ところで、昨日、「もしイエス様が市長だったら」(ボブ・モフィット著、陣内俊訳、「声なき者の友」の輪 監修 スマイルブックス発行)を読んでいて、とても心の底に落ちた表現がありました (p281)。
それは、「リスク」にあたる日本語の単語は存在しない……と翻訳注がついていたことです。
しばしば、リスクは「危険」と訳されますが、確かに全然、ニュアンスが違います。私たちは新型コロナ感染の「危険」を回避する行動を取る必要があります。
しかし、英語の Risk ということばには冒険心を刺激する響きがあります。たとえば、新型コロナで医療従事者が不足している。リスクを引き受けて奉仕してくれる人が必要だ……という呼びかけに応じる人を私たちは尊敬します。
もともと、英語のリスクの語源は、ローマ時代のラテン語が中世のイタリア(ベネチア)に伝わった Risicare(リズカーレ)ということばだとも言われます。
それは危険に満ちた地中海やインド洋での貿易に乗り出す際に「勇気をもって試みる」という意味で用いられたとのことです。
たとえば、ルカ19章12節以降での「ミナのたとえ」では、預けられたお金を十倍に増やしたしもべが賞賛されています。これは、リスクを冒さないと決して生まれない収益です。
このミナのたとえをすると、「どうして、損した人の話が出てこないのですか」と問われることがあります。しかし、文脈が明らかなように、お金を預けた主人は、チャレンジすること自体を喜んでいるのですから、損のことなど書く必要はありません。たとえ損を出しても、主人は次のチャレンジを励ますことが明らかです。
厳しく責められているのは、一切のリスクを避けようとした人の怠慢です。それは、このしもべが、主人はあらゆる失敗ばかりをあげつらって人を責めると誤解していたことによります。確かに、そのような上司は日本に多いかもしれませんが……
世界の感染症対策の歴史を変えた偉大な人物が日本にいます。北里柴三郎博士です。ヨーロッパの歴史では、疫病の代名詞はペストですが、そのペスト菌を発見し、現在の「マスク」を開発したのが彼です。
1894年に中国南部でペストが流行し始めた時、彼は香港に行き、徹底的に調査しました。彼の応援者であった福沢諭吉は、北里を気遣ってすみやかな帰国を進めましたが、彼は現地に留まり、ついにペスト菌を発見し、世界の歴史を変えました。
このように、リスクを引き受けて、世界の歴史を変えた人の話しがなぜこの日本でもっと頻繁に報道されないのでしょう。
それは、危険は回避すべきもの、リスクは避けるべきものというカルチャーが根づいているからかもしれません。
詩篇91篇の隠された重大テーマは、感染症、または疫病です。その3-7節は次のように記されています
まことにこの方が、あなたを救い出してくださる。
仕掛けられた罠から、また恐ろしいく
主は、ご自分の羽で、あなたをおおわれる。
その
主の真実は、大盾であり、丸盾である。
夜の恐怖も、昼に飛び来る矢も、あなたは恐れない。
また、暗やみを歩く
真昼に襲う滅びをも。
千人があなたのかたわらに、万人が右手に倒れても、
あなたに、それ(疫病や滅び)は近づかない。
興味深いのは、あなたのまわりに千人、一万人の感染が広がっても、神はあなた一人を守ることができるという語り方です。
それは、使命のためにリスクを引き受ける勇気を励ますことばです。
ある基礎疾患をお持ちの方の家で、ご家族が新型コロナに感染したとのことです。その方は、ご自分の感染を恐れながらも、必死にご家族の世話をなさいました。
そして、幸い、家族全員が回復しましたが、その方は、不思議に、自分を感染から守って下さった方がいるということを確信して、教会を訪ねて来られたとのことです。
昔、聞いていた福音が、その方のうちによみがえったのです。
今、多くの方々が、リスクを引き受けながら仕事に励んでおられます。それはすべての医療従事者であり、また学校の教師や、保育士であったり、スーパーの店員であったり、いろんな働きを担ってくださっています。
その方のために私たちは祈り、また礼拝に来られない場合は、臨場感のある礼拝を配信したいと思っています。
先日、ある方が当教会の Youtube 礼拝配信に引き込まれるような感動を味わったと証してくれました。これもリスクを引き受けながらの奉仕と言えましょう。
人によって、様々なリスクの引き受け方があると思いますが、それは常に、主から与えられた使命とセットになっています。
主は、あなたに託した使命を果たさせるために、あらゆる「危険」からあなたを守ることができる方です。ですから、使命のためにリスクを引き受ける勇気を励まし合って行きましょう。