若い時の気づきの大切さ —— 「私は福音を恥としません」〜ローマ1:16

今朝、34年以上前に書いた神学校での卒業論文を見直していました Facebook での友人が、米国の神学校で聖書における「恥」の研究をして、それを発表しているというところから、自分の昔からの課題に改めて目を向けました。

使徒パウロは、ローマ人への手紙の最初で、「私は福音を恥としません」(1:16) と記しています。私たちキリスト教徒は、十字架にかけられた犯罪人を神として崇める、世にも不思議な人種です。十字架は、ローマ帝国でもっとも忌み嫌われた死刑の道具でした。その恥ずべき死刑のシンボルが、今、神の愛のシンボルとなっているというのが、何よりの不思議です。それは、福音によって、本来、恥とされるべきことが変えられたことを意味します。

聖書には恥に関する類語が多数登場し、詩篇には、辱められることの痛みがいたるところに記され、しばしば、神の救いが、恥からの救いとして描かれます。それは拙著「心が傷つきやすい人への福音」の隠されたテーマの一つでもあります。

僕が、34年以上前の卒論で書いていたことは、私たちは知らないうちに、あまりにも西ヨーロッパで、特に、ラテン語圏で培われた神学的な枠組みで聖書を読んでいるのではないかという疑問でした。特に「福音は、恥ではなく、罪を問題とする」などという言い方などは、ラテン化を超えて、米国化された福音の理解かもしれません。もちろん、福音の核心に「罪の赦し」があるという理解は大切なことです。それを否定するつもりなど、少しもありません。しかし、それは恥の感覚を軽く見ることとはまったく無関係のことです。

人間にとって、恥の痛みは決定的なものです。それはたとえば日本の古典、特に古事記において、恥が、死の起源、寿命が短くなる起源、愛する者が分かれざるを得ない起源として記されています。そして、聖書の世界でも、特に詩篇では、恥の痛みにおいて神のさばきと救いを体験するようなことが記されています。

僕は、間もなく70歳になりますが、改めて、34年前の卒論をもっと分かりやすく書き直したいという気持ちがふつふつと湧いてきました。

これから当教会では若い説教者を定期的にお招きするということを確認しております。日曜日なのに、講壇に立たない……という日は、今まで想像もできなかったことです。しかし、それを神様から与えられたチャンスとして生かして行きたいと思います。自分で言うのも何ですが、34年前の卒論、とっても良いことが書いてあります。今見ても、間違いは、ほとんどないと思えるほどです。でも、それは手書きのもので(原稿用紙160枚)、データ化もされていません。

35年前から、キリスト教世界での神学論議のテーマも大きく変わってきています。今なら、より多くの人に、優しく受け止めてもらえる可能性があるかな……などと期待しています。34年前は、担当教官から、「すでにある神学の枠組みを次から次と批判しすぎる……」と暖かいご忠告を受けました。それ以来、「論争的にならず……」ということを心がけていますが、でも既成の神学的な枠組みを批判的に見られることはとっても大切なことだと思います。それでこそ、聖書をストレートな「神の愛の語りかけ」と理解できるための基本かとも思います。

私たちが若い時に感じた素朴な疑問や問題意識は、とっても貴重なものです。知らないうちに私たちはそれぞれの分野で交わりを築く中で、その時代の常識を身に着けてしまいます。そのような常識に巻き込まれる前の素朴な疑問や違和感を大切に育んでいきたいと、改めて思わされています。