多くの人は他者との比較で自分が受けている祝福を測ります。それゆえあまり苦労していない者が特別に祝福されると、それを不公平と思いたくなります。
先日は当教会の10年前の会堂建設に至る恵みを語りました。今、それを体験していない多くの人がこの教会で奉仕の先頭に立っていますが、「新参者が大きな顔をするな!」などと言うような人はまったく見当たりません。
しかし、この世の組織では、そのようにはならない場合が多くあります。そのようなときに「後の者が先になり、先の者が後になります」(16節) という「神の国」の原則を心の底に置くことは大切です。
神の「善(慈しみ)」は、恵みを受けるに値しない者に特別な恵みが与えられることで現わされますが、それは人の目には不公平という「悪」に見えます。
本日の箇所は、「ぶどう園の労働者のたとえ」と呼ばれ、この福音書にしか記されていません。現代の労働市場で「同一労働、同一賃金」と言われる理想からしたら、決してあってはならない賃金の払い方がなされています。12時間働いた人が、1時間しか働いていない人と同じ報酬を受けるなどということは、あらゆる常識に反した「悪」と言えます。
ですから文脈を大切に読む必要があります。このたとえは、あくまでもイエスの一番弟子と見られたペテロのことばに対する応答であることを忘れてはなりません。
1.「一日一デナリの約束」または「相当な賃金」の約束
金持ちの青年が、「先生。永遠のいのちを持つ(得る)ためには、どんな良いことをすればよいでしょうか」と尋ねたことに対し、イエスは、「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい……そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われました (21節)。
それに対して、「青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである」(22節) と記されていました。そこには金持ちであることの悲惨が描かれていました。
しかし、そのようすを見ていたペテロは、この青年の哀しみを理解することもなく、「ご覧ください。私たちはすべてを捨てて、あなたに従って来ました。それで、私たちは何をいただけるのでしょうか」と言ってしまいます。
イエスは、ご自身が間もなく十字架にかけられることと、そのとき弟子たちが信仰の試練に会うことをご存じでしたので、ペテロの自己中心的な発想をすぐに正す代わりに、「まことに、あなたがたに言います。わたしに従ってきたあなたがたは、新しい世界において、人の子がその栄光の座に着くそのときに、十二の座に着くことになります。そしてイスラエルの十二の部族を治めるのです」(28節) という途方もない約束をされました。
ただその上でイエスは、「しかし、先にいる多くの者が後になり、後の者が先になるのです」(30節) とも言われました。弟子たちはイエスのエルサレム入城とともに神の国が実現し、新しい国の大臣として力を振るうことを期待したからこそ、イエスに向かって「天の御国では、いったい誰が一番偉いのですか」などと尋ねました (18:1)。
ですからこのぶどう園のたとえこそ、ペテロの打算的な報酬を期待することばへの応答と言えましょう。つまりイエスは弟子たちの弱い信仰を励ますためにまず報酬を明言し、その後で「あなたの期待通りの報酬ではないかもしれないよ」という意味の注意を与えたとも解釈できます。
20章1節は、「天の御国は家の主人に似ています、その人は朝早く出かけました、自分のぶどう園で働く者を雇うために」という語順で記されています。つまり、「天の御国」の現実が、ぶどう園の主人が働く人を雇うために、この世界に来られたということに例えられているのです。それは私たち信仰者が、「神のぶどう園」で働くように神から召された者であるという意味になります。
多くのクリスチャンは信仰に導かれたことを「救われた!」と表現しますが、それ以前に神の仕事のために雇っていただいたという面をも強調すべきかもしれません。ただ、それは人々のたましいを救うという教会の働き以前に、あなたの職場や家庭での働きすべてを、神から召された神のぶどう園での働きと見るのが聖書的な世界観です。
2節では「彼は労働者たちと一日一デナリの約束をすると、彼らをぶどう園に送った」と記されます。それは、神が私たちと契約を結んで、この世界に遣わしてくださることに似ています。その契約には、「永遠のいのちを受け継ぐ」(19:29) ことが含まれていますが、それはすべての信仰者に共通に与えられている約束でもあります。
ただし、イエスがペテロやアンデレを弟子として召した時には、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう」という明確な約束が伴っていました (4:19)。ヨハネの福音書によるとペテロの兄弟アンデレと福音記者ヨハネは、イエスに従う前に「バプテスマのヨハネ」からイエスがどのような方かを聞いていました (1:35、36)。
つまり、一番初めのイエスの弟子たちは、イエスが神の国を実現する方で、そこに豊かな報酬があることを明確に期待してイエスに従っているとも言えます。
その後、日の出から3時間ぐらい経過した朝の「九時(直訳は第三時)ごろ」、主人はまた出かけますが、そこで「別の人たちが市場で何もしないで立っているのを見た」と描かれます。主人は、仕事を求めながら雇ってもらえずに、ただ市場に立ち尽くしている労働者に目を留めたのです。
そこで主人は明確な賃金の約束をすることなく、「あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当の賃金を払うから」とのみ言います (4節)。「相当の」とは「義(ただ)しい」と訳せることばで、この労働者たちはぶどう園の主人に目を留めてもらったこと自体を喜び、「正しい」賃金ということばに信頼し、喜んで働きに行ったことでしょう。
これはたとえば、マタイが収税所に座っているのを見たイエスが、たった一言、「わたしについて来なさい」(9:9) と言われたことにすぐに応じたことに似ているかもしれません。彼は取税人として軽蔑され、相手にされていなかったからこそ、「弟子の仲間に入れてもらえる」ということ自体を喜んだのではないでしょうか。
マタイは、イエスに従うことで「何をいただけるでしょう」などとは、気にもしなかったのかもしれません。
この雇われ方は早朝から6時間たった「十二時(直訳は第六時)ごろ」に雇われた人と、早朝から9時間も経過した「三時(直訳は第九時)ごろ」にも共通します (5節)。市場に6時間または9時間も何もせずに立ち続けていたということは、人生の目的も使命感もなく、ただ生きているような人すべてに当てはまるかもしれません。彼らは「市場で何もしないで立っている」状態にいたときに、主人から「見出され」「語りかけられた」こと自体を喜んだことでしょう。
これはたとえば、イエスが真昼の十二時に水を汲みに来たサマリアの女に目を留めて、「わたしが与える水を飲む人は……永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言われ、「主よ、私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私にください」と応答したことに似ているかもしれません (ヨハネ4:14、15)。
彼女がどれだけイエスのことばの意味を理解していたかは不明ですが、サマリアの人々にイエスを紹介できました。イエスがご自身をメシアと紹介したこと自体が彼女にとっては喜びで、そこで何らかの報酬に釣られてイエスに従ったという動機はありませんでした。
2.「そこで、五時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った」
不思議にも、ぶどう園の主人は、また早朝から11時間も経過した「五時(直訳は第十一時)ごろ出て行き」、「別の人たちが立っているのを見つけた」と記されます (6節)。ここでは「見つけた」という主人の働きが強調されます。
そこで彼は「なぜ一日中立っているのですか、何もすることなく」と聞きます。たぶん、主人は彼らの事情を理解しながら、正直な気持ちを聞こうとしたのでしょう。そこで彼らは、「それはだれも私たちを雇ってくれないからです」と答えます。これは悲痛な叫びです。彼らは朝からずっとそこに立ち続けていました。それは誰かから雇ってもらえないと、明日のパンを得ることができないからです。
たぶん、何人ものぶどう園の主人が、彼らに目を留めながら、「使い物にならない……」と判断したのではないでしょうか。
それに対しこの主人はその状況を、心を痛めながら見ていて、敢えて彼らに声をかけ、最後の一時間の働きの場を与えるために、午後5時ごろにこの市場にやって来たのではないでしょうか。
仕事の機会が与えられないとは、「お前たちは役立たずだ……」と社会から宣告されているに等しいことです。
私はかつて野村證券勤務時代の末期の半年間、まともな仕事がない状態に置かれたことがあります。ドイツ支社にいるときに「会社を辞めて牧師になりたいから、早く東京本社に戻してほしい」と嘆願したためでした。留学後に五年間勤務をするという縛りがあったため自分で辞表を出せず、会社も解雇できませんでした。
それは私にとっては希望に満ち溢れた前向きな期間で、経済的な不安もまったくありませんでしたが、「仕事が与えられない」という状況がどれほど精神的につらいかということがわかりました。
まして明日の食べ物の保証もなく、誰からも雇ってもらえないというのがどれほど辛いかは、想像を超える悲惨さです。その人は、社会から「生きながらも、死を宣告されている」気持になることでしょう。
そのような絶望感を味わっている日雇い労働者に、このぶどう園の主人は、何の賃金の約束もすることなく、「あなたがたもぶどう園に行きなさい」とのみ言いました。彼らは何の保証も与えられないまま、主人の善意に信頼して働きの場に向かいました。彼らはたぶんその能力からも大した成果を上げられなかったことでしょう。
しかし、たった一時間働いた後、不思議なことが起ります。それが8、9節に、「夕方になったので、ぶどう園の主人は監督に言った。『労働者たちを呼びなさい。そして賃金を払いなさい。最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちまでも。』 そこで、5時ごろに雇われた者たちが来て、それぞれ一デナリずつ受け取った」と記されます。
何と、一時間しか働かなかった者たちに、最初に、しかも一日分もの給与が支払われたのです。それは絶望感と戦いながら、一縷の望みを賭けて雇われることを待ち続けた精神的な苦痛に対する報酬と言えましょう。
つまり、このぶどう園の主人は、ぶどう園の収穫を速やかに成し遂げることよりも、労働者に仕事を提供できること自体を喜んでいたとも言えましょう。同じように天の父なる神も、ご自身の働きに私たちを参画させること自体を喜んでおられます。
使徒パウロはエペソ人の手紙で当時の異邦人の状況を、「あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした……そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした」(2:12、13) と彼らの置かれた絶望的な状況を描いていました。
それは「救い」の道も知らず、ただ新しい時代の到来を待ち続けていた異邦人クリスチャンの状況を描いた表現です。彼らはイスラエルの苦難の歴史も神の圧倒的な救いのことも知らないまま、イエスにある救いのご計画を知らされました。彼らの立場は、たった一時間の労働で「永遠のいのち」の恵みを受けることができたこの労働者と同じです。
そしてその恵みをパウロはさらに、「しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました」(同2:13) と記しています。彼らは一方的な神の憐れみとキリストの犠牲の血によって、神とイエスを知ってすぐに「神の民」に迎え入れられました。それはユダヤ人たちには理解し難いことでした。
3.「あなたの目には悪なのですか、わたしが善である(いつくみ深い)ことが」
ぶどう園の主人は、不思議にも、「最後に来た者たちから始めて、最初に来た者たちに」に対して賃金を支払いました (8節)。最初から働いていた人は、主人の気前の良さに驚いて、時給計算からしたら当然自分たちには最初の約束以上の賃金を払ってもらえると期待したことでしょう。
そのことが10節で、「最初の者たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思ったが、彼らが受け取ったのも一デナリずつであった」と描かれます。
それでその後のことが、「彼らはそれを受け取ると、主人に不満をもらした、『最後に来た者たちが働いたのは、一時間だけです。それなのにあなたは彼らを私たちと同じにしました。私たちは一日の労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです』と言うことによって」と記されます (11、12節)。
彼らがそのようにつぶやくのも当然です。それにしてもなぜ、この主人は、最初から働いていた者たちに約束の一デナリを与えた上で、彼らが立ち去ったあとで、最後の者に沈黙を命じながら一デナリを与えるような知恵を用いなかったのかとも思います。
しかし、このたとえは、あくまでも最初からイエスの弟子になっていたのでより多くの報酬をもらうことができると思ったペテロたちに語ることに意味があったのです。
実際、使徒パウロなどは、十二使徒から見たら、イエスの公生涯をまったくともに過ごしたこともなく、イエスの説教を生で聞いたこともない新参者でしたが、ペテロの過ちを皆の面前で指摘するようなことまでしました (ガラテヤ2:11–16)。普通なら、そのような大胆な非難は、教会の分裂を招きかねませんが、ペテロはこのたとえを聞いていたからこそ、パウロの指摘を受け入れることができたのかもしれません。
復活のイエスは、ペテロが三年間にわたって寝食を共にして得た体験に匹敵する知識を、短期間にパウロに与え、異邦人伝道の使徒として用いました。パウロが指摘した中心とは、「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、ただイエス・キリストの真実による」(同2:16別訳) という真理です。それこそ信仰義認という教理の核心です。
ユダヤ人たちは千年余りも、モーセの律法を守ることで神の祝福を受けられると聞きながら、それを実行できずにいました。しかし異邦人は、ただイエス・キリストの真実の犠牲と聖霊のみわざによって、イエスを救い主と信じることだけで神の民とされたのです。
ユダヤ人からすれば、異邦人が律法を守るための日々の葛藤を通り越し、すぐに神の民とされるのは都合が良すぎるように感じられました。それは労苦と暑さを体験せずに恵みだけを受け取る安易な教えと思えたことでしょう。
人間的な計算では、この最初から働いていた人の時給は、たった一時間しか働かなかった人の十二分の一にしかなりません。しかしこの主人は、この一日働いていた人を「友よ」と呼びながら、「私はあなたに不当なことはしていません。あなたは私と一デナリで同意したではありませんか」(13節) と、最初の合意を思い起させました。
一日中働いた人は、「労苦と暑さを辛抱した」かもしれませんが、何の不安を味わうこともなく、主人の「友」として働くことができたのです。それ自体が何よりの恵みではないでしょうか。
これはだれからも雇ってもらえずに、市場に一日中立ち続けていた人から見たら途方もない祝福です。同じようにユダヤ人にとっては、神の愛のみ教えを知らされていたこと自体が何よりの祝福でした。
14、15節で、主人はこの不満を述べた人に断固として語ります。「あなたの分を取って帰りなさい。私はこの最後の人にも、あなたと同じだけ与えることを望んでいるのです。私には許されていないのですか、自分に属するものによって自分が望むことを行うのが」と極めて論理的に話します。
この主人は、午前9時以降に雇った人には明確な賃金の約束はしていませんでした。彼らはたとえば、半日の仕事で一日分の労賃をもらえたことに感動していたことでしょう。特に絶望の中で最後の一時間だけ働かせてもらえた者は、この主人の寛大さに、涙を流して感動し、感謝したことでしょう。
しかし、考えてみたら、最初の時間から雇ってもらうことができた人こそが、精神的には一番余裕の時間を過ごすことができたのです。ペテロは最初の時点からイエスの弟子とされていたことこそが恵みであったと分かったはずです。
なお15節最後の文章は、「それとも、あなたの目には悪なのですか、わたしが善である(いつくしみ深い)ことが」と記されています。
主人が自分を「善である」と定義したことばは、イエスが金持ちの青年に「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです」(19:17) と言われたときの「良い」と同じで「いつくみ深い」とも訳されます。
人との比較で自分が受けた恵みを測る人は、神が「善である」ことが、自分の努力を軽視しているように見えることがあります。
しかし、神のぶどう園で働くことができていること自体が、何よりの精神的な平安(シャローム)の原点になっているはずです。それは誰からも頼りにされず、誰からも相手にされないことに比べたら、はるかに大きな恵みであり特権でした。
しかもこれこそが金持ちの青年の質問に対する答えです。彼は自分が何かの「良いこと」を行うことで「永遠のいのち」を獲得できると考えていました。しかし、最も大切なのは「良い方」にすがることでした。
金持ちの青年は、人の目にはペテロなどよりもはるかに神に近い「先の者」という立場にいました。しかしそのような自負心を持つ者が、イエスに従うことにおいてはずっと「後の者」とされたのです (19:30)。
そしてイエスはこのたとえの結論を、「このように、後の者が先になり、先の者が後になります」(16節) と述べます。これは19章30節と逆の順番で「後の者」に焦点を与えた表現です。それはペテロたちのような「先の者」に、パウロのような「後の者」に働きを任せることを勧めることばとも言えます。
新約聖書を読む人は、ペテロよりもパウロの方がはるかに重要な役割を果たすことに驚きます。しかし、それはペテロ自身がイエスのこの教えによって、パウロのような「後の者」が「先になる」ことを受け入れ、パウロの教えの権威を人々に証した結果とも言えましょう。
ペテロの第二の手紙では、パウロの手紙には「理解しにくいところがある」と述べながらも、その手紙が聖霊に導かれたものであることを証しています (3:15、16)。
パウロは他の人との比較で自分の誇る者に対して、「人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うことになるのです」(ガラテヤ6:5) と述べました。私たちにはそれぞれ神から課せられた固有の使命があります。何よりも悲しく苦しいのは、「自分は誰からも必要とされていない」という気持ちです。神はそのような一人ひとりをご自身の働きに召してくださいます。
それまでの絶望感が強いほど、そこから生まれる働きは偉大なものとなります。それこそ「後の者が先になる」という現実です。しかし、先に働きに召されていた者は、使命感を持って働けていたこと自体が何よりの恵みです。
人の目には、神がある人を依怙贔屓(えこひいき)」しているという悪に見えることがあっても、そこに神の善(いつくしみ)が現わされています。すべてのことに神の「善」なるご性質を見出すことができます。
イエスはご自身に従う者に「正しい」報酬をお与えくださいますが、それは競争意識に縛られた「目」には、神の依怙贔屓の「悪」に見えることを覚えましょう。