絶望から歓喜へ——プリムの祭り

本当に悲しいことが起きていますが、聖書の世界には絶望と歓喜が同居しています。明日の礼拝ではエステル記からの最終回のメッセージです。

私たちの教会が間接的に応援しているウクライナ・キーウのメシアニック・ジュー(ユダヤ人クリスチャン)を中心とした教会での今年のプリムの祭りの礼拝を下記の でご覧いただけます(5分30秒のビデオ)。

これは今年の3月19日の礼拝風景で、そのときキーウはロシア軍に包囲されており、ミサイルがいつ飛んでくるかわからな状態でした。そのような戦時下の真ただ中で、動画にあるように、そこのクリスチャン(ユダヤ人は半数程度か)が、神をたたえて賛美し、踊っています。

エステル記から生まれたプリムの祭りでは、みんなが仮装して祝う習慣があります。ハマンとモルデカイ、エステルなどに仮装するのでしょうか……

現在のユダヤ国歌、「希望(ハティクバ)」は19世にウクライナで生まれた詩人によって記されています。この歌は、ナチスドイツのユダヤ人強制収容所の中で、ユダヤ人の間で歌われていました。

昨日の安倍元首相の死に関して、ほとんど日本のすべての政党の党首が、民主主義への挑戦……と言っていたときに、ドイツの記者はインタビューに答えて、「これは一人の狂気による犯行か、政治的な背景があるかは、まだ分かっていない」という冷静な言い方をしていました。

日本では、「一人の狂気による犯行」ということばは、差別として使いにくいものですが、このように言うことによって問題が整理されます。民主主義に対する挑戦であり、決してあってはならないことなのですが、このような狂気による犯行は、どの時代にも起こってることです。それを前提に、過敏な政治的な反応をせずに、改めて、このようなことを通して、この社会に孤独な人をつくらないための愛の種まきが必要と考えた方が良いように思われます。

ヤコブ書には「嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。主の御前でへりくだりなさい」と逆説的なことが記されています (4:9、10)。しかし、その直後に、「そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます」という約束が記されています。

プリムの祭りは、「悲しみが喜びに、喪が祝いの日に変った」ことを記念して、「互いにごちそうを贈り交わし、貧しい人々に贈り物をする日」です (エステル9:21、22)。悲しみの中にも、永遠の神の御支配の喜びを発見できるということを覚えたいと思います。