福音自由の信仰箇条の11条では、「主イエス・キリストご自身による……再臨」を「祝福に満ちた望み」(テトス2:13) と定義し、「信者の個人的生活と信仰に重大な意義を持つ」と解説しています。
それは、二千年間待ち望んでいる主の再臨が、今、このときの私たちの生活に直結する現実的な意味を持つことを描いたものです。なぜなら「主の栄光ある現れ(エピファネイア)」(テトス2:13) は、クリスマスに既に起こり (Ⅱテモテ1:10)、終わりの日に再び明らかにされることであり、またそれは現代の信仰生活でも霊的に体験されることだからです。
私たちがイエスを救い主と告白できるのは、主が私たちにご自身を現わしてくださった結果です。同時に「人の子の到来(パルーシア)」も、再臨以前にこの地の生活に現わされることと言えましょう。
1.「その日、そのときがいつなのかは、だれも知りません」
24章36節には、イエスが、「ただし、その日、そのときがいつなのかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます」と言われました。
これはイエスが24章2節でエルサレム神殿の崩壊を告げたときに、弟子たちが「いつ、そのようなことが起こるのですか。またそれはどのようなしるしなのですか、あなたが来られ(現れ:パルーシア)、世が終わる(完成する)時は』」と尋ねたことへの答えです。そこで弟子たちの心にあったのは、地球滅亡の日のことではなく、エルサレム神殿崩壊の日のことです。
ただ同時に、弟子たちはそれを、イエスの栄光に満ちた現れ(パルーシア)、また「新しい天と新しい地」の実現の預言とセットにして尋ねています。
しかも、イエスが「その日」について語る直前に、「まことに、あなたがたに言います。これらのことがすべて起こるまで、この時代(世代)が過ぎ去ることは決してありません。天地は過ぎ去ります。しかし、わたしのことばは決して過ぎ去ることはありません」と言われました。
ですから、イエスが語られた「その日」とは、エルサレム神殿の崩壊の日であるとともに、この目に見える「天地」が「過ぎ去り」、「新しい天と新しい日」が実現するときでもあるのです。
ただし、イエスが言っておられる「その日、そのとき」とは、複数形ではなく単数形です。ですから、文法的には、エルサレム神殿の崩壊の日と、イエスの栄光の現れ(パルーシア)の日と「新しい天と新しい地」が実現する日は、同じ日でなければならないはずです。
しかし、現代の私たちに明らかなのは、エルサレム神殿の崩壊は紀元70年のことであり、「天地が消え去る(過ぎ去る)」はずの日は、まだ実現していない未来の日を指しています。
今まで述べているように、「人の子の到来(栄光の現れ)」とは、イエスの復活、ペンテコステ、エルサレム神殿の崩壊すべてにおいて確認できることです。つまり、「その日、そのとき」とはそれぞれ単数形でありながら、ある一つの時を指すわけではないということが分かります。
これは旧約聖書で「主 (ヤハウェ) の日」について描かれるのと同じです。たとえば一番古いと言われる「主 (ヤハウェ) の日」についての記述はアモス書5章18節にありますが、そこでは、「ああ。主 (ヤハウェ) の日を待ち望む者。主 (ヤハウェ) の日はあなたがたにとって何になろう。それは闇であって、光ではない」と記されます。
それは当時の人々が期待していた「主 (ヤハウェ) の日」とは、「主 (ヤハウェ) は御民をかばい、主のしもべらをあわれまれる」という喜びの日として期待されていたことに対する警告のことばでした。しかし預言者アモスは「その日」を、北王国イスラエルがアッシリア帝国によって滅ぼされる日と警告したのです。
一方イザヤ13章6節での「主 (ヤハウェ) の日」とはバビロン帝国の滅亡の日であり、エレミヤ46章10節ではエジプト王国へのさばきの日として描かれています。
さらにゼパニア書では「主 (ヤハウェ) の怒りの日」(2:2) という表現が登場し、エルサレムが「暴虐の都」(3:1) と呼ばれ、主のさばきが宣告されます。
ただそれで終わることなく、3章16、17節では、「その日、エルサレムは次のように言われる。『シオンよ、恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主 (ヤハウェ) は、あなたのただ中にあって 救いの勇士だ。主はあなたのことを大いに喜び、その愛によってあなたに安らぎを与え、高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる』と」という感動的な記述があります。まさに、エルサレムは苦難を通して再生されるのです。
また旧約聖書最後のマラキ書4章では、「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべての高ぶる者、すべての悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない」という厳しいさばきが警告されます (1節)。
それと同時に、「しかし、あなたがた、わたしの名を恐れる者には、義の太陽が昇る。その翼に癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のように跳ね回る」と記されます (2節)。
そこでは、神を恐れない者に対する厳しいさばきが宣告されながら、同時に、キリストにある救いが預言されます。マラキが描く救い主は「契約の使者」(3:1) と呼ばれ、その方は「精錬する者の日」(3:2) として、高ぶる者に対するさばきと、主の名を恐れる者に対する救いを実現します。
そしてその4章5節で預言された「預言者エリヤ」の再臨こそ「バプテスマのヨハネ」です。彼は救い主の到来を「迫り来る怒り」と表現しながらも、「聖霊と火であなたがたにバプテスマを授けます」という新生の希望を告げました (マタイ3:7、11)。
つまり、旧約が預言する救い主は、さばき主であるとともに、救い主であるのです。そのイエスがエルサレム神殿の崩壊と、ご自身に従う者への祝福を宣言されました。
つまり、旧約聖書がいろいろな箇所で預言している「主 (ヤハウェ) の日」とは、この世の大帝国の横暴に対する主の報復のさばきの日であると同時に、エルサレムに対するさばきとその後の祝福の日を指していました。そしてそれはキリスト・イエスにあるさばきと救いにつながります。
ですから、イエスが単数形の「その日」ということばを用いて将来のことを語られたときに、この目に見える世界のすべての終わりの日という以前に、エルサレム神殿の崩壊を指すとともに、イエスにある救いとしてのペンテコステを指すというのは極めて自然な解釈と言えましょう。
新約における「主 (ヤハウェ) の日」を、キリストの再臨の日にだけ結び付けて考えることは、旧約聖書全体の流れから考えたら、極めて不自然な解釈とも言えましょう。
とにかくイエスがここで述べられた「その日」とは、エルサレム神殿の崩壊の日であり、「人の子の到来(パルーシア)」の日であり、またこの「天地が消え去る日」なのです。
ところが不思議にも、「その日、その時がいつなのかは」、「天の御使い」ばかりか、「子も知りません」と敢えて言われます。ただ、ここでも他の箇所でもイエスはエルサレム神殿の崩壊を初めとする未来のことを明確に語っておられます。それにも関わらず、「子も知りません」と言われるのは、何とも意外なことです。
それは、イエスが今、「人の子」として、徹底的に父なる神の御旨に従い、御父から明らかにされたこと以上のことを「知ろうとはされない」謙遜な姿勢を表しておられます。私たちは、「世の終わり」に関して少しでも情報を得たいと願いますが、御子すら知らないと言われることを「知ろう」とすること自体が驚くべき傲慢なことと言えましょう。
なお旧約の「主 (ヤハウェ) の日」が、アッシリアやバビロン帝国の崩壊を指していたことからすれば、それは現代には、ロシア、中国、米国などの大国の崩壊による新秩序を指すこともあり得ることになります。ただ基本は、「その日、そのときがいつなのかは、だれも知りません」という基本を理解すべきです。
2.「彼らは知りませんでした、洪水が来るまで、またすべての人々をさらってしまうまでは」
37–39節は、「それは、ノアの日々がそうであるのと同じように、人の子の到来(パルーシア:栄光の現れ)も同じようなものです。それは洪水前の日々には、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。まさにノアが箱舟に入るその日までのことです。彼らは知り(理解し)ませんでした、洪水が来るまで、またすべての人々をさらってしまうまでは。人の子の到来(パルーシア)も同じようなものです」と記されます。
ここでまず、ノアの日の大洪水と「人の子の到来」が、同じような意味を持つと言われます。ノアの大洪水も、「主 (ヤハウェ) の日」の現れと同じように、世界に対する神のさばきと再生を意味しました。
そこで共通することは、神のさばきを知ろうとしない人にとっては、すべての日々が、いつも通りに過ぎて行くということです。そして、洪水が来たときに慌てても遅いように、「主 (ヤハウェ) の日」または「人の子の到来」の日になって悔い改めようとしても、もう遅いということです。
ノアの大洪水の時に、一瞬のうちにすべての人が大水にさらわれて滅んでしまったのと同じように、「人の子の到来」も、それを知ろうとしない人にとっての滅びの時となります。その意味で、「人の子の到来(パルーシア)」は、世界に恐怖をもたらします。
黙示録1章13–16節は、終わりの日の「人の子の現われ」が次のように描かれています。「(七つの金の)燭台の真ん中に、人の子のような方が見えた。その方は、足まで垂れた衣をまとい、胸に金の帯を締めていた。その頭と髪は白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬された、光輝く真鍮のようで、その声は大水のとどろきのようであった。また右手に七つの星を持ち、口から鋭い両刃の剣が出ていて、顔は強く照り輝く太陽のようであった」
そして黙示録の記者ヨハネの反応が、「この方を見たとき、私は死んだ者のように、その足もとに倒れ込んだ」(同1:17) と描かれますが、その彼に対し栄光のイエスは、「恐れることはない。わたしは初めであり、終わりであり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、世々限りなく生きている。また、死とよみの鍵を持っている」と言われます (同1:17、18)。
そして、キリストが血をもってご自身の民を贖った目的が、「彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです」と記されています (5:10)。私たちはこの力と栄光に満ちたキリストと共にこの世界を治めるために、罪を贖われ、神の子とされたのです。
続いて40、41節では、「そのとき、男が二人畑にいると一人は取られ、一人は残されます。女が二人臼をひいていると一人は取られ、一人は残されます」と記されます。
ここでの「取られる」「残される」はどちらが救いなのかは、対立する二つの意見があります。「取られる」を、31節の「人の子が選んだ者を集める」という意味での、天に引き上げられることとして理解する見方と、ローマ軍がイスラエルに攻め入ったときに、強制労働のために「取り上げる」という見方があります。
ただ、「残される」ということばには「猶予される、許される」という意味もありますので、特別な神学的な視点を持たない人は「残される」を後者の意味で理解し、その方が当時の歴史的な文脈に合っていると言えましょう。
ただ、どちらの視点を取るとしても、「人の子の到来(パルーシア)」のときは、突然、さばきと祝福の分かれ道になるという点では一致します。とにかく、最後の審判の際の「人の子の現れ(パルーシア)」の際に、そのときに慌ててイエスにすがっても、もう遅いということです。
イエスは山上の説教の結論の7章21–23節で、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる父のみこころを行う者が入るのです。その日には多くの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの奇跡を行ったではありませんか。』
しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け』」と言われました。
そこで、「天の御国(神の国)」の祝福に入れていただけるかどうかは、あなたがイエスの御名によって、どれだけ大きな働きをしたかというようなことではなく、日々の生活で、イエスの生き方にどれだけ倣っていたかが問われるということです。
なお、私たちにとっての「人の子の栄光の現れ」とは、この世の死を迎えるときであるかも知れません。そのときになって、慌てて、イエスを救い主として信じようとしても、ノアの洪水の時と同じように、もう箱舟に入る余地が無くなっているという現実があります。
実は、ことばの上での信仰告白よりも、「父のみこころを行う」という日々の生き方の方が問われているのではないでしょうか。イエスは後に、「これらのわたしの兄弟たち。それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです」と言い、また反対に、「最も小さい者たちの一人にしなかったのは、わたしにしなかったのだ」と言われます (25:40、45)。
そしてその結論が、「こうして、この者たちは永遠の刑罰に入り、正しい人たちは永遠のいのちに入るのです」(25:46) と記されます。とにかく、主の眼差しを意識した日々の生活こそが分かれ道になるのです。
3.「ですから、目を覚まし続けていなさい。あなたがたは知らないのですから……」
42節は、「ですから、目を覚まし続けていなさい。あなたがたは知らないのですから、いつの日にあなたがたの主が来られるのかを」と記されています。
「目を覚まし続ける」とは、当然ながら睡眠を取らないという意味ではなく、「注意を怠らない」という意味です。これは、「主が来られる」ときに「目を覚まして」、主の来臨を喜ぶことができる準備を怠らないという意味になります。
その上で、「次のことを知っておきなさい。家の主人が、泥棒が夜の何時に来るのかを知っていたとしたら、目を覚ましているでしょうし、自分の家に穴を空けられることはないでしょう」(43節) と記されます。これは、その「家の主人」も、泥棒がいつ来るかを知らないのが普通であるという前提で記されています。
いつ来るか分かっていたら、目を覚まして準備していることができるという前提で、「目を覚まし続ける」ということから、「いつも準備している」という話に転換し、「それゆえ、あなたがたも用心していなさい(準備していなさい)。人の子は思いがけない時に来るのです(あなたが期待もしていないようなときに来るのです)」と記されています。
これを前提に使徒パウロは、テサロニケ人への手紙第一5章2–4、9、10節で、「主の日は、盗人が夜やってくるように来ることを、あなたがた自身よく知っているからです。
人々が『平和だ、安全だ』と言っているとき、突然の破滅が彼らを襲います、それは、妊婦の産みの苦しみが臨むようなもので、決して逃れることはできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません……
神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが目を覚ましていても眠っていても、主とともに生きるようになるためです」と記されています。
この結論で、「主とともに生きるようになるため」と記されていますが、私たちは眠る前に、主の守りがあるように祈り、朝目覚めたとき、主の守りがあったことを感謝することができます。「主とともに生きる」とは、すべての働きも休みも、主との祈りの交わりの中で行うということに他なりません。
先のテサロニケ人への手紙5章では、続けて、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。御霊を消してはいけません」(16–19節) と記されています。
私たちはときに、喜ぶことも、感謝することもできないことがありますが、この勧めの最後での「御霊を消してはいけません」とは、自分の不安や悲しみ葛藤などを、正直に受け止めて、主に祈ることに他なりません。
聖霊の働きは、「自分を強いと思う者」にではなく、「自分の弱さを受け入れる人」のうちに現されます。強がりは、「御霊を消す」ことにつながります。
なお、「目を覚まし続ける」ということを、いつも自分の心を緊張状態のうちに置くというように誤解してもなりません。私たちは、神経症的な良心の働き、否定的な良心の肥大化、傷つけられた良心などの罠に気を付ける必要があります。主のことばを内省的に受け止めすぎてはいけません。
これに関し、パウロは、「私は自分で自分をさばくことさえしません。私にはやましいことは少しもありませんが、だからといって、それで義と認められているわけではありません。私をさばく方は主です。ですから、主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません」(Ⅰコリント4:3–5) と記しています。
私たちプロテスタント教会は、救いの確信を強めることに心の目を向ける傾向がありますが、そこには危険もあります。大切なのは、いつでもどこでも、主との交わりのうちに生きることであって、そこでは自分が「神から見捨てられているように感じる」ことであっても、祈りの交わりを深める契機とされます。
詩篇の中にどれだけ多くのそのような祈りが記されていることでしょう。私たちは、「主が来られるまでは、何についても先走ってさばいてはいけません」ということばを、他の人ばかりか自分に向けても適用すべきでしょう。
イエスの弟子たちは、主からエルサレム神殿の崩壊を告げられ、どれほど驚いたことでしょう。それは旧約聖書で繰り返し語られた「主 (ヤハウェ) の日」の現れでもありました。
紀元前586年のエルサレム神殿の崩壊が、ユダヤ人の信仰を精錬し、再生したのと同じように、紀元70年のエルサレム神殿の崩壊は、ユダヤ人と異邦人からなる新しい神の民としてのキリスト教会が全世界に広がる契機とされました。それは私たちの日本が、1945年の致命的な敗戦から新たな歩みに入ったことに似ています。
誰の目にも耐えがたい悲劇と見えたことが、再出発のときとされます。「球根の中には」(讃美歌21:575) という讃美歌の日本語訳では、「その日、そのときを、ただ神が知る」ということばが繰り返されます。これはマタイ24章36節の「その日、その時がいつなのかは……ただ父だけが知っておられます」ということばから取ったものだと思われます。
それは主の再臨のとき以前に、球根の中から花が開くとき、さなぎの中から蝶がはばたく喜びの誕生の時でもあります。
またそれは、沈黙が歌に変えられ、深い闇の中に夜明けが始まり、過ぎ去った苦しみのときが未来を開く時でもあります。それが主の再臨の時のように歌われることが感動的です。
そして3番の歌詞では、「いのちの終わりは いのちの始め 恐れは信仰に、死は復活に。ついに変えられる永遠の朝」と歌われます。これは明らかに、キリストの再臨の日に、私たちすべてが復活し、栄光に満ちたイエスとまみえる時でもあります。
目の前の悲しみから主の再臨を思い浮かべるとき、そこに新しい希望に満ちた歩みが始まります。主の再臨は、今ここにある「祝福に満ちた望み」なのです。