昨日8月8日オリビア・ニュートン=ジョンが73歳の若さで亡くなったというニュースが入ってきました。彼女の歌声がとっても好きでした。長らく乳癌ばかりか鬱病をも患っていたとのことです。
「そよ風の誘惑」Have You Never Been Mellow(あなたはくつろいだことがないのかしら?)という曲が大ヒットしました。この曲が、「そよ風の誘惑」と訳されるそれなりの意味があるようですが、その歌詞を改めて見て、何か自分のことを言われているような気がして驚いています。
あなたはいつも急いでいなかっただろうか、いつも自分を主張することに忙しくなかっただろうか……あなたにペースを落として欲しいだけ……あなたは自分の内側に安らぎを見出そうとしたことがないのですか……あなたには助け手が必要ではないのかしら……
で、和訳つきの歌詞をご覧いただきながら、歌を味わっていただくことができます。
いろいろ話題性のあった方で、創価学会に入信していたという話もネットに出てきました。彼女自身、病の癒しと本当の心の平安を求めていたことでしょう。
この曲が流行しだしたのは1975年3月僕が22歳の誕生日を迎えるころ、その少し前にイエス様を自分の救い主として受け入れ、そこから僕のクリスチャンとしての歩みが始まります。
ただ僕は、他の人には、キリストにある安らぎを体験しましょう……と言っていながら、何と忙しく、駆り立てられるように生きて来たことかと思い起していました。
以下の詩篇23篇はヘブル語でも暗唱できますが、それが本当に僕の心からの告白となっているか……Have You Never Been Mellow(あなたはくつろいだことがないのかしら?)という問いかけが自分に問われているような気がしています。
でも、最近は、そのような忙しさの中で、自分の心の渇きを自覚し、一瞬、一瞬、神に立ち返るということで良いのかと思わされています。
少なくとも、「僕はイエス様を信じて、心がいつも満たされています」などという霊的な強がりは言わないことに決めています。
渇きを覚えるたびに立ち返る方向がある、いつも課題を抱えて生きていながら、立ち返る方向がある……それで良いのかと思っています。平安は、自分が所有するものではなく、イエス様のもとにあります。
自分が平安を持っていなければ……と思っていたときには、信仰すら努力目標になってしまっていました。そんな気持ちで改めて詩篇23篇を味わってみたいと思います。この下にごく簡単なことばの解説を書いています。
詩篇23篇 ダビデの歌
主 (ヤハウェ) は、私の飼い主、(1)
私は乏しいことがありません。
主は私を、緑の牧場に伏させ、(2)
憩いの水際(みぎわ)に伴われます。
主は私のたましいを 立ち返らせ、(3)
御名のために 義(ただ)しい道筋に戻されます。
たとい 死の陰の谷を歩むことがあっても(4)
わざわいを 恐れはしません。
あなたが いつもともにいてくださいますから。
あなたの鞭(むち)と杖(つえ)、それらが私を安心させます。
敵の前で、あなたは私のために食事を整え、(5)
頭に香油を注いでくださいます。私の杯は溢れています。
生きている限り、恵み (goodness) と慈愛 (ヘセッド) が 私を追い続けます。(6)
とこしえに私は、主 (ヤハウェ) の家に住み続けましょう!
—翻訳注—
- 1節bは、原文で、「私は不足することはない」という興味深い表現になっている。
- 2、3節の「主」は、動詞の形から判断される主語で、「彼」が直訳だが、「神」を「彼」と呼ぶのは畏れ多いので「主」と訳している。ただ、1、6節で「ヤハウェ」と明記されているのとは区別される。
- 2節「伏させ(安心して横たわるようにする)」「伴われ(導く)」、3節「立ち返らせ(回心させる)」「戻されます(優しく導く)」、4節d「それらが安心させる(慰める)」は、すべて羊に安心をもたらす神の優しさの表現だが、原文で、それぞれ異なったことばが使い分けられている。
- 4節の3行目の「あなた」は特に強調されて記されている代名詞。
- 同4行目の「鞭」は「棍棒」のようなもので、野生動物の攻撃から守るための羊飼いの武器。
- 6節「恵み」は多くの英語訳でgoodness「良い」の名詞形。4節bの「わざわい」の反対語。
- また「慈愛」はへセッドの訳で、神がご自身の約束に真実であられることを表す。
- 「私を追い続けます」の「追う」とは、「獲物を追う」と使われる表現。羊飼いの犬が羊を後ろから追って前に進ませるイメージ。「わざわいや恐れ」に駆り立てられて生きることの対比。
- 「追い続け」「住み続け」での「続け」は原文にはないことばで「生きている限り」「とこしえに」ということばと動詞の形から説明的に付加。