祈ってごらんよ分かるから ここも神の御国なれば〜詩篇145篇17–20節

クリスマスにかけてのお子さんたちの暗唱聖句ですが、分かりやすい聖句を探した結果、幼稚科には以下の聖句とさせていただきました。これは幼児から大人までみんなに暗唱していただきたい聖句です

詩篇145篇17–19節

主はご自分のすべての道において正しく
そのすべての みわざにおいて 恵み深い方
主を呼び求める者すべて
まことをもって 主を呼び求めるものすべてに
主は 近くあられます。
また 主を恐れる者の願いをかなえ
彼らの叫びを聞いて救われます。

「主 (ヤハウェ) はご自分のすべての道において正(義)しく そのすべてのみわざにおいて 恵み深い方(「誠実(ハシドゥ)であられる)」と、神の「義」と「誠実さ(ヘセドの形容詞形)」で神のご支配が信頼できるものであることと描かれます。

さらに、「近くあられます 主 (ヤハウェ) は」という表現から始まり、「主を呼び求める者すべてに」と描かれます。これは単純に、主 (ヤハウェ) を遠く感じる方は、主を「呼び求める」ことをしていない結果とも言えるかもしれません。ですから、「まこと(真実:エメット)をもって主を呼び求める者すべてに」という解説が追加されます。

子供の賛美に「祈ってごらんよ わかるから」という楽しい歌があります

その歌詞は、「君は神さまにネ 話したことあるかい?心にあるままを うち明けて 天の神さまはネ 君のこと何でも わかっておられるんだ 何でもね だから空仰いで 「神さま」と一言 祈ってごらんよ わかるから 小川のほとりでも 人ごみの中でも 広い世界の どこにいても 本当の神さまは いまも生きておられ お祈りに答えてくださる」というものです (新聖歌481番)。

ここには正直に真実に心を打ち明けて、神を呼び求められる自由が描かれています。確かに、「祈っても、何も変わらない……」と思える現実もありますが、そこではどこまで「真実をもって」という動機が問われています。

しかも、「呼び求める」ということばは「出会う」という意味も込められています。願いがかなうという以前に神との出会い自体に意味があるからです。社会と身近な人を恨みながら、自分の心を閉ざしてしまうことから、恐ろしい悲劇が生まれました。

ただし、私たちはそれ以前に、自分の「願い」が「かなえ」られ、不条理な苦しみの中から救い出されることを願っています。それに対しての答えが19、20節で、「主を恐れる者の 願いをかなえ 彼らの叫びを聞いて 救ってくださいます。 主 (ヤハウェ) は守られます すべて主を愛する者を」と記されます。ここには「主を恐れる」こと「主を愛する」ことの大切さも同時に記されています。神との人格的な出会いと、自分の「願い」が「かなえ」られ、「いのちが守られる」という体験は、車の両輪のように進むものです。ただ同時に、「しかし、すべての悪しき者を 主は滅ぼされます」ということも知る必要があります。それは、主を呼び求めようとしない者、主を軽んじ、主を愛そうとしなかった者に対してのさばきは必ずあるからです。

讃美歌90番に「ここも神の御国なれば (This is my Father’s world)」という歌があります。そこでは、この目に見える世界全体が「神の国」であると歌われています。教会の伝統の中では、それに対し、「神の国」は既にあっても、神の民の領域、つまり、教会の支配領域の中にのみ実現しており、それが全世界に広がって、やがて「神の国」の完成、神の平和が全世界に満ちるシャロームの世界が実現すると言われます。それはたしかにその通りなのですが、そのように明確に区別がつけられないのが聖書の表現とも言えます。そしてその歌詞の3番では「よこしま暫しは、ときを得とも 主の御旨の ややに成りて 天(あめ)地(つち) 遂には 一つとならん」と歌われます。

これは、「この世界に神の支配の見えない不条理が支配しているように見えるときがあっても、神の支配を忘れさせないでください。神のご計画は進んでおり、天と地は最終的に、神の支配のもとに一つにまとまるのだから……」という希望を語った名曲です。

僕の友人の一人が以下の演歌フレンズというトリオで讃美歌を演歌調で歌っています。よろしかったら、以下で味わってみてください