パソコン・トラブルを通しての思い巡らし〜詩篇8篇

昨日、ディボーション誌の原稿執筆中に突然、パソコンの電源が切れてしまいました。昨年11月15日から使い始めたばかりでした。購入した業者に確認しましたが、原因が分からず、引き取って修理していただくことになりました。

年末年始とほぼ休みなく働き続けた結果としてこのようなことになり、困惑しています。ただ幸いにも僕が書いている多くの文書は、当教会のホームページに掲載していただいております。またディボーション誌の原稿も昨年末に依頼者にお送りしたところでした。ただ、今年初めからの文章は失われてしまいました。

今まで、専門的な知識をお持ちの方に支えられて、ここまで来ることができたことを感謝します。ただ、せっかくの貴重なアドバイスを生かすことができない結果として、自分で蒔いた種を刈り取るような悲劇を繰り返しています。

実は昨年12月初めにも、データが失われる悲劇がありました。USBメモリーの使い方が悪かったためです。あまりにも愚かなミスで人に話すことも恥ずかしい状況でした。二週間分のディボーション原稿を失いました。

火葬場に向かう車の中で、友人の牧師に泣き言を言いました。彼は次のように言ってくれました。

「それは、神様が、もっと良い原稿を書くように取り上げてくださったのではないですか。神様はあなたに期待しておられるので、そのような状況を許したのではないですか……書こうとしたことは頭の中に残っているのでしょうから、推敲の機会が与えたと考えたらよいのではないですか……」

僕は予期しない悲劇に会うたびにイエス様の以下のみことばを思い起します

そんな雀の一羽でさえ、あなたがたの父の許しなしに、地に落ちることはありません。あなたがたの髪の毛さえも、すべて数えられています (マタイ10:29、30)

それで気を取り直して、失われた原稿の部分を書き直しました。すると、友人に言われたように、これは神様が書き直す機会を与えてくださった原稿だと、心から感じることができました。そして、昨年末に編集者にお送りすることができました。

自分の愚かな失敗と、偉大な心理学者であるヴィクトール・フランクルを比較するのもおこがましいですが、フランクルも似たような体験を書いています。

彼はナチスドイツの強制収容所に入れられます。その際、自分が書きかけていたロゴセラピーのアイデアを書いた文書を隠して持参しました。収容所の中でそれを書き続けました。

ただそれを書き終えられたと思ったとたん、ナチスに没収されてしまいます。彼は悲嘆に暮れました。もう生きる目的を失ったというほどに……

しかし、彼はそのような中で、創造主が次のように示してくださったと感じました。「この収容所生活は、おまえが考えてきた理論の正しさを実生活の中で確認する機会であると……」

それと同時に、どんな権力者も迫害者も、自分の頭の中にあるものを変更させることはできない。思想は自分の頭の中に留まり続けると……

実は、同じことが、先日ご紹介した「ラーゲリーより愛をこめて」の映画の中でも語られていました。せっかく書かれた多くの文章がソ連軍に没収されましたが、人づてに記憶された文章が現代につながっています。

僕も失われた文章を書き直しながら、パソコンデーターが失われようとも、自分が聖書から丁寧に学び、調べたプロセスは、頭の中に残っていることを感謝できました。僕は昔から、自分の記憶力の弱さに嘆いてきました。しかし、このこだわりの強い性格のゆえに、必死に調べてきたこと、考えてきたプロセスは頭の中にしっかりと残っています。最終の文章は忘れても、そこに至った過程は忘れることはありません。悩んだプロセス自体こそが宝なんだと思います。

僕はパソコン音痴ですが、大切な結論を生み出す創造性は入っており、それこそ人間がコンピューターに勝てる部分なのかと思いました。

神は人をご自身よりも(または「御使い」よりも)「わずかに低いもの」とすることで「御手のわざの数々を彼に治めさせよう」と計画されました (詩篇8:5、6)。私たちは創造性の源である神に似せて、神のかたちに創造されています。

そして、一人ひとりにユニークな能力が与えられています。ただ、それは互いに仕え合うことができるためです。

私たちの人生には必ず、予期しない悲劇が訪れます。しかしそれも全能神の御手の中にあって起きることです (マタイ10:28–31)

神はそれを通して互いが助け合うことの大切さを教えてくださいます。

予期しない悲劇を通して、新しい交わりが生まれてきます。そのためには、自分の失敗や足りなさを恐れることなく分かち合うことが必要です。

知恵ある人のアドバイスも生かすことができずに、愚かな失敗ばかり繰り返しますが、それでも応援していただくことができています。

自分に与えられているもののすばらさを感謝しながら、同時に、成長できない足りなさを謙虚に認める交わりによって、さらに知恵をいただくことができることを感謝したいと思います。