マタイ19章10〜22節「イエスの招きを受け入れられる幸い」

多くの女性はルツ記のストーリーに感動します。しかし、女性の人権の観点から考えると、これはとんでもない話とも言えます。物語の核心は、没落したエリメレクの家の再興のために、ユダヤ人から軽蔑されていたモアブの女が自分の身を、親戚の家に差し出すという話です。

しかし、それが感動を呼ぶのは、そこに見えない神の愛の御手が働いているのが分かるからです。自分の生きたいように生きる権利が保障されていることは大切ですが、自分の権利ばかり主張する人に、神の愛の摂理の御手が見られるでしょうか?

自分の幸福のためではなく、イエスの招きに応じて生きる中に美しい物語が生まれます。

1.それを受け入れることができる人は、それを受け入れなさい

パリサイ人たちはイエスに、「人には許されているでしょうか(律法にかなっているでしょうか)、何か理由があればその妻を離縁することが」(19:3) と尋ねました。それに対しイエスは、「だれでも、淫らな行い以外の理由で自分の妻を離縁し、別の女を妻とする者は、姦淫を犯すことになる」と、妻を勝手に離縁することは原則、夫には「許されていない」という趣旨のことを答えました。

それを聞いたイエスの弟子たちは、「人の妻に対する状況がそのようなものであるなら、結婚しない方がましです」(10節) と、結婚に対する躊躇を真っ向から表明しました。結婚相手がどのような女性であるかは、実際に結婚してみなければ分かりませんが、離婚の道が閉ざされているなら、取り返しのつかない失敗になる恐れがあります。

この弟子たちの率直な感想を見てもわかるように、結婚に関してのイエスの意見は、徹底的に女性の権利を守るものとして当時の男性には聞こえたということが明らかです。

さらにこのときイエスは弟子たちに、「このことばはすべての人が受け入れられるわけではありません。備えられた人だけができるのです」と答えました (11節)。これは聖書的な結婚は基本的にすべての人ができることではなく、神がそのように備えてくださった人たちだけがするものであるという意味です。つまり、結婚は相手を好きになったら誰にも許されるべきというのではなく、そこには恐ろしい責任が伴うと警告されているのです。

現代の世の風潮では、結婚はすべての人の基本的な人権と見られています。ですから、たとえば、その人が同性との結婚を望むなら、それを社会が反対することはできないということになります。

しかしイエスは、結婚には「一体のものとなる」という責任が伴うと語りました。その背後にはマラキ2章15節の神は人を一体に造られたのではないか。そこには霊の残りがある。その一体の人は何を求めるのか。神の子孫ではないか。あなたがたは、自分の霊に注意せよ。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない」という教えがあります。

聖書的な結婚には「神の子孫」を創造するという神のご計画があるというのです。それは、結婚には男女の性的な交わりが伴い、それを通して神は、「神のかたち」としての人間の創造しようと計画しておられるという意味です。

もちろん、お子さんが与えられない夫婦関係も多くありますので、そればかりを強調してはなりませんが、ここから言えることは、結婚によって生まれる新しい「いのち」は、最初から「神の作品」(エペソ2:10) であり、親の所有物ではないということです。ですから結婚した二人には、中絶などによって子どもの誕生を否定する権利はないということになります。それは「神のかたち」に創造された存在を自分の手で殺すという殺人の罪になってしまいます。

その後イエスはさらに、「母の胎から独身者として生まれた人がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、それを受け入れなさい」と言われました (12節)。

ここで「独身者」と訳されたことばの原文は「宦官」と同じで、生殖機能を生かさない人を指します。ですから、ここで第一に「独身者に生まれた人」とは、生まれたときから創世記やマラキ書で定義された「結婚」には適さない人がいるという意味です。それは現代的には「性分化疾患」とも呼ばれ、男性期または女性器が生殖機能を持つに至っていない場合を指します。

第二の「独身者にさせられた者」とは「宦官」の例にあるように、男性器を切り取られた者のことです。第三の「天の御国のために……独身者になった人」とは、バプテスマのヨハネやイエスご自身の場合を指します。また使徒パウロも、現在のカトリック教会の司祭もそれに相当します。

使徒パウロは後にコリント教会に対して、「未婚の人たちについて、私は主の命令を受けてはいませんが、主のあわれみにより信頼を受けている者として意見を述べます」という特別な留保条件を述べながら、「差し迫っている危機のゆえに、男はそのままの状態に留まるのが良い、と私は思います。あなたがたが妻と結ばれているなら、解こうとしてはいけません……ただ結婚する人たちは、身に苦難を招くでしょう……独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと、主のことに心を配ります。しかし、結婚した男はどうすれば妻に喜ばれるかと世のことに心を配り、心が分かれるのです」と記しています (Ⅰコリント7:25–34)。

それは主の再臨前の苦難の時が近いということを前提に、独身を貫くことの祝福を語ったものです。これは、当時としては人々の常識を変える画期的な教えでした。基本的に今も昔も、世の風潮としては、男も女も早いうちに結婚をして「神の子孫」を育てることが社会人としての務めかのように思われています。しかし、イエスもパウロも、天の御国のため」に独身でいることの「祝福」を強調しているのです。

これは「死後のいのちのため」という意味ではなく、この地に「神の国」を広げるというこの地での使命のために独身を保つという意味です。

私たちはみなこの社会の中で共有できる価値観があるように思います。たとえば、「愛に満ちた家庭」が築かれることは素晴らしいことです。しかし、それが多くの人にとっての模範となり、そのような理想が画一化されると、神がそれぞれをユニークに創造してくださったことの意味が分からなくなります。すべてを「天の御国」または「神の国」の価値観から見直すべきなのです。

結婚や子育てばかりが理想化されるとそれについて行けない人が疎外感を味わいます。しかし、イエスは「天の御国のために、自分から独身者になった人たちもいます。それを受け入れることができる人は、それを受け入れなさい」と、そこにもすばらしい可能性があると言われました。「結婚したいけれど、できない……」という発想から、すべての状況を前向きに受け入れるという方向への転換が語られています。

使徒パウロは、先の結婚についての多様性の話しから、続けて「偶像に献げた肉」を食べて良いかどうかの議論を長々と記して行きます。多くの人はパウロの結論が分からなくて困惑しますが、その答えは白黒明確化できるものではありません。

その結論は、きわめて抽象的とも言える表現で、「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現わすためにしなさい」とまとめました (Ⅰコリント10:31)。これはまさに結婚にも適用できます。神が結婚を自分に「備えてくださった」と思えるなら結婚すべきですし、今は、独身のままで主に仕えた方が良いと思うなら、その方が、主に心を集中できると前向きに勧められています。

聖書的な結婚を受け入れることも、独身を受け入れることも、共通するのは「受け入れる」という心のあり方です。それはどちらにも大変な困難があるという意味です。結婚にも独身にも固有の難しさがありそれを「受け入れる」者のみが、そこにある「祝福」を体験できるのです。

2.子どもたちを来させなさい……天の御国はこのような者たちに属するから

13節は、「そのとき、子ども(幼子)たちがイエスのもとに連れて来られた。イエスに手を置いていただき、祈ってもらうためであった。すると弟子たちは彼らを叱った」と記されます。連れて来られたのは「幼子たち」です。

たぶんその子たちの母親たちが、イエスの手が様々な病を持つ人に置かれ、彼らの病が癒されるのを見て、子どもたちにも同じ「祝福」が与えられるようにと必死に願ったのでしょう。

しかし、弟子たちは「彼らを叱った」と記されますが、その「彼ら」とは、子どもたちを連れてきた人々なのか、子どもたちなのかは区別がつきません。弟子たちは親も子どももともに退けたと捉える方が自然に思えます。

それに対しイエスは、「子どもたちを来させなさい。彼らがわたしのところに来ることを邪魔してはいけません。天の御国はこのような者たちに属するからです」と言われました (14節)。弟子たちが、子どもたちが来るのを追い払おうとしたのは、イエスのお疲れを気遣ったからなのか、それとも結婚に関しての話しをもっと聞きたいと思ったからなのかは分かりません。

しかし、イエスが「天の御国はこのような者たちに属する」と言われたことから見ると、弟子たちにとっての「天の御国」は、イエスの話しをきちんと理解し、従う者に属すると思えたことでしょう。子どもたちにはイエスの話しは難しすぎると思ったのかもしれません。実際、イエスは、当時の人々の価値観をひっくり返すような革命的な話をしておられたからです。

どちらにしても、結婚を「受け入れる」とか、「独身を受け入れる」という話をした直後に、子どもがイエスのもとに連れて来られたという話がなされるのは、子どもたちを天の御国に「受け入れるということにおいて共通の意味があるからでしょう。

そこでの「受け入れる」という原文には、「場所を空ける」という意味が中心にあります。弟子たちは結婚や独身に関しての既成の枠から自由になって、イエスが語られた新しい結婚に関しての価値観に「心のスペースを空ける」必要がありました。

そして今は、弟子たちが子どもから「スペースを閉ざした」ことに、マルコ福音書ではイエスは「憤った」(10:14) とも描かれています。「天の御国」は、イエスの話しを理解できない人のためにも「スペースが空けられている」のです。

なおマルコでは、このマタイとほぼ同じ表現の後、「まことにあなたがたに言います。子どものように神の国を受け入れる(上記と異なる原文)者でなければ、決してそこに入ることはできません」(16節) と追加されています。

マタイにこのことばがないのは既に18章で「天の御国では、いったいだれが一番偉いのですか」(1節) という弟子たちに質問に、イエスが「向きを変えて子どもたちのようにならなければ、決して天の御国に入れません。ですから、だれでもこの子どものように自分を低くする人が、天の御国で一番偉いのです」(3、4節) と答えられた記録があるからと言えます。

イエスは、天の御国は「子どものものである」と言ったばかりか、より偉大な者になろうと競争している弟子たちに、「子どものように自分を低く」して「天の御国に入れていただく」ことを勧めたのです。それは獲得する生き方から、自分の「心を神に開く」生き方への転換です。

パウロは先の「受け入れる(場所を空ける)」ということばを用いてコリント教会の人々に向かって、「私たちに対して心を開いてください」と訴えています (Ⅱコリント7:2)。この原文は「私たちを受け入れてください」と記されています。その直前に彼は、「私は子どもたちに語るように言います。私たちと同じように、あなたがたも心を広くしてください」と訴えています。それは子どもの「心を開く」姿勢に倣うようにという勧めでした。

人は、大人になると自分の価値観を絶対化して、イエスご自身の存在と教えに対してただ「心を開く」ことができなくなります。特にパリサイ人の場合はイエスを受け入れることができませんでした。それは自分たちが築き上げてきた律法解釈が「心を開く」ことを「邪魔した」のです。

そしてイエスが子どもたちをみもとに引き寄せたという話の結論が、ここでは「そして手を子どもたちの上に置いてから、そこを去って行かれた」(15節) と記されます。当時の大人たちは天の御国」をこの地に実現しようと命をかけて頑張っていました。一方、子供たちは大人たちに連れて来られるままにイエスのふところに飛び込み、まさにそこで「天の御国に入れていただいた」のです。

今も、天の御国はすべての人々の目の前にあります。しかも、興味深いのはここでの主動詞は、「イエスは子どもたちの上に手を置いたではなく、「そこを去って行かれた」という動作にあります。イエスの前には場所が開かれており、自由に行動できました。それは、子どもは自分が「受け入れられた」と思うとすぐ、気持ちが別の方向に向かうからかもしれません。子どもを受け入れることは瞬時にできることで、束縛には繋がりません。

3.「永遠のいのちを持つためには、どんな良いことをすればよいでしょうか

その後のことが、「すると見よ、一人のイエスに近づいて来て言った」(16節) と記されますが、ルカはこの人を「ある指導者」と描きます(協会共同訳では「議員」と訳される)。彼はまるで若い時のパウロのような立場だったと思われます。

そして、この人は、「先生。永遠のいのちを持つ(得る)ためには、どんな良いことをすればよいでしょうか」と尋ねました。「永遠のいのちを持つ」とは、「天の御国に入る」(18:3) と言われることとほぼ同じ意味で、永遠に生き続けることより、永遠の祝福を今から保障されることを意味しました。

彼はこの地上でも既に地位を富も、すべてを勝ち得ていましたが、聖書に預言された「天の御国」に入れていただけるという「救いの確信」がなかったのでしょう。これは、先にイエスが、「天の御国は、このような者たちに属する」と、大人に連れて来られた幼児たち指し示したのと正反対の考え方です。マルコでもルカでも、この金持ちの青年の話しと「幼子を受け入れる」話しはセットになっています。

それに対してイエスは、「なぜ、良いことについてわたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです」という不思議な答えをします (17節)。それはこの人の目を、「良いことをする」ことから、天の父なる神に目を向けさせることにありました。

そしてイエスは、「いのちに入ることを望むのなら、戒め(命令)を守りなさい」と言われました。それに対し、彼は「どの戒め(命令)ですか」と尋ねます。これは何とも不思議です。当時の人々なら、「聞け、イスラエルよ。主 (ヤハウェ) は私たちの神。主 (ヤハウェ) は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主 (ヤハウェ) を愛しなさい」(申命記6:4、5) という命令こそが、主の命令の核心ですと答えるべきところです。それこそが「良い方はおひとりです」に対する答えになるはずで、彼は「 (ヤハウェ) を愛する」とはどのようなことか尋ねるべきでした。

ただそれは心のあり方で、どこまで行っても、成し遂げたという感覚を得にくいものです。この青年は、より具体的な How to を知りたがっていました。それでイエスは彼の基準に合わせるように誰もが知っている生活上の命令を与えました。

そのことが、「そこでイエスは答えられた。『殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽りの証言をしてはならない』」(18節) というごく当たり前の答えとして記されます。この青年は何らかの秘儀的な教えを求めていましたが、イエスは「神の教えは、すべての人に十分に明らかにされている」と言われたのです。

ただし、これらの直後に、『父母を敬え』と言われ、さらにそれらすべてをまとめるように『あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい』と言われたことには大きな意味があります (19節)。この二つは肯定命令で、どの時点で「完全になった」かを言うことはできないはずです。

ところが「この青年は」、「イエスに言った。『私はそれらすべてを守ってきました。何が欠けているのでしょうのようなことはみな、小さい時から守っております』(20節) と答えてしまいます。彼は、律法を守ってきたという自負がありながら、なお「永遠のいのち」を「受けている」という確信がなかったのです。それはなぜでしょう。

この青年の問題は、自分の良い行い」と引き換えに、「永遠のいのち」を獲得するという発想に生きて来たことにありますが、大切なのはイエスのことばに「心を開く」ことでした。

それを理解しない青年に対するイエスのことばは驚くほど厳しいもので、「完全になりたいのなら、帰って、あなたの財産を売り払って貧しい人たちに与えなさい」という途方もない命令でした。これは別にイエスがこの人に敢えて意地悪を言ったというわけではありません。

第一に、イエスはこの際、敢えて「そうすれば、あなたはに宝を積むことになります」と付け加えておられます。それは、彼の目を、地上のことから、天に向けさせる意味がありました。「」とは、天国のことではなく、目に見えない神のご支配を指したことばです。そこには、彼の目を地上的な保障ではなく、神の保障に向けさせるという意味がありました。

しかもイエスは、「そのうえで、わたしに従って来なさい」と言われ、彼をご自分の弟子として招いておられます。これは主が、ペテロやヨハネやマタイを招いたときと同じことばです。彼らも、すべてを捨てて従っています。この人は、イエスに教えを請うだけの思いがあったのですから、それは不可能なことではありませんでした。

ところが、「青年はこのことばを聞くと、悲しみながら立ち去った。多くの財産を持っていたからである」(22節) と、彼の葛藤に満ちた反応がリアルに描かれています。たぶん、彼がペテロのような貧しい漁師であったなら、またマタイのように人々から軽蔑されていた取税人であったなら、すべてを捨ててイエスの招きに応じることができたことでしょう。

しかし、彼の場合には失うものが多すぎました。なおこれは、この青年の現状に対してイエスが言われた固有の「召しでした。それは結婚、独身の場合と同様でした。その真ん中で、イエスは「天の御国は」、何の役にも立たない「子どもに属する」と言われたのです。

大切なのは、イエスのことばに対して「心が開かれている」ことです。この青年は、イエスから隠された秘密を獲得しようとしながら、「良い方はおひとりだけです」という発想の転換を迫ることばには心が開かれませんでした。

結婚生活も独身生活も、イエスの「召し」を「受け入れる」ことから始まります。自分の幸せばかりを求める歩み方から始まってはなりません。この青年にイエスが命じたと同じように、実は結婚においても「すべてを献げる」ことが求められています。どの世界に「いざとなったら自分の身を守るために妻を犠牲にする」と公言するような夫と結婚する女性がいることでしょう。

しかし、子どもは単純に「イエスに従う」ことができました。それは彼らには失うものがなかったからです。

「富に囚われて自滅する」ということは、サルが罠にはまることに似ています。入口の狭い透明の器にバナナを入れてサルに見せると、サルはすぐに手を入れてバナナを取ろうとします。しかし、手を握ったままでは器の入り口から手を出すことができません。サルは焦りますが、手を放すということに考えが及びません。それでサルはバナナを握ったまま、捕えられてしまいます。

サタンは同じような罠を人間に仕掛けてはいないでしょうか。