コロナの中で主の臨在とともに歩む〜出エジプト33章4、15、16節

毎日、変異型の新型コロナの猛威のことが話題になっています。この変異型の感染力からするとそう簡単に収束の目処が立たないと考えるべきなのかと思わされています。

ただ、私たちはそのような中で、ともに顔と顔とを合わせて、手を取り合って祈り合うことができない状況下にあります。

ただ、聖書によると、神の臨在は私たちの交わりと切り離せない関係にあります。旧約によると、主のご臨在は契約の箱とともにありました。僕は聖書を読みながら、神の臨在と契約の箱の関係に目が開かれたときに、現代の私たちの交わりにも目が開かれました。

そのことをイエスは、「二人か三人がわたしの名においてともに集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18:20) と言ってくださいました。

ただ現在、新型コロナウィルスの脅威が、私たちの交じりの前に立ちはだかっています。しかし、神は現在、たとえばZoomという手段で、場所的に離れていても時間を共有し、互いの顔を見合ってお祈りするという道を開いてくださっています。

私たちの礼拝も同じ時間にZoomまたYoutubeを通してご覧いただき、時間を共有することができます。日曜日の3回の礼拝に参加いただくことができます。一般公開はしていませんが、ご希望の方には開き方をお教えします。

サッカーや野球の同時中継に臨場感が現れるならば、まして私たちの礼拝でも時間を共有して礼拝できること、またZoomを通して顔と顔を合わせてお祈りできることは何と幸いなことでしょう。なお、水曜日の10時半また夜7時半からのZoom祈祷会にもご参加いただくこともできます。

主の臨在が私たちの交わりのただ中にあるという視点は、旧約における契約の箱が荒野を旅するイスラエルの民のただ中にあったということからの流れで示されますが、そのことは鎌野直人先生が記した「聖書66巻を貫く一つの物語」の中に分かりやすく記されています。 でお求いただくことができます

かつて主 (ヤハウェ) はイスラエルの民の偶像礼拝に怒りを発し、「あなたがたは、うなじを固くする民だ。ひと時でも、あなたがたの中にあって上って行こうものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう」と言われました。

それに対しモーセは必死に主にすがりながら、「もしあなたのご臨在がともに行かないなら、私たちをここから導き上らないでください」と祈りました。

さらにモーセは主に向かって、「私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知ることができるのでしょう。それは、あなたが私たちとともに一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか」と訴えました (出エジプト記33章5、15、16節)。

このことを上記の本で鎌野先生は次のように書いておられます

「モーセは、指導者である自分だけでなく、民全体(「私たち」「あなたの民」)とともに主が行ってくださることを求めました。イスラエルの民が地上のすべての民と異なることの (16節) のしるしは、民の中にある主の臨在だからです。そして、主はモーセの提案を最終的に受け入れ、イスラエルとともに行かれます (17節)。

このプロセスの中で、「イスラエルの民といっしょに行ってくださる主」の姿が明らかになります。モーセの「どうかあなたの道を教えてください」(13節)、さらには「どうか、あなたの栄光を私に見せてください」(18節) との迫りがきっかけで、神は自らの姿をより一層明確にモーセに示しておられるからです」(上記の著 p109)。

そしてこの聖書箇所をもとにした美しい曲があります、以下のドン・モーエンの曲で味わっていただくことができます。英語の歌詞ですみません、主の臨在が私たちとともにいてくださるようにという祈りとして歌われています。歌詞が映りますので味わっていただければ幸いです。