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イエスは、「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます」ということばを何度も繰り返されました (マタイ23:12、ルカ14:11、18:14)。それは歴史上の大帝国や権力者の現実を示すと同時にキリストとその姿に倣った者に対する賞賛として表されています。
ただ同時に健全な「誇り(プライド)」を持っていることも大切です。真の「誇り」を忘れた卑屈な生き方をする人は自分の都合で約束を平気で破ってしまうからです。そのような人も、実は「高ぶりと不遜さ」で人を操作しています。
私たちは「高ぶる」ことのない健全な「誇り」を身に着ける必要があります。それはキリストの生き方に表されています。
1.「見よ、主 (ヤハウェ) の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が」
13章1節から14章27節まではバビロン帝国に対するさばきの「宣告」です。預言者イザヤの時代の超大国はアッシリア帝国であり、バビロンはその東でどうにか独立を保っているような国でしたが、そこはかつてバベルの塔が建てられたシヌアルの地でもありました (創世記11:1–9)。神はイザヤを通して、バビロンこそがアッシリアよりもはるかに恐れるべき国であると告げられながら、同時に、その国もやがて神の御手にあって滅びることを予め知らせてくださいました。
「はげ山の上に旗を掲げ」(13:2) と記されるのは、5章26節でバビロンによるエルサレム攻撃が、「主は遠く離れた国に旗を揚げ、地の果てから来るように合図される」と記されていたことに呼応します。今ここでは、誰もが遠くから見ることができる「はげ山の上に旗を掲げ」ることで、諸国の人々に向かって「声を上げ、手を振って、彼らを(バビロンの)貴族の門に入らせ」ることを示しています。これはバビロンが全面降伏して首都の正面ゲートが開かれる様子を表します。
さらに3節では主ご自身が、「このわたしが命じた⋯⋯聖別された者たちに。また呼び集めた、わが怒りを晴らす勇士たち」と言われます。これは主がご自身の働きを進めるために人々を聖別し、ご自身の「怒りを晴らす」ために用いるというのです。
しかもそれは神の「威光に歓喜する者」であるとは不思議です。これは後にバビロンを滅ぼしたペルシアの王キュロスを「油注がれた者」(45:1) と呼ぶことになることを示唆しています。キュロスはバビロンを滅ぼすばかりか、ユダヤ人のエルサレム帰還と神殿の再建を命じるようになりますが、それがすべてイスラエルの神ヤハウェの働きであると預言されているのです。
13章4、5節では「万軍の主 (ヤハウェ) が軍隊を召集しておられる」と描かれながら、それが「全世界を滅ぼすための、主 (ヤハウェ) とその憤りの器」と呼ばれます。当時の「全世界」とはバビロンからエジプトに至る世界ですが、主の軍隊はその東の果ての「遠い地から、天の果てからやってくる」と描かれます。
そして6節では「泣き叫べ。主 (ヤハウェ) の日は近い」と描かれ、そこで起きることが、「すべての手が垂れ下がり(新改訳では「気力を失う」)、すべての人の心は萎え、彼らはおじ惑う」と描かれます (13:7、8)。
9~22節では主 (ヤハウェ) のさばきが「宣告」されます。まず「見よ、主 (ヤハウェ) の日が来る。憤りと燃える怒りの、残酷な日が」と言われ、その目的が「地を荒廃させ、そこから罪人を根絶やしにする」ためと描かれ、天のようすが、「天の星々、またその星座たち(単数形では「オリオン座」)は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を照らさない」と記されます (13:9、10)。
イエスはそれを引用し、「人の子の到来(パルーシア)」の際に起きることを、「苦難の日々の後、ただちに太陽は暗くなり、月は光を放たなくなり、星は天から落ち、天のもろもろの力は揺り動かされます」と言われました (マタイ24:27–29)。
さらに11、12節で主は、「わたしは罰する、世界をその悪のゆえに、悪しき者をその咎のゆえに。そして不遜な者の誇りをくじき、横暴な者の高ぶりを低くする」と言われながら、それによって「わたしは尊く(稀なものに)する、人を純金よりも、人間(アダム)をオフィルの金よりも」と約束されます。それは驚くべき多くの人々が滅ぼされるために、残される人間の数が激減し、希少価値のある存在へと変えられるという皮肉な現実を描くものです。
そのことをまとめるように、「それゆえ、わたしは天を震わせる。大地はその基から揺れ動く。万軍の主 (ヤハウェ) の憤りによって、その燃える怒りの日に」(13:13) と描かれます。それは、人々が「追い立てられたかもしか」のように怯え、「それぞれ自分の民のほうに向かい」、すべてのあわれみを捨てて「幼子たち」さえ「八つ裂きに」するほど野蛮になる日でもあります (13:14–16)。
神のさばきは、天からの火としてよりは、人と人とが互いに殺しあうままに放置されることとして表されています。
さらに主は、「わたしはメディア人を奮い立たせる」(13:17) と言われますが、それはペルシア帝国の先駆けとしてその連合国のメディアの王ダレイオスがバビロンを滅ぼすことを示唆しています (ダニエル5:30、31)。そこでは「彼らは銀をものともせず、金さえ喜ばず、その弓は若者たちを打ち倒す」と、彼らが虐殺自体を喜ぶ姿が記されています。さらにそこでも「胎児」や「子ども」などの社会的弱者が誰よりも苦しむ様子が描かれています。
13章19節の原文での「こうして、バビロン、諸王国の誉れ、カルデア人の輝かしい誇りは、神がソドムとゴモラを滅ぼしたときのようになる」とは、神のさばきが天からの火ではなく、人と人との戦いを通して実現することを表現しています。
それと同時に、栄華を極めた都が「永久に住む者も⋯⋯住みつく者もない」というような廃墟となり、軽蔑された獣の住まいとなるという悲劇が強調されています (13:20–22)。
2.「どうしておまえは天から落ちたのか、明けの明星、暁の子よ」
14章1節では、「まことに、主 (ヤハウェ) はヤコブをあわれみ、再びイスラエルを選んで、彼らを自分たちの土地に憩わせる」と、バビロンへのさばきとイスラエルの再興がセットになって描かれています。つまり、主は、アッシリアの攻撃を恐れている民に、はるかその後のことまで知らせて励ましておられるのです。
さらにそこでは、「イスラエルの家は主 (ヤハウェ) の土地で⋯⋯自分たちを捕らえた者を捕らわれ人にし、自分たちを追い立てた者を支配するようになる」(14:2) という支配の立場の逆転が予告されます。
そして、それは、「主 (ヤハウェ) が⋯⋯あなたへの激しい怒りを除き⋯⋯過酷な労役を解いて、あなたを憩わせる」(14:3) からなのです。
それは「バビロンの王」の「横暴」が終わらせられるからなのですが、それは「主 (ヤハウェ) が悪しき者の杖を、支配者の笏(王笏、王権)を折られた」ことによってもたらされると描かれます (14:4、5)。その「杖」とか「王笏」は、「激怒して諸国の民を討ち⋯⋯容赦なく虐げて支配」(14:6) するための道具でした。
14章7節では、その結果が「全地は安らかに憩い、喜びの歌声をあげる」と、世界の解放として描かれます。さらに「もみの木」や「レバノンの杉」でさえもバビロンの王が「倒れ伏した」ことを「喜ぶ」というのです (14:8)。つまり、「バビロンの王」(14:4) の滅亡は全世界の人々と被造物の喜びのときとなるのです。
一方、9節では「よみ(シェオル)」が擬人化の主語とされ、「よみは、下界で おまえが来るのを迎えようとざわめき、死者の霊たち、地のすべての指導者たちを揺り起こす」と描かれます。
そして先に死んだ支配者たちはバビロンの王に向かって、「おまえもまた、私たちのように弱くされ、私たちに似た者になった」と言うことになります (14:10)。
そして「おまえの誇り、おまえの琴の音はよみ(シェオル)に落とされ、おまえの下には、うじ虫が敷かれ、虫けらがおまえの覆いとなる」と恥辱のさばきが描かれます (14:11)。それは人の栄華がいかに空しく、神のさばきがいかに公平で厳しいかを確認する表現ともいえましょう。
14章12節の「どうしておまえは天から落ちたのか、明けの明星、暁の子よ。(どうして)地に切り倒されたのか、国々を打ち破った者よ」以下の表現は、しばしばサタンの由来として引用されます。ただし、文脈は明らかに、バビロンのことを述べています。旧約では神の絶対的な主権を強調するためサタンへの言及は少なく、神の御許しの範囲内でしか動くことができない存在として描かれます。
なお、創世記3章で、蛇が人に、「それを食べるそのとき⋯⋯あなたがたが神のようになる」(創世記3:5) と誘惑したことは、サタンと人間の思いがいかに似ているかを指し示しています。
そして両者の堕落は、「おまえが心の中で言った」「私は天に上ろう。神の星々のはるか上に私の王座を上げ、北の果てにある会合の山で座に着こう。密雲の頂に上り、いと高き方のようになろうと」(14:13、14) という傲慢に対するさばきなのです。
「北の果てにある会合の山」とは、神々が高い山の上から地上の人間を支配するという当時の観念を表したものです。サタンもバビロン王も神の被造物に過ぎず、神のさばきを執行する器として力が与えられただけです。しかし彼らは自分の力に酔ってしまい、さばきを受けるのです。
その際、「だが、おまえはよみ(シェオル)に落とされ、穴の底に落とされる」(14:15) と描かれますが、これはサタンばかりか自分の力を誇るすべての者の末路です。上昇志向がサタンへの道となることがないように注意したいものです。
これに対し主イエス・キリストの歩みは、「神の御姿であられるのに⋯⋯ご自分を空しくして、しもべの姿を取り、人間と同じようになられ⋯⋯自らを低くして⋯⋯十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました」(ピリピ2:6–9) と描かれます。
つまり、イエスはご自分を低くすることによって、神によって高くされたのです。これこそ私たちが従うべき模範です。
14章16、17節で、「おまえを見る者は、おまえを見つめ、おまえについて思いを巡らす。『この者が、地を震えさせ⋯⋯捕虜たちを家に帰さなかった者なのか』」と描かれるのは、バビロンの最後がどの国よりも悲惨なものになるからです。
その理由が、「おまえは⋯⋯自分の地を滅ぼし、自分の民を虐殺したからだ」(14:20) と説明されます。そして22節では、「万軍の主 (ヤハウェ) のことば」として、「わたしは彼らに向かって立ち上がる⋯⋯わたしはバビロンから、その名も、残った者も、子孫も末裔も断ち滅ぼす」と言われます。
これは「イスラエルの残りの者」が「力ある神に立ち返る」と描かれたこととは対照的です (10:20、21)。
14章24、25節では、一転してアッシリアに対して、「万軍の主 (ヤハウェ) は誓って言われた。『必ず、わたしの考えたとおりに事は成り、わたしの図ったとおりに成就する。わたしはアッシリアをわたしの地で打ち破り⋯⋯山で踏みつける。アッシリアのくびきは彼らの上から除かれ、その重荷は彼らの肩から除かれる』」と記されます。
これと同じようなことが10章5–19節でも既に描かれていましたが、アッシリアもバビロンも自分を神のようにしたということで、主のさばきを受けるのです。
多くの人はこの世の権力を恐れますが、10章24、27節で「アッシリアを恐れるな」という文脈で言われていたことを思い起こすべきです。
14章26節では、「これが、全地に対して立てられた計画。これが、万国に対して延ばされた御手」と、バビロンとアッシリア両帝国に対するさばきが同じ主の計画として描かれます。
その上で、「万軍の主 (ヤハウェ) が計画されたことを、だれがくつがえせるだろうかと」(14:27) と、神の「計画」が必ず成就すると閉じられます。
たとえば、ヨブは不条理な苦しみの原因が分からずに悩みますが、最後に神の御声を聞くことで、「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能でないことを、私は知りました」という告白に導かれました (ヨブ42:2)。
私たちは自分を世界の中心に置きながら、目の前の不条理の意味が分からず、「神なんか信じられない!」と不信仰に陥りがちです。しかし、ヨブは、自分の疑問を神に訴えながら、最終的に神のみことばに慰めを見出しました。そのような告白をしたヨブに、神は失ったものすべての二倍のものを回復してくださいました。
この世の力の背後におられる主を見上げるべきです。
私たちの確信とは、私たちの創造主こそが歴史の真の支配者であり、神にすがり続けるなら、神がすべてのことを働かせて益に変えてくださるということです。一方、この世の不条理を自分の力で正そうとする者は、自分自身が力の虜になり、最後にさばかれてしまいます。
この世の権力者に対するさばきは、「天と地」が滅びるという「主の日」の前触れです。黙示録では、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしい者の母」(17:5) がキリスト者を迫害すると記されます。私たちのまわりには今も、富と力を神とあがめる人々が満ち、その偶像礼拝に参加しない者が居場所を奪われるという迫害があります。しかし、力と富の支配は滅びに向かっていることが定まっています。
私たちは、過ぎ去るものではなく、「義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます」(Ⅱペテロ3:13) と記されるように、神の計画は必ず成就するのです。
3.「喜ぶな。ペリシテの全土よ」「われわれはモアブの高ぶりを聞いた」
14章28節では、イザヤが対峙していた「アハズ王が死んだ年」という時期が記されながら、「宣告」ということばとともにペリシテの地へのさばきが告げられます。
「喜ぶな。ペリシテの全土よ。おまえを打った杖が折れたからといって」とは、ペリシテを打っていたダビデ王家の変化を期待することへの皮肉です。確かに、ダビデの子孫のアハズ王は、アッシリアに頼ってペリシテへの敵対政策を続けていましたが、彼の死によってペリシテに対する脅威がなくなるわけではありません。
そこには「おまえを打った杖が折られた」としても、「蛇の根からまむしが出て、その実は、飛び回る蛇となる」ような不思議な展開があります。それはアロンの杖が「蛇」になり、同じような「蛇」になったエジプトの呪術者の杖を飲み込んだように、ダビデの子孫はペリシテにとっての「燃える蛇」のような存在であり続けるという意味でしょう (11:14参照)。
14章30節での「弱い者たちの長子は養われ、貧しい者はやすらかに伏す」とはイスラエルの子孫の希望を示す一方で、「しかし、わたしはおまえの根を飢えで死なせる。おまえの残りの者は殺される」と、ペリシテの子孫の絶滅が告げられます。
そして31、32節ではペリシテが北からのアッシリア軍の前に滅びる一方で、「主 (ヤハウェ) がシオンの礎を据えられたのだ。主の民の苦しむ者たちは、ここに身を避ける」と記されるように、エルサレム神殿はアッシリアの攻撃から守られるという確信が預言されます。
15章1節から16章の終わりまでは「モアブ」に対する「宣告」です。モアブは死海の東側の国でロトの子孫、ルツの故郷です。彼らはダビデのときもウジヤのときもユダ王国に服従しながら国として存続し続けていましたが、15章1–4節ではモアブの中心都市がアッシリアの攻撃によって「一夜のうちに⋯⋯荒らされ」、「モアブは泣き叫ぶ」「そのたましいはわななく」と描かれます。
ただそれと同時に5節では、主ご自身が「わたしの心はモアブのために叫ぶ」と言われます。ただそれでも5–9節ではモアブの民が泣き叫びながら逃げ惑う姿が描かれます。
そこで驚きなのは、9節では、主ご自身が「わたしはさらに、ディモンにわざわいをもたらす、モアブの逃れた者⋯⋯に、一頭の獅子を」と言われることです。そこでは、主がモアブのために嘆きながら、なおも彼らを苦しめざるを得ない主の葛藤が描かれているのです。
16章1節では、そのような中でモアブに向かって、「子羊を、この国の支配者に送れ⋯⋯娘シオンの山に」とエルサレムに助けを求めることが勧められます。3、4節は主がエルサレムに、モアブからの逃亡者を匿うように勧めるという意味でしょう。
そのような中でイザヤは、「虐げる者が死んで、破壊も終わり、踏みつける者が地から消え失せるとき、一つの王座が恵みによって堅く立てられる」と、目先の危急の後に来る、ダビデ王国の完成の預言を語ります(4b、5節)。これは表面的にはユダとの軍事同盟を勧めているように見えますが、それ以上にイスラエルの神ヤハウェに救いを求めるようにとの信仰的な訴えであると考えるべきでしょう。
そのことが、「ダビデの天幕で真実をもってそこに座すのは、さばきをし、公正を求め速やかに義を行う者」と描かれます (16:5)。これは救い主の支配の現れを期待する表現です。
ところが16章6節で、「われわれはモアブの高ぶりを聞いた。彼は実に高慢だ。その誇りと高ぶりと不遜さ、その自慢話は正しくない」と記されます。これは、モアブはその「高ぶり」のゆえにイスラエルの神に救いを求めることをしないということを描いたものです。
この世の多くの「弱い者」は、強い人々を巧みに操作することで自分の身を守ろうとします。そこには強い人への尊敬も神への恐れもありません。
その結果が、7、9、11節の三回の「それゆえ」で描かれます。その第一は、「それゆえ、モアブは⋯⋯自身のために泣き叫び⋯⋯ただ打ちのめされてキル・ハレセテの干しぶどう菓子のために嘆く」(16:7)という記述です。後半は中心都市の名産の「菓子」を食べられないという嘆きでしょう。
さらに「シブマのぶどうの木」の「房はヤゼルに達し」とは、モアブの勢力が国境を越えて北の国のヤゼルにまで及んでいたことを描き、その「木が枯れた」と嘆いたものです。
9節は、「それゆえ、わたしはヤゼルの嘆きとともに嘆く、シブマのぶどうの木のために」(16:9) と訳すことができます。これは主がモアブの嘆きをご自身の嘆きとするという意味です。それが「わたしは、わたしの涙でおまえをぬらす」と描かれます。
ただ10節では、「喜びと楽しみは果樹園から取り去られる」と述べられながら、同時に、主ご自身が「わたしが喜びの声を絶えさせたのだ」と言われます。
そして11節では、「それゆえ、わたしのはらわたは竪琴のようにわななく、モアブのために」と記されます。ここに、モアブに対する主 (ヤハウェ) ご自身の深い葛藤が描かれています。
そして12節では、「モアブが高き所に詣でて⋯⋯その聖所に入って祈っても、何にもならない」と、彼らが自分たちの神を求めることの空しさが描かれます。
さらに13、14節では、彼らの悔い改めのなさにより、彼らの栄光は三年のうちに失われると、その危急性が告げられてモアブへの宣告が終わります。
ペリシテもモアブもイスラエルに屈服した国です。ただペリシテの場合は「残りの者」の絶滅が述べられる一方で、モアブの場合は、イスラエルの神がモアブの嘆きをご自身の嘆きとされると記されます。それはモアブがアブラハムの甥のロトの子孫であるからです。
主はご自身の民とともに嘆かれる方です。ただし、モアブの場合は自分たちが神の民の子孫であるという「誇り」を忘れた卑屈な「高ぶり」が問題にされていると言えましょう。多くの人の被害者意識も、自分を世界の中心に置く「不遜さ」と言えます。
主 (ヤハウェ) は預言者エレミヤを通して、「知恵ある者は自分の知恵を誇るな。つわものは自分の強さを誇るな。富む者は自分の富を誇るな。誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを」(エレミヤ9:23、24) と言われました。
私たちは神と人に対して謙遜になることが求められていますが、それは「神のかたち」としての真の意味での「誇り」を捨てることでも、自分の能力を隠すことでもありません。
誰よりも「誇り」を大切にしたパウロは私たちにすべてに対して、「ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい」と命じています (コロサイ3:17)。
創造主に感謝し、イエスの生き方に倣うことで、真の自分を生かすことができます。