人は心に計画を持つ。
しかし、舌への答えは主 (ヤハウェ) から来る。
人には自分の行いがみな純粋に見える。
しかし、主 (ヤハウェ) は人の霊の値打ちを量られる。
あなたのわざを主 (ヤハウェ) にゆだねよ。
そうすれば、あなたの計画は堅く立つ。
箴言16章1-3節
新型コロナ蔓延で、病床が逼迫し、大変なことが起きています。そのような中で、政府や東京都の対応への批判が激しくなっています。
権力者を批判できる自由が保障されていることは本当に幸いなことです。
しかし、誰も体験したことのない事態、先の見えないことへの対応に苦慮するのは当然で、互いにもっと優しいことばかけが生まれないかと思うことがあります。
当教会でも感染対策に万全を期しながら、できるだけ礼拝の場は閉じたくないという思いで対面の礼拝を続けております。
しかし、礼拝参加者の中に感染者が起き、重症化したらどうしよう……という不安はいつも頭をよぎっています。
定期的な責任役員会で対応を検討しながらすべてのことを進めていますが、心配はいつもあります。
ただ、昨日などは、池袋での自由学園での講義の行き帰り、中央線に乗りながら、人が多いのに驚きました。
また夜9時過ぎに立川駅北口のモノレール乗り場に向かうコンコースに千人近い人々が混みあって歩いているのを目にして驚きました。最近できた商業施設グリーン・スプリングスの終業時間後の混雑かもしれません。20代から30代の女性が多かったように思いました。
緊急事態宣言下とは思えない光景を目にします。
しかし、何かあったら、厳しい批判が責任者に集中することでしょう。それでみんな、誰か特定の人が責任を取らなくてよい対応を続けるというのが日本人の特技です。
上記のみことばにあるように、すべての人は、自分の行動の動機は純粋だと思っています。何か問題が起きたら、悪いのは権力者や他の人だと思うのが人の常です。
でも迷いながらも自分で責任を取ろうとしない結果として、様々な責任者不在の悲劇が起きています。
「あなたのみわざを主 (ヤハウェ) にゆだねよ」とあるように、大切なのは、互いに不安を受け止め合い、迷いながらも、そのときそのときに自分で責任を取りながら決断するということかと思います。
同時に、どれほど危険が見えていても、それでもその危険を引き受けてなすべきことがあるし、そのように危険を引きうけてくれる人によって、この社会の安全が保たれているということも覚えたいと思います。
危険を正しく認識することは大切です。それぞれの危険度の違いもあります。しかし、危険を避けることばかりを考えたら、何もできなくなります。社会が機能しなくなります。
私たちはこの緊急事態下でも、恐れるべきことを正しく恐れながら、同時にできるだけともに集まって礼拝を守り、また礼拝の配信を続けたいと願っております。どうか、そのためにお祈りいただければ幸いです。
とくに Zoom やネットで礼拝に参加くださっている方、HPをご覧いただいている方は、たまにでも何らかの感想などいただけたら幸いです。
ご奉仕してくださっている方に励ましになります。
礼拝に来られる方も、ネットで礼拝に参加する方も、それぞれ主の前で祈りつつご自分の対応を決めるしかありません。
ただそこで、互いへの尊敬と配慮が生まれることが、何よりも大切なことと思います。
互いのためにお祈りし続けましょう。