最近ある本を読みながら、ふと納得できたことがありました。
私たちは聖書を読み、アブラハムは175年生きた (創世記25:7) などという記事を見ながら、昔の人は長生きしていたのか……と思うかもしれません。
確かに聖書に登場する大昔の人々は長生きしていますが、ごく普通の人々レベルでは、今から150年ほど前まで、平均寿命が40歳をこえるのは稀だったようです。何しろ、乳児の4人に1人が一歳の誕生日を迎えられなかったからとのことです。その原因は疫病や飢饉、戦争のためです。
今、イザヤの時代に王家の話しを見ていますが、ウジヤの子ヨタムは25歳で王となり、エルサレムで16年間王であった⋯⋯ヨタムの子アハズは20歳で王となりエルサレムで16年間王であったなどと記されます。つまり、ヨタムは41歳で、アハズは36歳で死んだのだと思われます。
僕の尊敬するルターの生涯は63歳、バッハは65歳でした。
それに比べて僕は今69歳で、今話題のプーチン氏より半年若いだけです。
それにしても当教会に集うご高齢の方々には感心します。70歳代後半から90代半ばの方々が Zoom の祈祷会に参加しておられますが、それぞれ、他の人々のために自分が何ができるかということを積極的に考えておられます。80代の方が90代の方をお見舞いに行き、励ましておられます。
人類の平均寿命はこの百年余りの中で、急速に高くなってきました。60歳定年などと言っていた時代が大昔のように感じられます。ただ、ご高齢の方々の活躍の場は限られています。
それで改めて詩篇90篇10節のことばを思い巡らしています
私たちの齢は七十年、
健やかであっても八十年、
そのほとんどは労苦とわざわいです。
瞬く間に時は過ぎ 私たちは飛び去ります。
これは3500年前のモーセの祈りと記されています。
しかし、この百年余りの間に平均寿命が急速に伸びたことを考えれば、「私たちの齢は九十年、健やかであっても100年」といっても良いのかもしれません。
来週は北海道の母を訪ねてきます。今95歳ですが、認知機能が急速に衰えてきていますが、百歳まで生きて欲しいと言い続けています。
人生の「ほとんどは労苦とわざわい」と言われると、何か空しく感じられますが、かえってそれが現実だと受け止めるなら、そこに喜びを見出だすこともできましょう。
少なくとも今の僕は、やり残していることが驚くほど多くあるとともに、まだ新たにやってみたいことがたくさんあります。
そのような気力が与えられていること自体を喜ぶべきなのかもしれません。