「私たちは、キリストによって救われました」と福音的な信仰者は言いますが、その「救い」とは何を意味するのでしょうか?イザヤ書には驚くほど多面的な「救い」の表現があります。
一方、28章から六回にわたって、「ああ」または「わざわいだ」という主の嘆きが記されました(原文は同じ言葉、28:1、29:1、29:15、30:1、31:1、33:1)。33、34章はその六番目ですが、それらの箇所では、主がご自身のみこころを痛めながら国々をさばく様子が描かれます。
そして35章は、さばきが完了した後の、喜びと希望の歌です。バプテスマのヨハネが獄中から弟子を派遣して、イエスに、「おいでになるはずの方は、あなたですか」(マタイ11:3) と尋ねたとき、主はこの箇所のことばを引用しながら、この地に神の救いが既に実現したことを説明しました。
まさにイエスにおいて「神の国」はこの地に既に実現したのです。多くの人々は、この混乱に満ちた世界から救い出されることを願いますが、神の「救い」は既にこの地で実現し始めているのです。
ただ、そこには神の厳しい「さばき」もセットになっています。あなたはそのどちらに向かっているのでしょうか。
1.「主 (ヤハウェ) の怒りがすべての国々の上にあり、憤りがすべての軍勢の上にあり……」
34章1節は原文の語順で、「近づけ、国々よ、聞くために。諸国の民よ、耳を傾けよ。 聞け、地とそこに満ちているものよ、世界とそこから生え出たすべてのものよ」と記されています。
ここでは全世界の人々と全被造物に向けて、創造主ご自身が必死に「聞く」こと、「耳を傾ける」ことを求めています。それは1章2節での「聞け、天よ。耳を傾けよ、地よ。主 (ヤハウェ) が語られるからだ」という呼びかけを思い起こさせます。それはイスラエルの民が自分を育て、大きくした創造主に「背を向けて離れ去った」ことに対する嘆きでした。
それがここでは、全世界に対する嘆きになっています。聖書によると、創造主を忘れたこと自体が最大の罪であり、それに対する終わりの日のさばきが、全世界に対して宣告されているのです。回心とは、創造主と創造のみわざを感謝し、賛美することに他なりません。その基本を忘れてはなりません。
2節では、「それは、主 (ヤハウェ) の怒りがすべての国々の上にあり、憤りがすべての軍勢の上にあり、彼らを聖絶し、虐殺するにまかされたからだ」と記されます。
これは何とも残酷な表現ですが、使徒の働き17章22節以降でも、使徒パウロはアテネのアレオパゴスの中央に立って「知られていない神に」と刻まれた祭壇を指し、手で造られた宮に住まない神を明かしました。その際、神の創造のみわざとその恵みが全地に満ちていることを示しながら、「それは、神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう……神はそのような無知な時代を見過ごしておられましたが、今はどこででも、すべての人に悔い改めを命じておられます」(27、30節) と記しています。
その上で、「神は日を定めて、お立てになった一人の方により、義をもってこの世界をさばこうとしておられる……神はこの方を死者の中からよみがえらせて、その確証をすべての人にお与えになった」(31節) と、偶像礼拝者たちに対するさばきが宣告されます。イエスの復活は、イエスがこの世界をさばかれるしるしだというのです。
ただ、イザヤ書の文脈では、終わりの日にすべての偶像礼拝者が問答無用に主のさばきを受けるのではありません。
19章19、21、22節では、「その日、エジプトの地の真ん中には、主 (ヤハウェ) のために一つの祭壇が建てられ……そのようにして主 (ヤハウェ) はエジプト人にご自身を示し、その日エジプト人は主 (ヤハウェ) を知る……主 (ヤハウェ) はエジプト人を討ち、打って彼らを癒やされる。彼らが主に立ち返れば、彼らの願いを聞き入れ、彼らを癒やされる」と、エジプト人の回心が預言されていました。
またそこではさらに続けて、「その日、エジプトからアッシリアへの大路ができ……エジプト人はアッシリア人とともに主に仕える」(19:23) とさえ描かれていました。
つまり、主 (ヤハウェ) はイエス・キリストによって全世界の民を神に立ち返らせてくださると約束されながら、同時にそのキリストに反抗する者たちがさばきを受けるというのが主の「救い」の物語なのです。イザヤ書に描かれた全体的な文脈とイエスの現れから神のさばきを読み取る必要があります。
なお34章3、4節では続けて、「彼らの殺された者は投げ捨てられ、その死体は悪臭を放ち、山々はその血によって溶ける。天の万象は朽ち果て、天は巻物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる」と恐ろしい描写がなされます。それは神の救いの御手を払いのけた者に対する厳しいさばきです。
この描写は黙示録に受け継がれます。その19章13–16節では再臨のイエスの姿が、「その方は血に染まった衣をまとい、その名は『神のことば』と呼ばれていた……この方の口からは、諸国の民を打つために鋭い剣が出ていた。鉄の杖で彼らを牧するのは、この方である。また、全能者なる神の激しい憤りのぶどうの踏み場を踏まれるのはこの方である。その衣と、もものところには、『王の王、主の主』という名が記されていた」と描かれています。
私たちはハレルヤ・コーラスで「He shall reign for ever and ever. King of kings, Lord of Lords」と賛美しますが、その背後にこのような恐ろしいさばきがあることを忘れてはなりません。イザヤ書と黙示録には、神に反抗する者たちに対する血に染まったさばきが描かれています。
最近、世間を騒がせている新興宗教にはすべて、地獄のさばきの脅しによって人々を信仰に招くという手段が取られています。それはある意味で、この三千年近く前からの聖書の描き方に影響を受けているのかもしれません。
しかし、このイザヤ書でも繰り返し記されているように、そこには神が実現しようとしている平和な世界があります。そして、神が罪人を赦し、招くための十字架の福音があります。神がすべての偶像礼拝者や罪人たちに徹底的に寄り添おうとしている神のあわれみに満ちた招きがあります。
その救いのご計画の全体像の中にある、その不可欠な一部として神のさばきを見る必要があります。
2.「エドムの……地……もうそこを通る者はだれもいない」
34章5–15節にはエドムに対する神のさばきが、全人類に対する神の怒りの現れの代表例として記されます。エドムはヤコブ(イスラエル)の双子の兄エサウの子孫です。彼らはアブラハム、イサクの正当な後継者であったのに、偶像礼拝者を妻として娶ることで、アブラハムの信仰を受け継ぎませんでした。
それで、旧約聖書の最後マラキ1章3節では、主 (ヤハウェ) がヤコブを特別に「愛した」こととの対比で、「わたしはエサウを憎み、彼の山を荒れ果てた地とし、彼の相続地を荒野のジャッカルのものとした」と描かれています。
そしてそのようにエドムが神のさばきを受けるという預言が、この箇所に記されています。
5、6節は、「わたしの剣が天において酔いでいっぱいになっているとき、見よ、それがエドムの上に下る、わたしが聖絶のものとしてさばいた民の上に。剣は主 (ヤハウェ) のもので、血で満ちており、脂肪で肥えている。子羊とやぎの血によって、雄羊の脂肪によって。それは、主 (ヤハウェ) のためにボツラでいけにえが屠られるからだ、エドムの地において大虐殺が」と訳すことができます。
2節に記された「聖絶」の代表例としてエドムに対するさばきが描かれ、主の剣が血で満ちているようすが劇的に描かれています。
そして8節ではその理由が、「それは主 (ヤハウェ) の復讐の日であり、シオンの訴えのために仇を返す年だからだ」と描かれます。
神はアブラハムに、「わたしは、あなたを祝福するものを祝福し、あなたを呪う者をのろう」(創世記12:3) と言われましたが、エドムはイスラエルの民を呪うことによって自分の身にのろいを招こうとしているのです。
後に聖書の中の一つのオバデヤ書がエドムに対するさばきに用いられ、「おまえの兄弟、ヤコブへの暴虐のために、恥がおまえをおおい、おまえは永遠に断たれる」(10節) と記されています。
エドムはイスラエルの民が約束の地に入ろうとするときにその道を妨害し (民数記20:14–21)、また一時はダビデの支配下に入ったものの、何度もユダ王国の敵と連合を組み、後にはバビロン帝国によってエルサレムが滅ぼされる際に、敵側に味方し、彼らの破滅を喜んでいたということがあります。
私たちの場合も、何よりも辛いのは、本来、自分の味方であるはずの人に裏切られることです。エドムに対する主のさばきの厳しさは、イスラエルの兄弟国であるはずの国民が裏切ったことにあります。
34章9節の、「エドムの川はピッチ(黒色で粘弾性のある樹脂)に、その土は硫黄に変わる。その地は燃えるピッチに変わる」という表現は、天からの火で焼かれたソドムとゴモラに対するさばきを思い起こさせる表現です。そして、そこが廃墟となる結果が、「もうそこを通る者はだれもいない」(34:10) と描かれます。それこそが続く表現の要約と言えます。
さらに11節前半には、ふくろう、針ねずみ、みみずく、カラスなどの廃墟を住まいとする忌み嫌われる動物の名前が列挙されます。
一方、その後半では「主はその上に茫漠のはかり縄を張り、空虚の重りを下げる」と記されますが、「茫漠(トフー)」と「空虚(ボフー)」という二つの単語は創世記1章2節で、神が光を創造される前の世界が、「地は茫漠として(トフー)何もなかった(ボフー)」と描かれていたことを思い起こさせます。
それは人が住むことができない世界の状態を描いたことばで、ここでは、建物を建てるために用いられる「はかり縄」や「重り」が、廃墟を生み出す道具にしかなっていないという皮肉な現実を指しています。
34章12、13節は一つのまとまりと理解した方がよいかもしれません。
「そのおもだった人たちで、王権を宣言する者は、そこにはいない……その宮殿には茨が生え……ジャッカルの住みか……となる」という表現は、創世記36章に描かれた「エドムの歴史」から見ると意味がよくわかります。
エサウの子孫が神から離れる最大の原因は、カナン人の妻たちを娶ったことにあります。そしてその子孫は増え続け、各地域の氏族の長となりますが、ダビデ王家とは異なり、各地域の首長たちが勢力争いを続け、代わる代わる王となって行きます。
ですからここはエドムの地域全域にある宮殿や要塞が廃墟となることを指しています。
さらに14、15節は、それぞれの地から人間がいなくなるため、荒野の獣が自由にその地に住み処を広げることを示します。それも10節の「もうそこを通る者はだれもいない」という記述の現れと言えましょう。
34章16節の原文は、「調べよ(探せ)、主 (ヤハウェ) の書を、そして読め。これらのうち何一つ失われることはない。それぞれ自分の伴侶を欠くものはない」と記されています。
これは34章1節での訴えを思い起こさせますが、ここでは啓示された主のさばきが一つ一つ成就するという意味で、その例として、15節終わりの「鳶(とび)の伴侶」の預言が引用されているのだと思われます。
そしてそれを強調するように、「それは、わたしの口がこれを命じ、主の御霊がこれらを集めたからである」と記されます。これは主の口から出るすべてのことばがこの地に成就すること、また主の霊がそれぞれを動かすことを現します。そこでの最後の「集めた」とは、先の「鳶が伴侶とともに集められる」と記されたことばと同じです。
先の29章11節で、イザヤに示された「すべての幻」が「封じられた書物のことばのようになった」という、主のさばきが語られていましたが、ここではその「書物」を「探し」、または「調査」して、「読め」と命じられているのです。
さらに17節では、「主はこれらのもののためにくじを引き、御手がはかり縄で測って彼らに分け与えたので、彼らはとこしえまでもこれを所有し、代々にわたってここに住む」と記されます。
これは文脈的には「荒野の獣」がエドムの地に住むことを指していると理解できますが、より大きな枠で捉えると、主の御手こそがこの地のすべてを支配しているので、主 (ヤハウェ) 以外の誰をも恐れる必要がないことを現します。
それは先に、「主 (ヤハウェ) はいと高き方で、高い所に住み、シオンを公正と義で満たされる」(33:5) という主のご計画がこの地に実現することを信じることと同じです。
そしてそこでは、「(心の目で)見よ、シオンを、私たちの祝祭の都を」と命じられていました (33:20)。
34章でも「聞け」「調べよ(探せ)」「読め」という命令形が繰り返されていますが、私たちはこの地に神のご支配が現れていることを霊の目で「見る」ことが何よりも大切なのです。神の救いのご計画の中に、その過程としての「さばき」を見るべきでしょう。
3.「見よ。あなたがたの神を、復讐が来る、神の報いが」
35章では対照的に、主 (ヤハウェ) の救いが美しく描かれます。ここには、出エジプトやバビロン捕囚からの帰還がテーマとして記されています。
これは同時に、「新しいエルサレム」への旅の途上にある私たちにとっての慰めと希望でもあります。イスラエルの民が荒野を旅して約束の地に導かれたように、私たちも愛が欠けている不毛な世界を旅しますが、その途上で不思議な主の救いを体験することができます。
1、2節は原文の語順で、「喜んでいる、荒野と砂漠は。喜び踊っている、荒れ地は。花を咲かせている、サフランのように。盛んに花を咲かせている、そして喜び踊っている、歓喜ともに、そして歌っている」と記されています。
翻訳しきれない「喜び」の類語が満ちています。これは乾ききったイスラエルの荒野で雨の後に突然現れる奇跡的な美しい情景を現しているとも言われます。
「サフラン」の原文はクロッカスや薔薇とも訳されることがあり、雅歌で「私はシャロンのサフラン(薔薇)」(2:1) と言われるのはキリストを示唆すると伝統的に解釈されます。
さらに続けて「これに、レバノンの栄光が授けられる、カルメルやシャロンの威光も。彼らは見る、主 (ヤハウェ) の栄光、私たちの神の威光を」と記されています。ここで、「主 (ヤハウェ) の栄光」「神の威光」が、このような荒野に花を咲かせる「喜び」として表現されるのは極めて異例と言えましょう。
35章3、4節では、「強めよ、弱った両手を。よろめく膝をしっかりさせよ。言え、心を騒がせている者たちに、『強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を、復讐が来る、神の報いが。この方が来られる、そしてあなたがたを救われる』」と記されています。
これは身体の弱さや心を騒がせていること自体を否定することではなく、自分たちの神を「見よ」という勧めです。その理由が、神の復讐、また報いによって、すべての不条理が正されることにあります。
目に見える権力者や横暴な王国が迫って来ても、神が不正を正してくださいます。そして、ここでは神の復讐の実現が、神の「救い」として描かれています。34章8節にも「主 (ヤハウェ) の復讐の日」という表現がありましたが、それは神の民にとっての救いの日でした。
6節では、「そのとき、開かれる、見えない者の目は。そして、聞こえない者の耳は開けられる。そのとき、鹿のように飛び跳ねる、足のなえた者は。喜び歌う、口のきけない者の舌が」と記されます。
バプテスマのヨハネは神の「迫り来る怒り」を語り、「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と厳しく迫り (3:7、8)、ついには当時の権力者ヘロデ・アンテパスの離婚と再婚を非難し、牢屋に入れられました。
そこでヨハネは、イエスが罪人たちを断罪する代わりに、寄り添っている姿勢を聞いて、自分の期待が裏切られたように感じ、獄中から弟子を派遣して、イエスに、「おいでになるはずの方はあなたですか。それとも、別の方を待つべきでしょうか」(マタイ11:3) と尋ねました。
それを聞いたイエスは、ヨハネの疑いを払しょくするように、「あなたがたは行って、自分たちが見たり聞いたりしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない者たちが見、足の不自由な者たちが歩き、ツァラアトに冒された者たちがきよめられ、耳の聞こえない者たちが聞き、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられています。だれでもわたしにつまずかない者は幸いです」と言い送りました(同11:4–6)。
ツァラアトの癒しと死人の復活以外のことは、まさにこのイザヤ35章の引用と言えます。
イエスの癒しのみわざに、目、耳、口、足の癒しが際立っているのは、この預言が成就したということを明らかにするためでした。当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国の支配の中で苦しみながら4節にあった「神の救い」が実現することを待っていました。
そして、イエスのメッセージの核心は、「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15) でした。それは、「終わりの日」が「近い」というよりは、ご自身の癒しのみわざで「神の国」をこの地に実現して行くという意味でした。
「神の国」は、イエスとともに当時のユダヤ人の目の前に「近づいた」という意味だったのです。「神の国」は今この世界で、すでに実現し始め、それが完成に向かっていることを忘れてはなりません。
6節後半は、「それは、荒野に水が湧き出し、荒地に川が流れるからだ」と記されています。それは、目、耳、足、口の癒しは、神がこの目に見える世界にエデンの園の祝福を回復させることとして表されるからです。
これは1節の喜びを再び述べることでもあります。そのことがさらに、「焼けた地は沢となり、潤いのない地は水の湧くところとなり、ジャッカルが伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる」(35:7) と描かれます。これは34章13節で、「宮殿」が「ジャッカルの住みか」となったことの逆の救いを意味します。
35章8、9節には、「そこに大路があり、その道は『聖なる道』と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、その道を行く者たちのもの。そこを愚か者がさまようことはない。そこには獅子もおらず、猛獣もそこを上って来ることはなく、そこには何も見つからない。贖われた者たちだけがそこを歩む」と記されます。
「大路」とは「新しいエルサレム」に続く道です。「汚れた者」や「愚か者」とは「贖われた者」との対比で、主の贖いのみわざを無視する者たちです。
逆説的ですが、自分の「汚れ」を意識して、主にすがっている者は「聖なる者」と見られます。それはダビデの数々の祈りで明らかです。私たちの場合は、イエスの十字架の贖いのみわざに拠り頼むことによって、すでに「贖われた者」「聖なる者」とされています。
さらに10節では、「主 (ヤハウェ) に贖われた者たちは帰ってくる。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来て、悲しみと嘆きは逃げ去る」と描かれます。これは1節に繰り返された喜びの表現と同じです。これはこの地に「新しいエルサレム」が降りてきて、復活した私たちがそこに招き入れられるという意味です。
なお、イエスはともに十字架にかかった強盗が、自分の罪を悔いながら、「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」と願ったとき、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、私とともにパラダイスにいます」と今ここでの「救い」を保証してくださいました (ルカ23:42、43)。ですから、イエスを救い主として信じる人のたましいは、死んですぐにパラダイスに上げられます。
しかしそれは終着点ではありません。その向こうに「新しいエルサレム」、また「新しい天と新しい地」があります。私たちは中継点のパラダイスも含め、「喜び歌いながらシオンに入り……楽しみと喜びがついてくる」という状態を体験できるのです。
聖書ではそのようにこの目に見える世界と、来るべき世界との連続性が強調されています。ですから、私たちはこの地から逃避することではなく、神からこの混乱に満ちた世界に遣わされ、この世界を少しでも住みよい世界へと、この地に「神の国」が広がられることをいつも願っている必要があります。自分の救いと同時に、この世界の救いを願うのです。
たとえば、「荒地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる」という情景を、満開の桜を見ながら思い浮かべてみてはいかがでしょう。
確かに、この世界には、滅びに向かっているしるしが毎日のように見られます。そして、アブラハムの孫でありながら、神の民としての生き方を捨てたエサウの子孫には厳しいさばきが待っています。まさに「この世に地獄があるのに、来るべき世界にそれがないと誰が言えよう」という恐れも持つべきです。
神の愛の交わりを築いている私たちの身近な人が、エサウのように神のさばきを受けることがないように、互いに励まし合って、ともに集まり続ける必要があります (ヘブル10:25)。
同時に私たちは、不思議な「救い」のしるしをも日々発見することができます。その両方がおひとりの神から出ています。
神の救いの物語という窓をとおして、今ここにある「救い」を見られる「霊の目」を養っていただきましょう。
この世界が滅亡に向かっていると考えるか、またその反対に、神の平和(シャローム)に満たされる世界へと向かっていると考えるかによって、この世界に対する私たちの姿勢が変わります。
神の救いを軽蔑するエサウのような者に対するさばきは確かにありますが、それは平和(シャローム)の完成のための一過程に過ぎません。
それより、「神は……世を愛された」(ヨハネ3:16) という真理の中で、この世界を愛し続けましょう。