この曲は、昔人気を博したテレビドラマ「スチュワーデス物語」の主題歌にもなっています。
以下で、歌と歌詞をご覧いただけます
英語も若干の間違いがあったり翻に関してもいろんな意見があると思いますが、大意はおつかみいただけるかと思います。
この歌を書いた人は、自分のうちにある恐れの感情を閉じ込めながら生きてきました。鉄と石でできたようなこの世界では、感情を隠して生きることは大切だからです。しかし、音楽を聴きながら、リズムを感じ、その全体を受け止めます。
肝心の歌詞が以下の部分です
What a feeling(なんという感覚でしょう)
Being’s believing(存在するとは信じること)
I can have it all(私はすべてを持つことができる)
Now I’m dancing for my life(私は自分の人生のために踊っている)
それは、自分の感覚を正直に認めるところにある自由を歌っています。僕も自分の感性を信じられるようになったとき、今ここに自分が存在しているという生の感覚を味わうことができました。自分の感覚を受け入れることは世界を所有するような感覚に繋がります。そして自分が感じたことを身体全体で表現するのが踊ることです。それこそが、自分の人生を生き始める契機になります。
それは、契約の箱をエルサレムに迎え入れたダビデが力の限り飛び跳ねまわったことに似ています。しかしこのとき、ダビデの妻でサウルの娘ミカルはそれを軽蔑しました (Ⅱサムエル6:14–16)。
後に、エルサレム神殿が滅ぼされた悲しみを歌った預言者は、自分たちの敵対者に対して神のさばきが下るように次のように祈りました
彼らの心に覆いをかけ、彼らに、あなたののろいを下してください。
哀歌3:65
これが先の新改訳第三版では、「横着な心を彼らに与え」と祈られています。「横着な心」とは、「覆いをかぶされた心」とも訳すことができます。それは「繊細な心」と対比されるものです。人の痛みに無感覚になる心です。
それは同時に、自分のうちにある恐れや不安を抑圧する心でもあります。そのような横着な心を持った人は、「鉄と石でできた世界」ではうまく立ち回ることができますが、神の前に悔い改める心も、また神の前に自分の不安や葛藤を正直に訴えることがなくなるため、神との交わりが無くなってしまいます。
詩篇77篇2、3節には以下のような不思議な表現があります。
苦難の日に、主 (アドナイ) を尋ね求め、
夜には、疲れも知らず手を差し伸ばしながら、
私のたましいは慰めを拒んだ。
私は 神を思い起こし、
そして、嘆く。
思いを巡らし、
私の霊は衰え果てる。(私訳)
それは、安易な慰めを拒絶したい感覚をそのまま表現したものであり、また神に思いを巡らしながら返って落ち込んでしまうという気持ちを歌ったものです。
しかしこの詩篇はそのように自分の正直な気持ちを神様に訴える中で、聖書全体に描かれた神のみわざに目が向けられ、神を賛美するという流れになります。
これは、現在のコロナ禍の不安や疑問をそのまま神に訴えることにも似ています。自分が納得できない気持ちをそのまま訴えることが許される中で、最終的に神からの慰めを体験できるようになります。
いろんなことで不安や孤独感が増し加わる時期です。信仰の友人に正直な気持ちを訴えられる人は幸いです。
また、何か、鬱積した悩みを抱えておられる方は、ご遠慮なくお電話をいただければ幸いです。