、「わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」と言われます。
「義の右の手」というのは先の「義が彼を足元に呼ぶ」ということばに通じます。私たちが神の「救い」にあずかることができるのは、私たちの側に十分な罪の自覚があるからでも、また反対に、正義があるからでもありません。一方的に、神の義の右の手が差し伸べられたことから救いが始まるのです。
罪の自覚や本当の意味での自分の弱さの自覚は、救いを受けた結果として生まれるものです。救いの主導権は、私たちではなく、神の側にあります。そのことが先の「わたしはあなたを選んで、退けなかった」という語りかけになっているのです。
2.「恐れるな。わたしが、あなたを助ける」
そして、「見よ。あなたに向かっていきりたつ者はみな恥を見て辱められ、あなたと争う者たちは、無いもののようになって滅びる」(41:11) と宣言されます。これは神がイスラエルの味方になってくださるという意味で、彼らの父アブラハムへの約束に基づきます (創世記12:3)。パウロも、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31) と言っています。
その上で主は、「わたしは主 (ヤハウェ) 、あなたの神。あなたの右の手を堅く握り、そして言う、『恐れるな。わたしが、あなたを助ける。恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々よ。わたしが、あなたを助ける』」(41:13、14) と言われます。
愚かなプライドに囚われている人は、「恐れるな。虫けらのヤコブ」(41:14) と言われて気分を害するばかりで、「わたしが、あなたを助ける」という繰り返しに励ましを見出すことはできません。
イスラエルは当時の世界から見たら「虫けら」のようにちっぽけな存在でした。しかし、主が彼らを「選び」、彼らの「味方」となってくださいました。ここではその主の主導権を明確にするため、「わたしが」ということばが強調されています。
その上で、主ご自身が彼らをしっかりととらえていてくださるので、彼らは周囲の大国をも圧倒することができるということが比喩的に41章15、16節で述べられます。
イスラエルが「鋭く新しい両刃の打穀機」とされるとは、「神の民」が敵を圧倒するようすを描いたものですが、これは大国から踏みつけられている弱小民族にとっては身近な表現でした。
そして、8節の「だが、あなたは」という呼びかけから始まった神の慰めのことばが、「あなたは、主 (ヤハウェ) にあって喜び、イスラエルの聖なる者によって誇る」(41:16) と締めくくられます。これは、自分の無力さに絶望している民にとっての何よりの希望です。
そして主は、「水を求め」「渇き」に苦しむ者に、「わたし、主 (ヤハウェ) が、彼らに答える。イスラエルの神は、彼らを見捨てない」と断言し (41:17)、また「わたしは裸の丘に川を開く。平地のただ中には泉を。荒野を水のある沢とし、砂漠の地を水の源とする」(41:18) と言いながら、19節にあるように「荒野」や「荒地」を、ミルトスやもみの木、檜などの七種類の様々な木々で満たすと約束してくださいました。
その上で20節では、「それは彼らがこれを見て、知り、心に留めて、ともに悟るためである、主 (ヤハウェ) の手がこれを成し、イスラエルの聖なる者がこれを創造したことを」とまとめられます。
神の創造のみわざは、「地は茫漠として何もなく」(創1:2) という世界に、光が創造され、海と陸が区別され、ありとあらゆる種類の植物が芽生えるということとして描かれます。それは今もこの地で繰り返されている現実です。
41章21–24節は、偶像の神々に、自分たちが神であることを証明してみよと迫っていることばです。最初に、神ご自身または神の民が偶像の神々に向かって、「あなたがたの証拠を持って来い……後に起ころうとする事を告げよ。前の事は何であったのかを告げよ。そうすれば、われわれもそれを心に留め、後のことを知ることができるだろう」と皮肉をこめて語りかけます。
人は過去を本当の意味で知ることができるなら、未来を知ることができるようになります。ある方が、「イスラエル人は、昔の時を自分の『前にある』現実として見る……それはちょうどボートの漕ぎ手のようなもので、未来の方へ背を向けて……前に見えるもの(過去)によって方向を取りながら目標に到達する」と記しています。
私たちも、これまでの歩みを、主がどのように導いてくださったかを覚えることによって、未来の方向が決められるのです。決断は私たちの記憶を基礎になされます。その記憶が「神の光」に照らされている必要があります。
今まで助けてくださった神は、これからも私を助けてくださると信じることができるなら、明日に向かい、神のみこころに従って生きる勇気が沸いてきます。
詩篇の作者も、落ち込めば落ち込むほど、イスラエルの歴史のうちに働いてきた神を見上げました (詩篇77編等)。それは彼らにとっては何よりも出エジプトの記憶でした。
ここで偶像に向かって「良いことでも悪いことでもしてみよ」(41:23) と言われるのは厳しい皮肉です。多くの人々が偶像を拝むのは、それらが善でも悪でも行う力があると信じられているからです。しかし、それらは何もできない「無に等しい」(41:24) 存在に過ぎません。
さらに「あなたがたの行いは空しい。あなたがたを選ぶ者は忌まわしい」という結論は、偶像の空しさと同時に「忌まわしさ」を強調しています。
41章25節では、その対比として、2節の預言を発展させるように、「わたしが北から人を起こすと、彼は来て、日の昇るところから、わたしの名を呼ぶ」と言われます。
東で起こされた王は、イスラエルの北から迫ってきますが、その異教の王が主 (ヤハウェ) の名を呼ぶというのです。
エズラ記の最初には、このイザヤのときから約160年後の事として、「主 (ヤハウェ) はペルシアの王キュロスの霊を奮い立たせた」その結果として、キュロス王が「天の神、主 (ヤハウェ) は、地のすべての王国を私にお与えくださった」と、主の御名を呼びながら、「この方がユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てるよう私を任命された」と述べたと描かれます。
異教の王キュロスが主 (ヤハウェ) の御名を呼びながらエルサレム神殿の再建を命じたというのです。それこそ、主 (ヤハウェ) がこの世界を支配し、この地の歴史を導いておられるというしるしです。
41章26節では、「だれが、初めから告げてわれわれが知るようにしたか、あらかじめわれわれに告げて、『それは正しい(正義だ)』と言うようにしたか。告げた者は一人もいない、聞かせた者も一人もいない、あなたがたの言うことを聞いた者も一人もいない」と記されます。
私たちはときに自分の「正義」の観点から、神のみわざを評価しますが、それこそ本末転倒です。私たちの正義の期待に合うように神が歴史を動かすのではなく、神の「正義」こそが、2節にもあったようにペルシアの王キュロスを足元に従えさせたのです。
私たちの周りには理解できないこと納得できないことが山のようにあります。しかし、それらを一つひとつ判断するよりは Let it be とあるがままに受け止め、神がご自身のときにすべてを納得できるように変えてくださることを信頼しながら、今ここで、神が示してくださった正義の基準に従って歩むのです。過去と他人は変えられませんが、私たちは目の前の右か左を選ぶ自由があります。
3.「見よ。わたしのしもべを……わたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者を」
41章27節は、「初めてシオンに、『見よ。これを見よ』と、エルサレムに良い知らせを伝える者をわたしが置く」と記されます。これはエルサレムへの「よい知らせ」を伝える者を主ご自身が備えてくださるという約束です。
しかし現実は、「見回しても、だれもいない。彼らの中には助言者がいない。わたしが尋ねても返事のできる者が。見よ。彼らはみな偽りで、そのなすところは空しい。彼らの鋳造は風のようで何もない(茫漠としている)」(41:28、29) と描かれる状況があるばかりです。
神は「茫漠」の中に「いのち」を生み出す創造主ですが、偶像の神々は、いのちのない「茫漠」の状態に置かれたままです。そしてそれが、42章の「主のしもべの歌」への導入のことばとなります。救いは、神ご自身の主導権で始まるからです。
42章1–9節は、イザヤが記す四つの「主 (ヤハウェ) のしもべの歌」(この他は49:1–9、50:4–9、52:13–53:12) の最初です。これはキリスト預言ですが、同時に「主 (ヤハウェ) のしもべ」としての私たちに求められる生き方です。そして何よりも、人としてのイエスご自身がこれらの「主 (ヤハウェ) のしもべの歌」を心の底から味わい、そのみことばを実践されたことを忘れてはなりません。
マタイ12:15–21では、この前半の部分が引用されますが、そこでイエスが人々を次々といやしながらも、「ご自身のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた」(同12:16) ことの理由が、このみことばを「成就するためであった」(同12:17) と記されます。
イエスがバプテスマを受けたとき、「神の御霊が鳩のようにくだって……天から……これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がしましたが (マタイ3:16、17)、その背後に42章1節の「見よ。わたしのしもべを……わたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者を。彼の上にわたしの霊を授け」という預言の成就があります。
しかも、私たちがキリストの弟子となるとき、このみことばは私たちへの語りかけになっています。私たちの上に、イエスを導いたのと同じ御霊が宿ってくださったとは何という驚きでしょう。
続く、「彼は国々にさばきをもたらす」とは、この方こそが、この世の不条理を正し、この世に神の正義を実現してくださるという意味です。
しかしその方に関して、「彼は叫ばず、大声をあげず」と描かれているのは不思議です。つまり、救い主の姿は、イエスの時代に期待されていた独立革命軍の指導者のようなものではないと既に記されているのです。
また「傷んだ葦を折ることもなく」とは役に立たない者をも生かすという意味です。アッシリアの王は、エジプトを「いたんだ葦の杖」と呼びました (36:6)。「傷んだ葦」は捨てられて当然ですが、「主 (ヤハウェ) のしもべ」は、そのような者たちにも優しく接してくださいます。
また「衰え行く(くすぶる)燈芯」も早く取り替えたほうが良いようなものですが、救い主はそれさえも大切にして消すことがないというのです。イエス・キリストの不思議は、その「強さ」以前に、「優しさ」にありました。
そのことが、「真実をもってさばき(公正)をもたらす」(42:3) と記されます。これは社会的弱者を守るような正義の実現を意味します。イエスが当時の最下層の人々、取税人や遊女、罪人の友となられたのはこの預言の成就でした。
続けて「傷む」「衰える」ということばが敢えて繰り返されながら、「彼は衰えることも、傷つき果てることもない」(42:4) と描かれます。これは、「主 (ヤハウェ) のしもべ」が、「傷んだ葦、衰え行く燈芯」と同じように見えながら、そこに驚くほどの強さが秘められていたという神秘を示しています。
イエスはゲツセマネの園で、「苦しみもだえ……汗が血のしずくのように地に落ちる」(ルカ22:44) 祈りをささげた後、不当な裁判でも何の弁明もせずに十字架にかけられました。その姿は人々の目には「弱さ」でも、そこには自分の身を守る必要を感じないという真の強さがありました。
パウロもその逆説を、「キリストは弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられます」(Ⅱコリント13:4) と記しています。
42章5節では、「神なる主 (ヤハウェ) は、こう仰せられる」と記された後、その方のことが「天を創造し、これを広げ、地と産物を押し広め、その上に住む人々に息を、そこを歩む者には霊を授ける」と説明されます。
そしてその方への語りかけとして、「わたし、主 (ヤハウェ) は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする」(42:6) と記されます。ここには主 (ヤハウェ) ご自身の主導権が強調されています。
これは私たちにもそのまま適用されることばです。「義(正義)が彼をその足元に呼ぶ」「義の右の手で、あなたを守る」と言われた方が、ここでは、「義をもってあなたを召す」と言われます。
私たちはみな、神の義によって神の働きのために召し出された者です。私たちは「国々の光」とされるために召されています。私たちの人生は、使命を忘れたとたん、不満と退屈に苛まれます。
そして、その具体的な働きが、「それは、見えない目を開き、囚人を牢獄から連れ出すため、闇の中に住む者をその獄屋からも」(42:7) と描かれます。
イエスの贖いのみわざは私たちをサタンの支配から自由にすることにありました。サタンは私たちを盲目にし、この世の成功しか見えなくさせ、死の力によって脅し、私たちの心を「牢獄」に閉じ込めて束縛します。しかしキリストを信じる者の勝利は確定しました。
最後に、「わたしは主 (ヤハウェ) 、それがわたしの名」(42:8) とは、この名の由来、「わたしは、『わたしはある』という者である」(出エジプト3:14) を指すと思われます。それは主が、この世界のすべての源であり、その栄光も栄誉も、この地上のものによって言い表すことができないからです。
また、「先の事は、見よ。すでに起こった」(42:9) とは、主がアッシリアを用いて北王国イスラエルを滅ぼし、またバビロン帝国を用いて南王国ユダを滅ぼしたことを指すと思われます。それらは神の無力どころか、はるか昔のレビ記や申命記の預言が成就したことを意味します。
その上で、「新しいことを、わたしは、告げよう。それが起こる前に、あなたがたに聞かせよう」と言われます。これはペルシア帝国を用いてイスラエルの民を約束の地に戻すことであり、また最終的には、ここでの「主 (ヤハウェ) のしもべ」によって世界を救うことを意味します。
「わたし、主 (ヤハウェ) は、義をもってあなたを召し、あなたの手を握り、あなたを見守り、あなたを民の契約とし、国々の光とする」(42:6) という預言はイエスにおいて成就しました。ただそれは、主の御霊を受けた者にも成就します。
私たちはこの世にあっては「虫けら」のような者かもしれませんが、天地万物の創造主である神が、ご自身の「義の右の手で」守ってくださいます。私たちは、なすべき正しいことがわかっていながら、ひるんだり、たじろいだりしてしまいます。しかし、世界の歴史を導いておられるのは、主 (ヤハウェ) ご自身です。
イザヤの預言の一つひとつが成就しました。ですから、私たちへの約束も必ず成就します。この世の基準で自分の可能性を狭くしてはいけません。
アウシュビッツを生き残ったビクトール・フランクルは、「私の使命は何でしょう……」と尋ねる人に、「あなたが使命を探すのではなく、使命があなたを探している」と言いました。
本日の箇所のキーワードは、「正義」または「義」です。神がその「義」をもって私たちを「選び」、日々、新たな課題を与えてくださいます。今ここでなすべき良いことがわかっていながら「たじろいで」しまってはなりません。神の全能のみわざを見る機会を自分で閉じてはなりません。