僕と洋子は以前、宮崎県を少し旅行しました。昔から、古事記の物語に興味を持っていたので、日本列島を造ったと言われるイザナギのみことが、阿波岐原でみそぎをして、その左目を洗ったところアマテラス大神が生まれたという、その地を捜してみました。
その地に、このような漫画チックなアマテラス生誕の説明が記されていました。
そこには、イザナギのみことが、汚れを祓い清めたという「みそぎが池」がありました。僕がその池に手を差し伸べている写真と、
その池の説明です。
天皇家の祖神はアマテラス大神であり、その孫のニニギノミコトが地に降ったというのが宮崎県の高天原です。ニニギノみことがコノハサクヤノ姫と結婚して、山幸彦と呼ばれるホオリが生まれ、またホオリと海神(わたつみ)の神の娘のトヨタマヒメから生まれたのが、神武天皇の父ということになっています。神武天皇は四男でした。その神武天皇がヤタガラスの導きで東征し、現在の奈良県に大和朝廷を打ち立てたというのが、紀元節の由来となっています。
上記写真のアマテラス誕生の地の説明にしても、みそぎが池の説明にしても、これを絶対化する意図はまったく感じられません。ほのぼのとした神話としかだれも受け取りません。ただ、明治政府は、キリスト教に対する対抗意識から、アマテラスから神武天皇に至る神話を絶対化しようとしました。しかし、ほんとうに素朴な気持ちで古事記を読む人が、それを歴史的な事実と受け取ることはあり得ないことでしょう。
日本の神話と聖書の記述はまったく次元が異なります。
聖書の始まりの「はじめに神が天と地を創造された」ということばは、決して科学と矛盾することでも、人間が考え出した神話でもないことは明らかです。
古事記は最初から、「生まれた神々」の物語として描かれていることに対し、この聖書の神は、何も存在しないところに「ことば」で世界を創造された方です。
日本の神話は、最初から、事実として受け留められるようには記されていません。その背後にある日本人の様々な思いが詰められた物語であることは誰の目にも明らかです。日本の神話を、もっと優しい眼差しで味わってみることも大切かもしれません。そこには、いのちや死の起源を知り、それから自由に生きたいという人間としての当然の願望が描かれています。
その人間としての当然の願望に答えるために、天地万物の創造主である方が、マリアを通して人となって、私たちを死の支配から解放するために十字架にかかり、三日目によみがえって、今、天から私たちの歩みを導いておられる、そのためにご自身の聖霊を私たちにお与えくださったというのが聖書のストーリーです。