マタイ16章13〜20節「わたしのエクレシアをわたしが建てます」

2021年5月2日

ここでの礼拝を始めた時、イエスご自身が「わたしの教会をわたしが建てる」と言われた約束を大切にしてきましたが、今は、組織に目が向かいすぎることの危険を感じるようになってきました。教会とは神の民の共同体(エクレシア)に他なりませんから、問われているのは組織的な成長よりもそこに愛の交わりが生まれているかということです。

しかも、イエスはこのことばを、この後三度もご自身を否認するペテロに向けて語っています。イエスには人を見る目がなかったのでしょうか?ローマカトリック教会はこの箇所からローマ法王をペテロの後継者と位置づけ、誰が天国に入れるかを管理する権威が与えられているかのように解釈します。

しかし、この文脈は単純に、ペテロに信仰告白を与え、彼を中心に最初の弟子の交わり(エクレシア)を建てたイエスが、あなたを召し、あなたを用いて交わりを広げ、この世を「天の御国」へと変えてくださるという約束と見るべきでしょう。愚かな人間の歴史の中にも神のみわざを見ることができます。

1.「人々は人の子をだれだと言っていますか」

16章13節は、「さて の地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに尋ねられた」という文章から始まります。これは、ガリラヤ湖の北東部のベツサイダ付近からヨルダン川東岸を約40㎞北上した地で、ヘルモン山のふもとのヨルダン川の水源地帯に行かれたことを指していると思われます。

この地名はヘロデ大王の息子ピリポに由来するとともに、真の支配者はカエサル(ローマ皇帝)であることを告白したものです。なおこの地は大昔からバアル礼拝の神殿が立ち並び、イエスの時代の約200年前からはギリシャの神パンの礼拝の地として栄えました。英語のパニックは、この神パンの大きな叫び声がもたらす恐怖に由来します。

そして何よりもここは、イスラエル全土の水源であるヘルモン山の湧水の地として霊的な地と見られていました。ですから、イエスが弟子たちを引き連れてここに行くというのは、まるで日本のクリスチャンが伊勢神宮にまで行って、イエスがどのような方かを語り合うようなものかもしれません。

イエスの質問は、人々は人の子をだれだと言っていますか」というものでした。イエスはこれまでご自分のことを「人の子」と呼ばれながら、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(8:20) と言われ、また、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために」(9:6) と言いながら、天井から釣り降ろされた中風の人を立って歩けるように癒しました。

またイエスは弟子たちを宣教のために遣わしながら、人の子が来るときまでに、あなたがたはイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません」(10:23) と言われ、ご自身がイスラエルの王であることが明らかになる時が間近に迫っていることを示唆しました。

さらにイエスは「人の子は安息日の主です」(12:8) と言われ、ご自身こそが安息日に何をして良いか悪いかを決める権威を与えられていると大胆に主張しました。ですからイエスがご自身を「人の子」と呼ぶとき、そこに特別な権威を主張していたことは確かです。

ただ、神が預言者エゼキエルに語りかける時にも、彼を「人の子」と呼んでいますので、そこに「救い主」というような意味を込めていたとは断言できません。どちらにしても、弟子たちはイエスがご自身のことを敢えて「人の子」と呼んでおられることに、不思議な思いを持っていたことは明らかだと思われます。

しかもイエスは、ローマ皇帝が「神の子」として崇められ、そこで人々が「私たちの王は、ローマ皇帝です」と告白している地に弟子たちを連れて行った上で、「人々は人の子をだれだと言っていいますか」と尋ねたのです。それは極めて危険な質問であり、政治的な意味を弟子たちは考えざるを得なくなります。

イエスの質問に弟子たちは、「バプテスマのヨハネだと言う人たちも、エリヤだという人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」と答えます (14節)。

当時の人々の中には、ヘロデ・アンテパスに殺されたはずの「バプテスマのヨハネ」が生き返ってイエスとして現れたと見る人もいたと記されています (14:2)。

また「エリヤだと言う人も」いたとは、最後の預言者マラキに、救い主の到来の前に、かつて生きたまま天に引き上げられたエリヤが再びこの地に送られてくると記されているからです (4:5)。今も保守的なユダヤ人は、安息日の終わり毎に、「預言者エリヤよ、テシベ人エリヤよ、ギレアデ出身のエリヤよ、速やかに我らの世に 我らのもとへ来たりませ ダビデの裔(すえ)なるメシアとともに」と歌います。

ただしイエスは、「バプテスマのヨハネ」こそが「エリヤ」の現れであると言っています (11:14)。

なお、マルコではこの後、「預言者の一人だという人もいます」(8:28) と記されますが、ここではその前に「ほかの人たちはエレミヤだと……言う」ということばが入ります。

伝承によるとエレミヤは、紀元前586年、エルサレム神殿がバビロン帝国によって滅ぼされる前に、主の命令によって「契約の箱」をネボ山のある洞窟に隠しましたが (外典Ⅱマカバイ2:1–15)、終わりの日にエルサレム神殿が再建される前に再度遣わされ、「契約の箱」を神殿に戻すと言われていました。

また外典であるⅡマカバイ15章13–15節には、エレミヤが「白髪と気品によって際立っている……彼を取り巻いている尊厳は驚嘆すべきもの」と描かれ、彼が幻の中で に金の剣を渡したと記されます。なお当時の人々にとっては、ギリシャ人の王 と戦ってエルサレム神殿をきよめたユダ・マカベオスこそが救い主のイメージであったと言えましょう。

どちらにしても、エリヤエレミヤも、「ダビデの子」として現れる救い主」の先駆けに過ぎません。預言者サムエルがダビデに油を注いでイスラエルの王としたように、当時の人々はイエスこそがダビデ王国を再興する「救い主」に油を注ぐ、神からの使者であると期待したようです。しかし、イエスに油を注いで救い主としての働きを始めさせたのはバプテスマのヨハネでした。

どちらにしても当時の人々は、イエスをまだ「ダビデの子」と認めるまでには至っていなかったようです。ましてイエスを「神の御子」と見るというのは彼らの想像を超えていました。

彼らにとって、イエスは神の救いを告げ知らせる人であって、実現する人ではありませんでした。それは現代のイスラム教徒がイエスを預言者と認めるのと同じようなものです。そして今も多くの人々は、イエスを神から遣わされ、「新しい教えを広げた人」程度にしかしか見ていません。

2.「あなたはキリスト、生ける神の御子です」

その答えを受けて、イエスは弟子たちに、「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」と尋ねます。それに対して、ペテロはすぐに、「あなたはキリストです、生ける神の御子です」と告白しました (16節)。マルコの福音書では、ペテロは「あなたはキリストです」(8:29) とのみ答えたということになっています。

キリストとはギリシャ語で、これをヘブル語にすると「メシア」、つまり「油注がれた王」という意味になります。そしてイエスは後に、「これはユダヤ人の王イエスである」という罪状書きとともに十字架にかけられます。それは、イエスがローマ皇帝の支配を否定するイスラエルの王であると言って、ローマ帝国の支配に反逆したという意味でした。

そして、当時の人々が描く「救い主(日本語)」、「キリスト(ギリシャ語)」、「メシア(ヘブル語)」のイメージもそれと同じで、イスラエルをローマ帝国の支配から解放する「ダビデの子」を待ち望んでいました。これは先に、当時の人々がイエスを「エリヤ」または「エレミヤ」と見ていたことと大きく異なります。先に述べたように、エリヤもエレミヤも、救い主としての働きを始めさせる預言者に過ぎなかったからです。

なお、マルコ福音書におけるペテロの信仰告白は「あなたはキリストです」という短いものとして描かれますが、その書は、「神の子、イエス・キリストの福音のはじめ」ということばから始まっています。そしてこのマタイ福音書でペテロは、生ける神の御子ということばを加えています。

ただ、先にも弟子たちは、イエスが真夜中に水の上を歩いて弟子たちの舟に近づき、強風を鎮めた時、舟にいた弟子たちは「まことに、あなたは神の子です」と言って「イエスを礼拝した」と記されていました (14:22–33)。

それにしてもここでなお注目すべきは「生ける神の御子」と言う表現で、神が「生ける方」であると描かれることです。それこそ偶像礼拝の中心地でのふさわしい表現でした。預言者イザヤは46章で偶像の神に関して、「疲れた動物の重荷となって運ばれる」存在に過ぎず、それを人々は神として拝みながら「これに叫んでも答えず、苦しみから救ってもくれない」と描いています (1、7節)。その死せる神々に対して「生ける神」なのです。

しかもここではイエスが「神の御子」と定冠詞付きで描かれます。それこそ、詩篇2篇で主 (ヤハウェ) ご自身が「わたしが わたしの王をシオンに立てた」と言われながら、その王に向かって「あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ」と言われたことを思い起させる「神の御子」に他なりません。

そこでの「生んだ」とは、肉体的な誕生のことではなく、イエスの復活と王としての即位のことで (使徒13:33参照)、そのときこの地のすべての王たちが、「おののきつつ震え、子に口づけする」と記されています (6、7、10、11節)。

とにかく、ペテロの信仰告白は、イエスこそが全世界の王たち、支配者たちを従える神の御子であると告白した、模範的なものでした。多くの人々は今もイエスを、神の愛を見せてくださった優しい方と見ることがあっても、全世界を従える「王たちの王、主たちの主 (king of kings, Lord of lords) 」であるとは認めていません。

それに対しイエスはペテロに向かって、「あなたは幸いです(祝福されています)、バルヨナ(ヨナの子)・シモン。それは肉と血がこれをあなたに啓示した(明らかにした)のではなく、天におられるわたしの父だからです」(17節) と言われます。

イエスはペテロの信仰告白を「幸いです」と祝福し、彼を「ヨナの子シモン」という正式な名で呼び、それは人間としての肉や血の努力の結果として獲得された知恵ではなく、イエスの父、天におられる方からの特別に啓示されたものだと言われました。彼はそれを分かったでしょうか?

後の26章31–35節に、イエスとペテロの会話が描かれますが、そこでペテロは自分の信仰を人間的に誇っているように描かれています。そこで主が十字架にかかる前の夜、弟子たちに「あなたがたはみな、今夜わたしにつまずきます」と言われますが、そのときペテロは、「たとえ皆があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」と、自分が他の弟子たちよりも信仰が強いかのようなことを言いました。

それに対しイエスがさらに、「あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います」と言われますが、それに対しペテロは、「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と答えました。現代の私たちも信仰を人間的な尺度で量りがちではないでしょうか。

多くの人々はペテロとは逆に、「私の信仰はあまりにも弱いので、迫害を受けたらすぐにつまずくでしょう」と言いますが、これも信仰を「肉と血」によって獲得した知恵と見ているに過ぎません。

信仰告白が、本当に「天におられるイエスの父なる神」からの啓示であると受け止めているとするなら、迫害の中でも父なる神は信仰告白を全うさせてくださると信じるというのが、当然の論理ではないでしょうか。

しかもペテロはその夜、イエスが捕らえられるとき、「大祭司のしもべ」に「剣を抜いて……切りかかり」、「その耳を切り落とし」ますが、そのときイエスはペテロに、「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今すぐわたしの配下に置いていただくことが、できないと思うのですか」と言われました (26:51–53、ヨハネ18:10)。

そこで明らかになるのは、ペテロはイエスが「生ける神の子キリスト」であるということをあまりにも人間的な意味で考え、天におられるイエスの父なる神からの啓示であるということを、本当には理解していなかったということです。

ただ、私たちの信仰告白も同じようないいかげんなものとも言えます。私たちはこの世の様々な葛藤やこの世の権力に虐げられることによって初めて、イエスが「生ける神の子キリスト」であるということを理解できるのです。

信仰告白は与えられるものであるとともに、その理解は時間をかけて深められるものです。後に使徒パウロは、ピリピの教会の信徒に「あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています」(1:6) と保証しています。

3.「この岩(ペトラ)の上に、わたしはわたしの教会を建てます」

イエスはさらにペテロに向かって、「それでわたしはあなたに告げます、あなたはペテロ(岩または石)です、そして、この岩(ペトラ)の上に、わたしの教会をわたしが建てます。ハデス(よみ)の門もそれに打ち勝つことはできません」と言われました (18節)。

ここでまず「あなたはペテロです」という言い方は、先にペテロがイエスに向かって「あなたはキリストです」と言ったことに対応します。つまり、キリスト」に対応する立場が「ペテロ岩)なのです。そしてそれをアラム語にすると「ケファ」になり、イエスは彼をそう呼んだはずです。パウロはガラテヤ人への手紙で、ペテロとケファという呼び名の両方を使っています (2:7–14)。

イザヤ51章1節では、「あなたがたが切り出されたが「あなたがたの父アブラハム」と呼び変えられているように見えます。すると神が最初にアブラハムを信仰の父として育てたように、「ヨナの子シモン」を「ペテロ」また「ケファ(岩)」として育て、そのような信仰告白をした人の上にご自身の教会共同体(エクレシア:集会)を建てると約束してくださったと言えましょう。

ペテロはローリング・ストーン(転がる石)のような存在でしたが、イエスによって不動の「」へと変えられ、彼を中心に初代教会が築かれてきました。

さらにここにはイエスが7章24–27節で、「岩の上に自分の家を建てた賢い人」と、「砂の上に自分の家を建てた愚かな人」のたとえの話しが前提にあります。

そこでイエスは「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、(ペトラ)の上に家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです」と言っておられました。

ペテロの信仰告白は、天におられるイエスの父なる神によってなされたものです。それは私たちの信仰告白が聖霊のみわざであるのと同じです。

カトリック教会はローマ法王をペテロの後継者として教会の「」に位置づけますが、私たちはペテロに信仰告白を与え、どこに転がるか分からない彼の信仰を岩のように不動のものとしてくださった三位一体の神のみわざを信じるのです。

しかも、ここでは、イエスがご自身の教会を建てると言われたことに関して、「よみの門もそれに打ち勝つことができません」と言われています。

それはペテロの信仰がよみに打ち勝つのではなく、ご自身の教会を建てるイエスのみわざが、人々をハデス(よみ)に追いやるサタンに打ち勝つという意味です。

さらにイエスはペテロに、「わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐ(禁じる)ことは天でもつながれ(禁じられ)、あなたが地で解く(許す)ことは天でも解かれ(許され)ます」と言われます (19節)。

天の御国の鍵」とは、誰が天国に入れるかを決める権能がペテロの後継者のカトリック教会に与えられているという意味ではなく、ペテロとその信仰告白に倣う者、つまり、キリストの教会に天の御国の鍵が預けられているという意味で、「鍵を開く」とはイエスのことばを取り次ぐことに他なりません。

そして、「つなぐ」とか「解く」とは当時のラビが用いた用語で、具体的な地上の行いが、律法に照らして禁じられているか、許容されているかを判断する権能がペテロとその信仰告白に倣う者たちに与えられているという意味です。

ただ、たとえば現代、同性婚が神の目から「許される」か「禁じられる」かなどの判断は保守的な信仰者の間でも分かれますので、これを狭く解釈することは危険です。

残念ながら中世のカトリック教会は、すべての LGBT の方々を天の御国から締め出していました。フランスを救ったジャンヌダルクは男装したことが魔女のしるしと見られ、火あぶりになったほどです。歴史から学ぶ必要があります。

それよりもここで強調されているのは、「地上でのことが、天において認められる」という、天と地が重なり合うという原則です。それはペテロの信仰告白に倣う者たちが、まるで神の全権大使であるかのようにこの世界を治めるという、聖霊のみわざによる働きが語られていると考えるべきでしょう。

そこで問われるのは、どこまで私たちが神のみこころを理解しているか?ということで、教会の在り方が問われています。

20節でイエスは弟子たちに、「ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない」と命じられました。これは、当時の人々が勝手に描いた「救い主」のイメージによって、イエスの御教えが歪められるからです。

これと対照的なのが、イエスは十字架にかかる前の裁判で、ご自身が「神の子キリスト」であることを認めたばかりか、ダニエル7章13節の人の子のような方」の預言を用いて、「あなたがたは今から後に見ることになります、人の子が力ある方の右の座の着いていることを、また、天の雲とともに来ることを」と言われました (26:64)。

それは今から十字架にかけられようとしているイエスこそが「王たちの王、主たちの主」であり、全世界の支配者であることが、人々の間にも見られるようになるという意味です。

ペテロはイエスを「あなたはキリスト(救い主)です」と告白し、イエスはヨナの子シモンを「あなたはペテロ(岩)です」と呼び、「この岩の上に、わたしのエクレシア(教会)をわたしが建てます」と言われました。そこから天の御国」がこの地に広がり始めました。これを教会組織的に見ると誤解が生まれます。

大切なのは、天の父が私たちに聖霊を送り、「イエスは私の主です」という告白を与えてくださることです。ペテロの信仰告白が教会の土台なのではなく、キリストご自身こそが私たちの交わりが築き上げられるべき土台、「なのです。

ペテロの信仰の問題はこの後すぐに明らかになります。しかし、イエスはそのペテロを、忍耐をもって育て、最後に大きな失敗をさせ、その上で彼を群れの指導者として用いました。

私たちは自分の信仰を土台にするのではなく、イエスを土台として、この世界全体を変えるようにと召されているのです。

1,200人のユダヤ人をナチスの虐殺から救ったドイツの実業家オスカー・シンドラーが、「もっと多くの人を救えたはずなのに……」と嘆いたときに、ユダヤ人のラビは、「誰でも一人の命を救う者は、全世界を救っている」と答え、彼が十分すぎるほどの働きをしたと称えました。

その背後には以下の のことばがあります。「神は人を神のかたちとして造った」(創9:6)、それゆえ「一個の生命を滅ぼす者は全世界を滅ぼしたと同じように扱われ、一個の生命を救った者は、全世界を救ったように扱われる」(ミシュナ・サンヘドリン4:5)。

私たちに問われるのは、どれだけ大きな働きをしたかではなく、目の前の「神のかたち」に創造されたひとりに、どれだけ誠実に仕えたかということです。

あなたもペテロです。愚かな失敗をするかもしれませんが、神はあなたに聖霊を与え、イエスの姿を見させ、力を与え、天の御国の大使として用いてくださいます。