キリスト教は奴隷制を擁護してきたと批判されたことがあります。実際、イエスは弟子たちに向かって「皆のしもべ(奴隷:slave)になりなさい」なとど、とんでもないことを命じられました。
ただ、イエスは同時に、誰よりも明確に、一人ひとりが神の目に高価で尊い存在であるということを、ご自分のことばと行動によって示されました。そしてその福音に生かされた人々が、地道に社会を動かし、奴隷制を廃止させました。
実は、神のしもべ(奴隷)としての生きることが「真の王」としての生き方であることは、イザヤ52章13節~53章12節の「主 (ヤハウェ) のしもべ」の歌に鮮やかに記されています。イエスは弟子たちに、人間の奴隷になるように勧めたのではなく、預言された「主 (ヤハウェ) のしもべ」の生き方に倣うように勧められたのです。
多くの人々は、平和に満ちた「神の国」を政治制度によって実現しようと考えますが、イエスにとって、「神の国」を実現するための唯一の道は、「皆のしもべ」となって十字架にかかることであったのです。
1.「イエスは先頭に立って歩いて行かれ……あとについて行く者たちは恐れを覚えた」
「さて、イエスはエルサレムに上る途中、十二弟子だけを呼んだ。そして道々彼らに話された」(17節) と記されます。マルコではこの情景が敢えて、「イエスは弟子たちの先に立って行かれた。弟子たちは驚き、ついて行く人たちは恐れを覚えた」(10:32) と描かれます。
この「恐れ」の理由は、それまでのお話から「永遠のいのちを受け継ぐ」ために自分の財産や家族を犠牲にせざるを得ない可能性があることを聞いていたからだと思われます (19:29)。彼らはエルサレムでローマ軍との衝突があると思って「恐れを覚えて」いたのかもしれません。
ところがイエスは、堂々と先頭に立ってエルサレムに向かっていました。
しかもイエスはそこでどのような悲惨が待っているかを正確に把握し、それを十二弟子だけに分かち合って、「見よ。わたしたちはエルサレムに向かっています。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。そこで彼らは彼(人の子)を死刑に定めます。そして彼らは彼を異邦人たちに引き渡します。それは、嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです、と言われました」(18、19節)。
ここでは「引き渡される」また「引き渡す」ということばが繰り返されます。これは16章21節、17章22、23節に続く三回目の受難予告です。
ただその二回においても、またここにおいても、「しかし、(人の子は)三日目によみがえらされます(三度とも受身形)」と明確に記されています。これは受難以上に、死の力に打ち勝つ復活予告とも言えます。
しかも「引き渡される」に対応するように「よみがえらされます」と受身形で記されています。
それはイエスが、ご自分がイザヤ53章に描かれた苦難の主のしもべとなることを、主のみこころと自覚していたからです。そこでは「しかし、彼を砕いて病とすることは主 (ヤハウェ) のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを代償のささげ物(「罪過のためのいけにえ」)とするなら、彼は末長く子孫を見ることになる。主 (ヤハウェ) のみこころは彼によって成し遂げられる。そのいのちの苦しみから、彼は見て、満足する」(イザヤ53:10、11) と記されていました。
つまり、イエスはご自分が苦しむことこそ主のみこころであり、それを通してご自身の「満足」が生まれると確信していたのです。受難と復活はいつもセットになっていました。
ただ、この三度目の受難予告で興味深いのは、イスラエルの王、救い主である方が、同族の指導者の手に「引き渡され」、そして彼らがイエスを「異邦人たち」に「引き渡す」と言われたことです。
新しい「神の国の王」となる方が、異邦人の手によって、しかも「十字架につけられ」、殺されるということは、到底、弟子たちに理解することができなかったはずです。
ただ、彼らはかつてダニエルがメディア・ペルシア連合国の初代の王ダレイオスのとき、彼の家来の陰謀によってライオンの穴に投げ込まれながら、神によって守られ、その後、イスラエルの民をバビロン帝国の支配から解放したペルシア王キュロスの時代にまで重んじられるようになったという物語と結びつけて考えたとも推測できます (ダニエル6章)。
彼らがイエスの肉体的な死の後の「復活」ということは理解できなかったことは確かでしょうが、これをダニエルの物語のように、殺されそうになりながら「神の国」を実現するという物語として理解したのかもしれません。
イエスも弟子たちも、目に見える「神の国」の実現のために生きていました。イエスの福音の核心は、「悔い改めなさい。天の御国(神の国)が近づいた (is at hand) から」でした (3:2)。弟子たちはそれをより具体的な新しいダビデ王国として、ローマ帝国からの独立を待ち望んでいたのだと思われます。
当時も今も、福音の核心は「神の国」ということばで描かれます。弟子たちは当時の権力者たちとの戦いを予期していたでしょうが、イエスは、宗教指導者たちから捨てられ、ローマ帝国の支配者によって殺されることを通して「神の国」を実現しようとしていました。
しかし、それをこの世の権力を握ることによってではなく、十字架の死によって実現するなどということがどうして信じられましょう。その逆説こそ福音の鍵と言えます。
2.「あなたがたは自分が何を求めているのか、わかっていない」
そのように「神の国」を目指して歩んでいる中で、「そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、息子たちと一緒にイエスのところに来た、ひれ伏しながら、また何かを願おうとしながら」と記されます (20節)。
マルコの記事では、ゼベダイの息子たちのヤコブとヨハネ自身が願ったと描かれていますが、マタイでは母親の嘆願に焦点が合わされています。どちらにしても、母も息子たちも同じ願いを持っていました。
イエスが彼女に「何を望む(願う)のですか」と言われると、彼女は「私のこの二人の息子があなたの御国で、一人はあなたの右に、一人はあなたの左に座れるようにおことばをください」と言います (21節)。とにかく母も二人の息子も、イエスが新しいダビデ王国を作ってくださることに期待し、その新しい国で、右大臣、左大臣にしてもらえることを期待していたというのです。
これは愚かな願いと見えるかもしれませんが、人が命をかけて「新しい国」の実現を望むとき、そこにおいて権威ある立場が与えられ、より良い国を作るために力を発揮したいと願うのは決して悪いことではありません。権力闘争を否定的に捉え過ぎてはなりません。しかし、イエスは、そのような人間的な常識を根本から変えようとしておられました。
それでイエスは彼らに、「あなたがたは自分が何を求めているのか分かっていません。わたしの飲もうとしている杯を飲むことができますか」(22節) と尋ねられました。
預言者イザヤはかつてエルサレムに対し「あなたは主 (ヤハウェ) の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した」(51:17) と預言していました。ですからイエスが「飲む杯」とは何よりも、エルサレムが受けるべき神のさばきをイスラエルの王として引き受けることを意味しました。
弟子たちにその意味が理解できたとは思えませんが、少なくともイエスとともに、苦しみを引き受けるという趣旨のことであると分かって、彼らは「できます」とすぐに答えました。
それに対しイエスは、「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになります。しかし、わたしの右と左に座ることは、わたしが与える(許す)ことではありません。わたしの父によって備えられた人のためのものなのです」と言われました。
後にヤコブは、十二弟子たちの中で最初に殺されます (使徒12:2)。またヨハネは弟子たちの中で一番長生きしますが、パトモス島というところに流されて黙示録を記します。どちらもイエスが言われた通りに、イエスが「飲む杯を飲んだ」のですが、それは彼らが期待した立場とは無関係のことでした。
しかもイエスは、ご自身に「神の国」の人事権はないかのように言われましたが、それは私たちを、ご自身と同じ「神の子」の立場に招かれた同労者と見ているからとも言えましょう。私たちは、イエスとともに苦しむことによってイエスとともに栄光を受けるようにと招かれております(ローマ8:17)。
確かにイエスは十字架でご自分が神の「憤りの杯」を飲むことで、私たちに祝福の杯を残してくださいました。それこそ聖餐式の意味です。
しかし同時に、イエスは私たちすべてに向かって、「だれでもわたしについて来たいと望む(思う)なら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分のいのちを救おうと望む(思う)者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです」(16:24、25) と言われました。
つまりイエスは、私たちに気楽な人生などを保障してはおられません。
私は「自分の十字架を負ってイエスに従う」ということばによって、牧師への道を神の召しと確信しました。それは、苦しみ甲斐のある人生を求めてみたくなったからとも言えます。
どの仕事にも苦しみは付き物です。しかし、自分が高給を受けとる一方で多くの顧客が損をしてしまうというような苦しみと、神にある永遠の祝福を紹介するために誤解されて苦しむというのでは、苦しみ甲斐が決定的に違います。
しかも、イエスとともに苦しむという覚悟を決められることは、主の復活のいのちをともに味わうというダイナミックないのちの喜びに満ちた世界への入り口です。現在の日本の閉塞感、それは一人ひとりが自分の心の平安を優先して面倒を避けて生きるという、臆病さから生まれていると言えないでしょうか。
苦しみを引き受けるためには多くのエネルギーが必要になりますが、イエスご自身がその力を与えてくださいます。その圧倒的ないのちのエネルギーはイエスと共に苦しむということの中に現されます。
イエスはヤコブとヨハネに、ご自身の右と左に座る者は、父なる神が備えておられると言われましたが、これはイエスとともに十字架にかけられた二人の強盗を指していると解釈できるかもしれません。なぜなら、イエスにとっての十字架とは、イザヤが預言した「苦難のしもべ」としての栄光のときでもあるからです。
しかし、イエスと共に十字架にかかること自体が栄光なのではありません。そこで一人の強盗は悔い改めてパラダイスへと導かれましたが、もうひとりの強盗はイエスを罵り続けて神のさばきを受けました。
苦しむこと自体に意味があるのではなくて、苦しみの中でイエスとの交わりを体験できるかどうかが何よりも大切なことなのです。苦しみの中に希望を見いだすことができることこそ、イエスの福音の力です。
3.「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい」
その後、「ほかの十人はこれを聞いて、この二人の兄弟に腹を立てた」(24節) と記されますが、それは十人の他の弟子たちも心の底では、ヤコブとヨハネと同じような願望を持っていたことの証拠と言えましょう。
弟子たちは「神の国」の実現のために苦しむ覚悟をそれなりに持ってはいましたが、それは地上的な意味での栄光を受ける道と考えていました。しかし、イエスの受ける十字架は、この世的には敗北者のしるし、犯罪人とされたことのしるしでした。
私たちは「栄光」を、神の視点から見る必要があります。
イエスはそのことを知らせるために、「彼らを呼び寄せて」、彼らの発想を根本的に変えるために、「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者たちは人々に対して横柄にふるまっています(共同訳:「その上に君臨しています」)。また、偉い人たちは人々の上に権力をふるっています。あなたがたの間では、そうであってはなりません。あなたがたの間で偉く(「大きく」または「偉大に」)なりたいと望む者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと望む者は、みなのしもべになりなさい」と言われました (25–27節)。
イエスは私たちの願望に訴えることばを用います。人によっては「私は、偉くなりたいとか、先頭に立ちたいなどと望んだことはない」と言うかもしれませんが、それが偽りであることは、将棋や碁などの勝負や何らかのゲームをすると明らかになります。
意外にも、そのようなこの世的な出世などには関心がないという人に限って、どうでもよいようなゲームの勝ち負けに熱くなったりします。アダムの子孫である人間は、いつも人との比較の中に生き、誰かよりも勝った者でありたいと望むのが常なのです。
どちらにしても、イエスの教えは天地を逆さにするものです。この世の問題の手っ取り早い解決のためには、権力を握るのが一番です。しかし、力による解決で人の心は変えられません。
たとえば、20世紀の共産主義は、労働者を奴隷的な状態から解放しようという純粋な運動として始まりましたが、その結末は、万人を奴隷化するような心の自由を抑圧する社会を生み出しました。私の青春時代、中国の文化大革命は人間の発想を根本から変える運動として注目を集め、創価学会の池田大作も「人間革命」という書で、一時はその試みに共感していたとも聞いています。しかしそこには驚くべき欺瞞と人間性の破壊があったことが後に明らかになりました。
社会の構造が変わり、政治から腐敗が無くなれば、人間が変わると思うのは幻想にすぎません。社会変革や理想的な指導者の出現によって人の心が変えられると思う人は、神の御子が十字架にかかる必要を理解できません。罪の支配の力を知るべきでしょう。
それでイエスはさらに、「それは同じことです、人の子が来たのが、仕えられるためではなく仕えるためであることと、また、多くの人の贖いの代価として自分のいのちを与えるためであることと」(28節) と言われました。先にイエスは、「皆に仕える者になりなさい」「皆のしもべ(奴隷)になりなさい」と言われましたが、イエスご自身が、弟子の足を洗うような姿を示すことで、そのような生き方の模範となられました。
しかも、イエスが十字架刑で殺されることは、当時期待されていた「救い主(メシア、キリスト)」のあらゆる概念をひっくり返すことでした。
申命記21章23節には、「木にかけられた者は神にのろわれた者」であると記されていますが、イスラエルの王として現れた方が「神にのろわれた者」となるなどということは、人のあらゆる想像を超えたことでした。その意味を使徒パウロは、「キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3:13) と記しています。
イエスが「主 (ヤハウェ) の手から憤りの杯を飲む」ということは、イスラエルに対する「律法ののろい」をご自分の身に引き受けることだったのです。それは、人の目には犯罪者、敗北者のしるしに他なりません。
しかし、「多くの人のための贖いの代価として自分のいのちを与える」とは、先に引用したイザヤ53章10節で、「主 (ヤハウェ) のしもべ」が、「自分のいのちを代償のささげ物(「罪過のためのいけにえ」)とする」と預言されていたことと同じことを意味します。
イエスは、この世界を治める王としてこの世に来られましたが、その支配は、権力によって人を抑えるのではなく、世界のすべての罪を負って、神と人とを和解に導き、一人ひとりの心の内側に神にあるいのちの喜びを回復させるためでした。
そして、いのちの喜びは、この世の優劣の逆転の中に現されると言われました。イエスは、新しい地上的な権力によって奴隷制度を廃止するようなことの代わりに、人の生き方の方向を変えるために来られたのです。
しかもイエスは、世界の創造主でありながら、主人として仕えられるためではなく、奴隷として、給仕として、仕えるために来たというのです。これは私たちにとって何を意味するのでしょう。どのような生き方を意味するのでしょう。
パウロは後に、コロサイ人への手紙を通して不思議なことばを書きました。それは、「私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです」(1:24) という告白です。
私たちの周りには様々な欠けがありますが、その欠けを指摘し、原因を分析するという評論家的な生き方で、問題が無くなるでしょうか。なぜなら、一部の人が富を独占し、大多数の人が貧しさの中に放置されるという構造は、三千年前から続く現実だからです。それは人間の罪がもたらす構造とも言えます。
しかしそこでも、苦しむ人々に寄り沿い、問題のただ中に飛び込む人が起こされています。それによって絶望していた人々に希望が生み出され、社会が徐々に変えられているという現実も確認できます。イエスの弟子たちは英雄的な生き方を目指していましたが、イエスは犯罪人として十字架にかけられるという敗北を、栄光を受ける道へと変えられました。
仕える生き方、しもべとなるという生き方は、決して格好の良いものではありません。しかし、その格好の悪い生き方こそが、イエスに従う「自分の十字架を負う」道なのです。
イザヤ52章13節から始まる「主 (ヤハウェ) のしもべ」の歌の冒頭では、「見よ。わたしのしもべは栄える」と記されます。実は、「主 (ヤハウェ) のしもべ」として生きる中で、神の栄光に包まれることができるのです。
イエスの栄光は十字架に見られました。それは人の目には忌み嫌われる刑罰でも、預言された「人の子」として、神のみこころを全うしていた瞬間でした。
人生のどん底が、神の栄光を現わすときになりました。
私たちはだれも一人で生きることはできませんから、基本的に人はみな、人の上に立ちたいと思うのが人情です。しかし、そこから人の心を貧しくする無意味な競争や権力闘争が起きてしまいます。
もしすべての人が、イエスの言われたように、人々の下に置かれるような生き方が、栄光への道だと心から納得できるなら、この社会はずっと住みやすくなることでしょう。悲しむ人に寄り添い、人に仕える生き方の中にイエスとの交わりを見いだせるなら、この社会は変わります。
あるとき、「すべてが空しくなり、死にたくなってしまうことがある……」という方の相談に何度か載りました。その方がご自分の心に湧いてきているある思いを語ってくださいました。私は周りの反応も考え、慎重に進むように申し上げました。
するとその方は、「死んでしまいたいと思っていたのですから、周りの評価なんか、もう気になりません」と、さらっと言ってくださり、とっても嬉しくなりました。それこそ、健全な意味で、自分に死ぬ生き方と言えます。
イエスに従うとは、主のしもべとして生きることを意味します。人に振り回され、誤解され、中傷を受けながら、なお黙々と目の前の課題に心を集中して生きることができるなら、そこに神の愛の眼差しが何よりも注がれていることでしょう。そこでこそ、イエスとの交わりが成長します。
あなたは、神の国の理想を、権力によってではなく、「しもべ(奴隷)」の道を通して実現できると、本当に信じているでしょうか?