受苦日音楽礼拝でのショートメッセージ
今回の受苦日礼拝では、ヨハネ受難曲で用いられている合唱曲を何曲か歌っています。ヨハネ受難曲の最初の合唱曲の歌詞は、ヨハネが描いたイエスの十字架の意味を簡潔に描いています
主 (ヤハウェ) よ、私たちの主 (アドナイ) よ。
御名は全地で、何と威厳に満ちていることでしょう。詩篇8:1
あなたの御苦しみによって示してください。
あなたこそが、まことの神の御子であることを。
それは、すべてのときにおいてのこと、
その低さの極みのときにおいても、
あなたは栄光のうちにあられることを。
イエスは十字架にかけられる前の夜に、目を天に向け、父なる神に向かって、「父よ、時が来ました。子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください。あなたは子に、すべての人を支配する権威をくださいました。それは、あなたが下さったすべての人に、子が永遠のいのちを与えるためです」(ヨハネ17:1、2) と祈っておらました。また、その少し前に、イエスは弟子たちと群衆に向かって、「今、この世に対するさばきが行われ、今、この世を支配するものが追い出されます。わたしが地上から上げられるとき、わたしはすべての人を自分のもとに引き寄せます」(ヨハネ12:31、32) と言われました。イエスが十字架で広がられた両手は、私たちをご自身のもとに招き、私たちに「永遠のいのち」、すなわち、来るべき祝福の世のいのちを与えるためであったというのです。ヨハネが描くイエスの十字架は、まさに全世界の王としての栄光に満ちたものでした。
一方、今、マタイ福音書で描かれたイエスの姿は、すべての弟子たちに逃げられ、また弟子のリーダであったペテロからも、三度にわたって、「そんな人は知らない」と言われた指導者です。人間的に見れば、たった十二人の弟子さえ満足に育てられなかった失敗の指導者とさえ言えましょう。また、裁判の席でも、自分を弁護することができずに、ユダヤ人の宗教指導者の怒りを買うような余計なことを言って、最高議会の全員が、「死刑」で一致するような状況を作り出しました。十字架にかけられながら、散々な嘲りと罵倒のことばを受けます。しかも、十字架に一緒に架けられた強盗からも罵られました。そして、十字架にかけられたとき、昼の十二時から午後の三時まで、闇が全地をおおいました。それは父なる神からの目を背けられたことと思われました。
そして、マタイとマルコの両福音書では、イエスの十字架上のことばがたった一つしか記されていません。それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という、絶望感の告白でした。ただ、それは詩篇22篇の最初のことばで、イエスの一千年前のダビデが記した詩です。すべての人は心の奥底で、神と人から見捨てられることを極度に恐れています。そのような絶望を感じる人は非常に多くいると思われ、特に「見捨てられ不安」こそが、多くの日本人の心の奥底を支配している病理の基本であるとさえ言われます。そしてイエスは、このときすべての人間の代表者として、私たちの根本的な不安を味わいながら、それを神への祈りとしてくださいました。
私たちはイエスが十字架で、どれだけひどい嘲りと罵声を味わったかを知るとき、私たちが人間関係で深く悩んだとき、イエスがその痛みをともに味わっていてくださることが分かります。絶望感と孤独感の中で、イエスがともにいてくださるという慰めを得ることができます。しかも、イエスは、神と人から見捨てられたと絶望する中で、なお、「私の神よ」と必死に呼びかけておられます。これは、見捨てられた理由を尋ねているのではなく、「見捨てないでください」という訴えです。イエスは神から見捨てられたという気持ちを真に味わった上で、なお、「私の神」と呼びかけ、「見捨てないでください」と祈ったのです。そして、イエスが死人の中から三日目によみがえることで、イエスの祈りが神に聞き入れられていたということが明らかになりました。
マタイの福音書が描くイエスの十字架は、暗闇の描写ばかりのようでありながら、最後に、その場面を見ていたローマの百人隊長が、「この方は本当に神の子であった」(マタイ27:54) と告白するところで終わります。当時のローマの軍人が、「神の子」と呼ぶのは、ローマ皇帝を指しての表現もありました。ローマの百人隊長がイエスの十字架を見て、この方を「神の子」と呼んだのは、イエスこそが預言されたイスラエルの王であることを認めたという意味です。それは、イエスが人々の嘲りと、自分の神からも見捨てられたと思わざるを得ない中で、雄々しくそのいのちを全うされたようすを見たからです。百戦錬磨の軍人は、その人の死にざまを見て、その人の真実を見ることができるものです。
つまり、イエスの十字架の栄光を描いたヨハネと、イエスの御苦しみに焦点を当てたマタイはまったく矛盾してはいないです。マタイにおいてもヨハネ受難曲の最初に歌われたように、その低さの極みにおいて、ご自身の栄光を現していたのです。私たちの人生にも、思ってもみなかった苦しみ、また人の誤解を受けて傷つくことは避けられません。しかし、そのような中で、イエスを身近に感じることができるならなんと幸いなことでしょう。イエスの十字架は、敗北ではなく、死の力を持つサタンに対する勝利の宣言でした。そのことをヘブル人への手紙の著者は次のように記しています
子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、これらのものをお持ちになりました。それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を無力化するためであり、また、死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした。
ヘブル2:14、15
サタンは、神に逆らう罪を犯すものを自分の配下に置くことができます。しかし、罪のないイエスを十字架で殺したときに、サタンはイエスとイエスの仲間に対する支配権を失いました。イエスを信じる者は、もうすでに「永遠のいのち」のうちに生きています。二千年前のクリスチャンたちは、ローマ軍の死の脅しに屈することなく、イエスを神として礼拝し続けました。約三百年近い時間が必要でしたが、ついにローマ軍の最高指導者である皇帝自らがイエスを神として認め、ひざまずくことになったのです。
イエスの死の姿に感動したローマの百人隊長の告白は、ついにはローマ皇帝自らの告白へと変わりました。ときに私たちはこの地で、徹底的な孤独感を味わうことがあるかもしれません。まさに神と人から見捨てられたという絶望感です。しかし、その中で私たちは、自分がイエスの御跡に従っているという自覚を持つことができるなら幸いです。
これから歌う讃美歌は、宗教改革者マルティン・ルターが十字架の意味を解説したものです。その背後に、先のヘブル2章14、15節のみことばがあります。誰も「死のとげ」「死の力」を無力化した者はいません。しかし、罪のない神の子キリストが十字架で死んだとき、「死のとげ」は折れ、死の力が無力されました。そこに見えるのは力のない影に過ぎません。十字架は「死の力」と「いのちの力」の戦いでした。そこでいのちの創造主キリストが勝利を収めたのです。4番に歌われるように、罪なき死こそ 死の力を砕きました。まさにそのとき、死は死を呑み込んだのです。
会衆賛美 Ⅱ讃美歌100別訳
- キリスト死にたもう われらの罪負い
主はよみがえりて いのちをたまいぬ
喜びあふれ、御神をたたえ
声上ぐわれらも ハレルヤ - いまだに死のとげ たれも折るを得じ
われらの罪こそ 死の支配招く
脅しの力 襲いかかりぬ
とらわれ人らよ ハレルヤ - 神の子キリスト 死のさばきを受く
死の力 もはや われらに及ばず
残るは すでに、力なき影
とげ今 折れたり ハレルヤ - くすしき戦い 死といのちにあり
いのちは勝ちを得 死を呑み尽くしぬ
罪なき死こそ 死の力砕く
死は死を呑みたり ハレルヤ - まことの過越し 御神の小羊
燃え立つ愛もて 十字架にほふらる
気高きその血 頼れるわれらを
さばきは過越す ハレルヤ