昨日から、安倍元首相を狙った犯人が、旧統一協会(世界基督教統一神霊協会)、現世界平和統一家庭連合に恨みを抱いていたということでニュースが持ちっきりになっています。
僕の未信者の友人からも、それはキリスト教の一派なのか……という問い合わせがあったりしています。昔、会社務めをしていた時、先輩に、異端的な宗教について聞かれた時、「あれは偽物なのです」と言ったら、「宗教に本物も偽物もあるものか……」と揶揄されてしまいました。
ですから、あまり感情的に、他宗教のことを批判するとかえって、私たちが独善的な教えにはまっているとも批判されかねませんから、気を付ける必要があります。
ただ、根本的に違うことは把握する必要がありましょう。聖書にも、「キリストの使徒に変装している」人のことが描かれ、「サタンでさえ光の御使いに変装します」(Ⅱコリント11:13、14) と記されています。
概説統一原理レベル4には次のように記されています (p147)。
従来キリスト教会においては、十字架の死は最初から、神の予定でありみ旨であったと答えてきた。しかしそうではないのである。イエスを十字架につけたのは過ちであった
簡単に言うと、「イエスの十字架は神の失敗であった」。だから別のメシアが必要になった。それが、文鮮明である……ということになります。
しかし、ヘブル人への手紙2章14、15節にはイエスの十字架による神の勝利が次のように描かれています
そういうわけで、子たちはみな血と肉とを持っているので、イエスもまた同じようにそれらのものをお持ちになりました。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔をご自分の死によって滅ぼし(無力化し)、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれていた人々を解放するためでした。
イエスの十字架は、私たちを死の恐怖の奴隷状態から解放するためであり、イエスは復活によってサタンを無力化したというのが聖書の主張です。
それが、ローマ帝国では、クリスチャンが死の脅しに屈しないことで評判になり、多くの人々が信仰に導かれるという勝利につながっています。
今も、多くの人々が、統一協会の誤解から解放されるきっかけは十字架の意味の理解になっています。十字架は本来、ローマ帝国でもっとも忌み嫌われた死刑の道具でした。しかし、今や、世界中の人々が、その死刑の道具のシンボルをネックレスに用いるまでになっています。ですから、正当なキリスト教会は十字架を「神の愛の勝利」と考えているというのが明らかなことと言えましょう。
それと、岸信介氏と安倍氏と統一協会との結びつきが問題にされています。確かに、それを問題にしたい気持ちもよくわかります。ただ彼らが統一協会の教えを理解していたかは大きな疑問です。彼らは三つの世界大戦を神とサタンの勢力との戦いを描きます。「第一次世界大戦はイスラム教国のトルコを応援するドイツ、オーストリアと、英仏米などの民主主義国家との戦いであった……前者はサタンの勢力、後者は神の勢力である……第二次大戦は、ドイツ、日本、イタリアというサタンの勢力と米英仏などの民主主義国家である神の勢力との戦いであった、そこにサタン側のソ連が紛れ込んでしまった。第三次世界大戦は、サタンの使いである共産主義勢力と民主主義勢力との戦いである……大戦の形がどのようなものになるかは分からないが、外的な武力によってサタン世界を屈服させたとしても、より高次の理念がなかればサタンを屈服させることはできない。その根本理念は『人類は一つの兄弟』『世界は一つの家庭』の理想世界を作る原動力である」(前述「概説統一原理レベル4、PP403–409)。そこから現在の団体の名前が出てきます。
岸さんにしても安倍さんにしても、太平洋戦争は米国の挑発によって起こされた日本の防衛戦争であると信じている方々です。彼らにとっての太平洋戦争は、大東亜戦争であり、それが現在の日本国憲法改正の悲願に結び付いています。
しかし、統一原理では、第二次大戦時の日本はサタンの勢力とされているのです。なぜ、日本をサタンの勢力と見た人々と一致ができるのでしょう。
現在の統一協会は、「世界平和統一家庭連合」と名を変えていますが、そこで唱える世界平和……とは、ある勢力の人々をサタンの手先と見る好戦的なものであるという実態を忘れてはなりません。共産主義国、旧共産主義の専制国家をサタンの勢力と見ての第三次世界大戦を意識しての「世界平和」であることを忘れてはなりません。
岸さんも安倍さんも 敵の敵は味方……ということで、統一教会を応援し過ぎた面がありますが、所詮、政治家的な判断に過ぎませんでした。
「サタンでさえ光の御使いに変装します」統一協会の流れの恐ろしい所は、聖書の教えを用いながら、聖書の教えの根本を捻じ曲げることです。この世の人々にとっては、宗教などどこでも自分を絶対化している……と思えるのは残念ながら事実です。
しかし、聖書の教えを捻じ曲げて自分たちの教えを正当化する行為に対しては、私たちはその誤りを指摘することができます。
様々な情報が交錯する中、すべてにおいて落ち着いた対応が求められています。