安倍元首相の非業の死に際して、世界各国から慰めに満ちた弔意が寄せられていました。日本では、彼に対する評価が驚くほど分かれてしまいますが、安倍前首相がころほどに世界から評価されていたこと自体は本当に喜ぶべきことだと思われます。
それにしても、この日本での反応の揺れには唖然とするばかりです。金曜日に安倍さんへの銃撃が報じられたとき、どの政党の指導者も、一様に「民主義への挑戦である」と語っていました。それが、今は、犯人が、統一協会の被害者で、安倍さんがこのカルト集団を応援していたこと自体が問題である……という論調に変ってきています。
創造主がすべてを支配しているということを認めない人にとっては、すべてを因果律で説明する必要があります。そうすると、殺された側、また狙われた側にも、それなりの責任があるに違いないという論理がなりたちます。
聖書では、生涯にわたって生命の危険にさらされていた代表者はダビデです。しかし、私たちはそこで、ダビデのいのちが狙われる理由に注目する代わりに、彼が危険なただ中で、どのように神に叫び、そのいのちが守られたかに目を向けます。
この世の政治は、ある意味で、それぞれの利害を代弁する人々の戦いの場とも言えます。ですから政治家がどこにおいても厳しい非難にさらされるのは当然のことです。もちろん、岸さんや安倍さんが統一教会に肩入れしたことは反省されるべきことですが、残念ながら、政治家にとって、宗教団体ほどおいしいお金と得票の源泉になる場もないということも冷静に見る必要がありましょう。(その点、私たち自由教会の伝統は、政治と一線を画すことを大切にしていますが……)
このような事件で何よりも注目すべきことは、犯人の心の闇ではないでしょうか。ある意味で、この犯人の中にも、統一協会の思想が影響を与えています。
それは徹底的な善悪二元論、この世を神とサタンとの戦いの領域と見る視点です。犯人は、あれほどの恐ろしいことをしていながら、自分は正義の使者であるかのような冷静な言動を繰り返していることに唖然とするばかりです。それは、人々に祝福を届けるという名目のもとに、人を騙すことに心の痛みを感じなくなる統一協会の教えと同じ発想ではないでしょうか。
統一協会の教えが人の心を支配するできる基本に、「恐怖」があります。それは地獄の恐怖とも言えるかもしれません。彼らは自分の信心が、先祖の霊までも地獄から解放できると信じています。また、自分たちの結婚が、子孫をサタンの支配から解放できると信じています。
サタンの支配という恐怖を目の前に見せることによって、その恐怖から解放されるために、土地や財産すら犠牲にできます。家を失う恐怖よりの、サタンの支配下に置かれる恐怖が勝るからです。
それに対して、聖書では、徹底的な神の愛の支配が強調されています。ダビデは、終生、いのちを狙われながら、以下のような祈りをささげています。詩篇71篇5–11節には次のように記されています(私訳)
主 (アドナイ) ヤハウェは 若いころからの私の拠り所。
あなたに 胎内にいるときから私は抱(いだ)かれています。
あなたは 母の胎から私を取り上げてくださった方
私の賛美はいつもあなたに向けられています。
私は多くの人にとって奇跡と思われました。
あなたが 私の力強い避け所だからです。
私の口にはあなたへの賛美が満ちています
あなたの栄えは一日中(私の口で賛美されています)……
私を見放さないでください 年老いたときにも。
力が衰え果てても 私を見捨てないでください。
それは 敵たちが私のことで話し合っているからです
私のたましい(いのち)を狙う者たちはともに企んでいます。
彼らは言っています 『神は彼を見捨てた。
追いかけて捕らえよ。救い出す者はいないから』と
先日お知らせしたように、先週はたて続けに、辛く悲しいことが起きて、気持ちが落ち込んでいました。でも、今週はそれぞれのことに少しずつ、光が見えてきています。
そして、何よりも、僕自身が、まもなく出版予定の「心が傷つきやすい人への福音」に引用した詩篇のことばによって深い慰めを受けることができました。
勝手ながら、自分の「心が傷ついた」という体験は自分が書いている本の大切さを自覚させてくれる契機なったとさえ言えます。
ダビデは、自分の誕生を振り返りながら、それが神の愛の支配の中にあったと見ています。僕は、このダビデの告白を見て、大雪山の麓の寒村での、危険に満ちた自分の誕生、またその後の貧しい家でのいのちの危険も全能の神の御手の中にあったと思える時に、自分の存在を喜ぶことができるようになります。
でもダビデの祈りと同じように、すぐに神と人から見捨てられるかのような恐怖を味わうことがあります。ダビデの祈りには、このような平安と不安が繰り返されます。その心の揺れが、自分のように揺れやすい心に慰めになります。
「私は多くの人にとって奇跡と思われました」というダビデの告白は、僕の母が、僕を見るときの感動と結びついています。母は、「秀典を見ていると、確かに、神様が守って下さっているということが分かる……」と言って信仰告白をしました。
そして、僕も、何か、心が傷つくようなことがあっても、母のことを思い起すと、気持ちが癒されます。今週も、北海道の施設にいる母に何かプレゼントを送ろうと考えたところから、いろんなことが好転して行きました(笑い)。
そのように母の愛を感じられること自体が、恵まれている……とも言えますが、ふと、「だからこそ、僕には 不安を味わう人々に寄り添う使命が、神から与えれてる、それは、「傷つくことができる力」の源泉であるとも思えました。
父や母の愛を感じながら育つことができたことは、本当に本当に、当たり前のことではなく、神から与えられた特別な恵みです。そこから、「傷つくことに耐える力」が生まれます。
自分の誕生を感謝できる者には、この世で不安を味わっている人に寄り添う使命が与えらえています。ただ、「人を愛する」とは、「自分の心が傷つく」契機にもなります。
神もイエスも、人を愛しながら、心が痛んでおられました。
心が傷つくことは、神からの使命に生きることと切り離せません。
しかし、そこには同時に、新たないのちの喜びが生まれます。また新たな出会いが生まれます。
「心が傷つきやすい人への福音」は8月には出版していただける見込みです。ご期待いただければ幸いです。