多くのクリスチャンは、イエスの十字架の贖いによって「罪が赦され」、神との交わりが回復し、このままの私が「神の子」とされたという福音を喜んでいます。それは福音の核心です。
しかし、それと同時に、この地上で生きるとき、何よりも辛いのは、自分が期待し努力したことが実を結ばないことではないでしょうか。ヘブル人への手紙11章では、アブラハムの信仰が、「信仰によって、彼は約束された地に他国人のようにして住み、同じ約束をともに受け継ぐイサクやヤコブと天幕生活をしました」(9節) と記されます。
そしてこれらのイスラエル民族の父祖について、「信仰をもとに、これらの人たちはみな、死にました。約束のものを受けることがないままに、遠くからそれを見て喜び迎え、地上においては旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」(13節私訳) と解説されます。
この希望は、死んで天国に行くというよりも、私たちの期待が報われ、この世界が「新しい天と新しい地」へと造り変えられ、すべての信仰者が「朽ちないもの」(Ⅰコリ15:42) としての新しい身体を与えられてその世界に復活することを指しています。
パウロは、コリントの手紙第一の15章で、「死者の復活はないと言う人たちがいる」と指摘しながら、「死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります……もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です」と論じています (12–14、19節)。キリストと私たちの将来的な復活はセットで福音の核心なのです。
そして、パウロはそのすべての結論として「ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから」と述べています (58節)。
つまり、私たちがこの地上で不条理な苦しみに耐えながら誠実を尽くすことができる根拠として、キリストの復活と私たちの復活の希望があると記されているのです。
なお、旧約聖書での最も有名なキリスト預言としてイザヤ書53章の「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた……まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛み(悲しみ)を担った……彼は多くの人の罪を負い、背いた人たちのためにとりなしをする」(3、4、12節) が記されています。
しかし、この預言はその前の52章13節の、「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められて上げられ、極めて高くなる」という復活預言から始まっていることを忘れてはなりません。
初代教会では、十字架と復活は常に一体のものとして語られてきました。事実イエスは、「目の前に置かれた喜びのゆえに、十字架を耐え忍びました、辱めを軽蔑することによってですが、神の右の座に着座されたのです」(ヘブル12:2私訳) と記されています。そしてイエスは、ここでの「目の前の喜び」とはご自身の復活を指していることは明らかです。
イザヤ書52章13節から53章をご自身の使命と受け止めて、十字架に向かわれたのです。この世に不条理は続きます。しかし、復活信仰のゆえに、そこに愛の交わりが広げられてゆくのです。
1.「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちが、イエスのところに来た」
22章23節では、「その日、復活はないと言っているサドカイ人たちがイエスのところに来た。そして質問した」と記されます。「その日」とは、イエスがパリサイ人の弟子たちから、「カエサルに税金を納めることが、律法にかなっているかどうか」を尋ねられた日です。
「サドカイ人」は聖書理解においてパリサイ人と大きく違っていました。使徒の働き23章には、パウロが律法に反することを教え、また行っているということで、多くのユダヤ人から非難され、エルサレムの最高法院でさばきを受けた様子が描かれます。
その6–9節では、「パウロは、彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見てとって、最高法院の中でこう叫んだ。『兄弟たち、私はパリサイ人です。パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、さばきを受けているのです』パウロがこう言うと、パリサイ人とサドカイ人との間に論争が起こり、最高法院は二つに割れた。サドカイ人は復活も御使いも霊もないと言い、パリサイ人はいずれも認めていたからである。騒ぎは大きくなった。そして、パリサイ派の律法学者たちが何人か立ち上がって、激しく論じ、『この人には何の悪い点も見られない。もしかしたら、霊か御使いが彼に語りかけたのかもしれない』と言った」と記されています。
ここでパウロは、パリサイ人とサドカイ人との対立関係を煽ることで自分の身を守ろうとするという賢い対応をしています。興味深いのは、パウロの律法違反をさばくために集まったはずの人々が、パウロの誘導で「死者の復活」ということに議論が向かうと、本来のパウロに対する罪状認否を忘れるほどの大論争となったという点です。
つまり、「死者の復活という望み」というテーマが、明らかに当時のユダヤ人の中で熱い議論となっていたのです。
同時期のユダヤ人の歴史家ヨセフスはユダヤ古代誌で、「サドカイ人は、魂は肉体とともに消滅するという教義を信奉している。彼らは書かれた律法以外の何ものにも従うことを認めない……この教義を知っている人は少数で、それは高位の人たちである……」と記しています。
またユダヤ戦記においては、「サドカイ派は運命を全く否定し、神は悪を命じないばかりでなく、悪を見ることさえない高みにいると考えた。彼らは、人間は善悪の選択の自由を持ち、善悪の一方を選ぶのは一人一人の意志である、と主張した。霊魂の死後の存続とか、陰府における刑罰とか、報いなどについては一切否定した。パリサイの人びとは互いに愛し合い、共同社会における調和をはかった。サドカイの人びとは、反対に彼ら自身の間でも無作法であり、同国人に対してもまるで異国人に対するように乱暴であった」と描いています。
「サドカイ人」はエルサレム神殿を中心とする祭司家系に連なる裕福な上流階級で、紀元前170年頃にユダヤを独立に導いたマカベア家の宗教的、政治的立場を支持する党派であったと言われます。
また彼らはモーセ五書に記された律法にのみ最終権威を認めたと言われており、そのため、そこに記されていない復活論や死後のいのちのような教理を否定したと思われます。彼らの関心は常に世俗的なことで、礼拝儀式を守ることとそこでの自分たちの立場を守ることばかりを考えていたと思われます。
なお、聖書で死者の復活について明確な記述が登場するのは、イザヤ書に代表される預言書と、ヘブル語聖書では最後の諸書の一つに数えられるダニエル書です。預言書以降の記述では、イスラエルの民が異教の国々の支配下に置かれている中で、神がこの世界の不条理を最終的に正してくださるという希望が前面に出てきます。
つまり、「死者の復活の希望」とは、現実の不条理に耐えながら、神が最終的にこの世界をご自身の正義と平和で満たしてくださることを信じて、今を誠実に生きるための力となるのです。
確かに旧約には、新約ほど明確には、死人の復活を保証している箇所はないように思えます。しかし、サドカイ人たちが復活を否定するのは、聖書理解以前に、死後のいのちの祝福を期待する人が、現在の肉体の命を軽蔑し、権力者に戦闘を挑んでくるからだったと思われます。
当時の人々の中には、殉教の死を願う現在のイスラム過激派のような人がいました。サドカイ人たちは多くの既得権益を持っていたからこそ、死後の希望を告白して損得勘定を超えて生きられる人々に脅威を抱いていたのでしょう。
2.「復活の時には、人はめとることも嫁ぐこともありません」
サドカイ人がイエスに持ち出した議論は、24–28節に記されています。そこで彼らはまず、「先生。モーセは、『もしある人が、子がないままで死んだなら、その弟は兄の妻と結婚して、兄のために子孫を起こす』と言いました」と、モーセの律法を持ち出すことでイエスに議論を挑みました。これは申命記25章5–10節の要約です。
そこでは、「兄弟が一緒に住んでいて、そのうちの一人が死に、彼に息子がいない場合、死んだ者の妻は家族以外のほかの男に嫁いではならない。その夫の兄弟が、その女のところに入り、これを妻とし、夫の兄弟としての義務を果たさなければならない。そして彼女が生む最初の男子が、死んだ兄弟の名を継ぎ、その名がイスラエルから消し去れないようにしなければならない」と記されていました (5、6節)。この規定は、世界各地に見られるレビラト婚の原型のような記述です。
その趣旨は、子を残さずに死んだ夫の跡継ぎを残す責任を、彼の妻と彼の兄弟に命じるものです。当時は土地こそ、神の具体的な祝福の象徴であり、それを子孫に残すことは、最高の責任であったことを理解する必要があります。そして、これを前提としなければルツ記は理解できません。
ルツをめとったボアズは町の長老たちに向かって、「あなたがたは、今日、私がナオミの手から、エリメレクのものすべて、キルヨンとマフロンのものすべてを買い取ったことの証人です。また死んだ人の名をその相続地に存続させるために、私は、マフロンの妻であったモアブの女ルツも買って、私の妻としました。死んだ人の名を、その身内の者たちの間から、またその町の門から絶えさせないためです」と宣言しました (ルツ4:9、10)。
つまり、ルツは、断絶したはずのエリメレクの家を再興するという使命のために結婚したのです。これを「あなたの隣人の妻を欲しがってはならない」(申命記5:21) という第十の教えの中で理解すると、結婚は互いの欲望を基にではなく、神からの使命のためにするという原則が明らかになります。
そこでは、子を残さずに死んだ夫の妻が、彼の兄弟との再婚によって夫の血筋を絶やさないことが、残された妻としての義務とされていました。それは、神から委ねられた土地を、責任を持って管理し続けるためでした。
この規定をもとに「サドカイ人たち」はイエスを困らせようと次のような難問をぶつけます。「ところで、私たちの間に七人の兄弟がいました。長男は結婚しましたが死にました。子がいなかったので、その妻を弟に残しました。次男も三男も、そして七人までも同じようになりました。そして最後に、その妻も死にました。では復活の際、彼女は七人のうちのだれの妻となるのでしょうか。彼らはみな、彼女を妻としたのですが」と質問しました (25–28節)。
これは当時の人々に有名な話を思い起させました。のトビト書では、七人の男に嫁ぎながら初夜の前にすべての夫に先立たれ、召使の女から「夫殺し」という辱めのことばを受けた敬虔なサラの話しが描かれていました。彼女は必死に神にすがり、その祈りは天に届き、神の導きでトビトの息子のトビアと結ばれ、多くの子たちに恵まれました。
その物語ではサラはトビア以外の者には結ばれていませんでしたが、もし七人の兄弟に実際に嫁いだ女性がいた場合に、復活の日に、彼女は誰の妻なのかという疑問が出るのも無理からぬことです。つまり、再婚が義務として命じられているという例があることは、復活がないということの何よりの証拠だと彼らは言いたかったのです。
それに対してイエスは、「あなたがたは思い違いをしています。それは、聖書も神の力も知らないからです。復活の時には、人はめとることも嫁ぐこともありません。天の御使いのようになっています」(29、30節) と言いました。
当時のユダヤ人たちにとっては、神から与えられた土地を子孫に正しく相続させ、管理させるということが何よりも大切な神のみこころと理解されていました。結婚は土地を子孫に残すための手段だったのです。
それに対し、御使いは土地を所有せず、神との交わり自体を喜んでいます。それと同じように復活後の世界では子孫を残す必要もなく、結婚は不必要になるというのです。
当時は再婚に際してさえ、妻は最初の夫に縛られ続けましたが、イエスはこのことばによって、伴侶に先立たれた人に、新しい人生を始めさせる完全な自由を保障してくださいました。主はこれによって、全世界の結婚観を変えられたのです。
モーセの律法での「結婚」とは、神の民の子孫を残し、神から与えられた土地を相続させるために、神が定めた秩序でした。しかし、新約においては、アブラハム契約における土地の相続が、約束の地イスラエルから自由にされています。
その結果、すべての結婚が、創造の原点に立ち返ることができました。それをイエスは、「創造者ははじめの時から『男と女に彼らを創造され』ました。そして、『それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである』と言われました。ですから、彼らはもはやふたりではなく一体なのです。そういうわけで、神が結び合わせたものを人が引き離してはなりません」と言われました (マタイ19:4–6)。
この結婚の原点には、家を守るとか、土地を相続させるとかの概念はなく、ただ、「ふたりが一体となる」という神秘が語られています。
3.「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」
その上でイエスは、「死人の復活については、神があなたがたにこう語られたのを読んだことがないのですか」と問いかけます。ここでは神がイスラエルの民に直接語られたかのような印象が生まれるかもしれません。
しかし、マルコの並行記事では、「死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか」(12:26) と記されています。それは出エジプト記3章を思い起させます。
モーセが約40年間、「ミディアンの祭司、しゅうとイテロの羊を飼っていた」中で、神の山ホレブに近づいたとき、「主 (ヤハウェ) の使いが、芝の茂みのただ中の、燃える炎の中で」モーセに現れます。
「彼が見ると、なんと燃えているのに柴は燃え尽きていなかった」のですが、モーセが「近寄って、この大いなる光景を見よう」と思ったとき、主ご自身が彼に「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ、あなたの立っている場所は聖なる地である」と言われました (1–5節)。
そのときのモーセは、自分がミディアンの地で、そのまま羊飼いとして人生を終えると思っていたに違いありません。そのように死んだも同然と思われたモーセに、主は、「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とご自身を紹介し、「今、行け、わたしは、あなたをファラオのもとに遣わす。わたしの民、イスラエルの子らをエジプトから導き出せ」と、途方もない命令を与えられました (同3:6、10)。
それはモーセばかりかイスラエルの民をも復活させる神のことばとも言えました。
そこでイエスは、主がモーセに語られたことばを、「あなたの父祖の神」の部分を省いて、「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(32節) と引用します。そこでは、「アブラハム」、「イサク」、「ヤコブ」の人生を導いた神の物語が思い起され、その同じ「生ける神」が今、モーセとイスラエルの民の歩みを「導く」というニュアンスが伝わってきます。
その上でイエスは、「神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です」と言われます。マルコの並行記事では、このことばに加えて、「あなたがたは大変な思い違いをしています」(12:27) ということばが加わります。これは何とも不思議な説明です。
アブラハムもイサクもヤコブも、「(約束の)地を与える」という神の約束を聞きながら、「旅人、寄留者」として、地上の生涯を終えました。もし、彼らが、永遠に「死んだ者」となったとしたなら、神の約束は「果たせぬ夢」だったことになります。
しかし、アブラハムもイサクもヤコブも、今も生きており、単に眠った状態に置かれていると理解することができるのです。しかもイエスは、「神は……生きている者の神です」と言うことによって、彼らのための「約束」はずっと生き続けていると語りました。
来たるべき「新しい天と新しい地」は、この目に見える「天と地」をもとに、それが造り変えられる世界です。彼らの肉体は、新しい復活の身体の種のようなものです。彼らの肉体の死は、一時的な「眠り」のような状態に過ぎません。彼らは、神の目には永遠に生きているのです。
私たちにとっての「永遠のいのち」とは、将来に実現する「新しい天と新しい地」のいのちが、今から始まっていることを意味します。ですから私たちも、自分に与えられた「救い」を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神が、今、私の神となられた。」と表現できるのです。
サドカイ人は目に見えるものに固執し、この世の成功を神の祝福、不幸を神のさばきと見ました。しかし、本当の幸せは愛の交わりにあり、それは目には見えにくいものです。この地での結婚は、愛を学ぶ学校です。愛することの難しさを体験し、天で完成する愛の交わりへの望みを育む関係です。
来たるべき世では、すべての人との関係が、最愛の夫婦関係のようになります。それは愛の交わりが完成する場所です。そこでは、愛を学ぶ学校としての夫婦関係は不要になるという意味で、愛が完成するのです。
サドカイ人の教えは、紀元70年、エルサレム神殿がローマ帝国に滅ぼされるとともに滅びました。復活を信じない者の末路はあわれです。損得を越えた愛の交わりの永遠性を信じないで、どこにいのちの喜びがあるでしょう。
イエスの復活の教えは、死後の希望以前に、今ここでのいのちを喜ぶことにありました。
なお、33節に「群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚嘆した」と記されます。この「驚嘆した」ということばは、22節の「不思議」を意味する「驚嘆し」とは異なったことばで、7章28節の山上の説教の結論での「群衆はその教えに驚いた」と言われることばと同じく、喜びの驚きを意味します。
群衆はイエスが「サドカイ人たちを黙らせた」(34節) という事実に溜飲を下げるような思いを味わったのだと思われます。
サドカイ人を除くイエスの時代の多くの人々はダニエル書を愛読していました。その結論には、「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかしその時、あなたの民で、あの書に記されている者はみな救われる。ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に。賢明な者たちは大空の輝きのように輝き、多くの者を義に導いた者は、世々限りなく、星のようになる」と記されています (12:1–3)。
それは、大患難の訪れの中で誠実を保ち、多くの者を義に導いた者が、星のように輝くという約束が記されています。たとえば、神がおられるなら、どうして現在のウクライナの悲惨が放置されているのかと疑問に思う人が多くいます。
しかし、やがて明らかになることは、そのような悲惨の中で、キリストに倣って、愛の交わりを広げた人が必ずいるということです。悲惨以上に、そこに神の愛の広がりを確認することができます。それこそ、復活の力と言えます。