今週はイエス様が十字架にかかられたことを覚える受難週です。
多くの人々は、ウクライナの悲劇などを見ながら、「神がおられるなら、なぜこのような悲惨が、放置されるのだろう」と、創造主の支配に疑問を持ちます。
イスラム教の経典コーラーンでは、イエスが処女マリアから生まれた「アッラーとの使徒」と認めています。ただ、イエスが十字架に架けられて殺されたということは認めずに、次のように記しています
彼らはイエスを殺しておらず、十字架に架けてもいない。彼らにはそう見えたというだけ。それについて相争う者たちは、それについて疑いを抱えている。彼らはそれについての知識もなく、ただ推測に従っているに過ぎない。彼らがイエスを殺していないのは確実なこと。いいや、アッラーが彼を御自ら引き上げたのである。アッラーは威力あり、賢明である。
コーラン トルコ文化センター訳 Ⅳー157、158
「イエスが十字架で殺された」というのはこの世の常識とも言えますが、それがイスラム教で敢えて否定されるのは、全能の創造主が、ご自身に従う者をそのような苦難と辱めに遭わせるはずはない……それが認められると、神の全能が否定されることになるから……ということです。
一方、コーランは、イエスが処女マリアから生まれたということと、天の父なる神のもとに引き上げられた……という神のみわざは認めます。全能の神にできないことはないからです。人間的には、イスラム教の方が合理的に感じられます。
しかし、そのような解釈では、この地上に繰り返し起る様々な不条理や不当な苦しみの意味を説明することはできません。それはその苦難から新しいことが始まるということ、すべての苦難に新しい意味が生まれ得るということです。
残念ながら、人間の歴史には、横暴な独裁者によって一般大衆が残虐に殺されるということは、繰り返し起きて来たことです。
聖書が示すのは、そのような不条理な中でも、神のかたちとしての誠実な生き方を全した人々がおり、そのような人々の証しによって、多くの人々が苦しみのただ中でも、神に信頼し、平和を広げてきたという現実です。
J.S、バッハのマタイ受難曲では、イエスが息を引き取る場面が、「イエスは再び大声で叫んで霊を渡された」(マタイ27:50) と記された後、次のようなパウル・ゲルハルドの作詞の受難曲(讃美歌136「血潮したたる主の御頭」の9番の歌詞が静かに歌われます。
直訳は次の通りです
たとい私があなたから離れてしまうようなときがあっても、
私を引き離さないでください。
たとい私が死の苦しみを味わう時にも
どうかその場に入ってきてください。
たとい私の心が恐怖に圧倒されるようなときにも、
私をその不安の中から引き上げてください。
あなたの不安と苦痛の効力によって
以下の歌詞にするとメロディーに合わせて歌うことができます
きみが愛なお忘れしとき わが手を取りて戻したまえ
恐れ惑える暗きときも きみが苦しみ力なれば
ここでは不思議にも、イエスご自身が十字架で味わってくださった不安と苦痛こそ、私たちが苦しみの中でも神のかたちとして生きることができるための「力」として働くと歌われています。
つまり、私たちは不条理な苦しみに遭いながらも、そこでイエスご自身の苦しみを追体験して、そこでこの不安と苦痛を耐えたイエスの力をいただくことができるということなのです。
私たちの人生には、意味が分からない、「神がおられるなら、どうして……」と思える不条理な苦しみを避けることはできません。今、ウクライナの人々は、そのような不条理な苦しみに耐えながら、そこで互いに助け合うという愛の交わりを広げています。
今週金曜日、マタイの福音書の受難の記事の朗読を聞きながら、それの意味を解説する様々な受難曲をともに唱和してみましょう。
古い讃美歌の歌詞がそれぞれ、聖書の言葉の意味を、私たちの感性に訴えるように歌われます。あなた自身が、平和な中にいても、苦しむ人との連帯を味わうことができます。もしあなたが、苦しみの中におられるなら、イエスの不安と苦しみを味わうことは、あなた自身にその不安と苦痛に耐える力を与えることになります。
今週金曜日4月15日午後7時にお越しください。一時間以内に終わるプログラムです。なお、どうしてもその場に来られない方のために、Zoomで実況中継をします。 していただければ招待リンクを送りいたします。今回は、ピアノとバイオリン、ビオラの演奏で受難曲を歌います。