今日はいよいよイエス様が十字架にかかられたことを覚える聖金曜日です。午後7時から恒例の音楽礼拝を開きます。今年は若干、縮小したバージョンですが、毎年歌っているドイツの古い讃美歌はすべて含まれています。
当教会の からご覧いただけます(時間が過ぎても大丈夫です)。
多くの人々は十字架と復活を分けて考える傾向があります。しかし詩篇2篇は、旧約聖書で最も頻繁に引用されるキリスト預言の一つですが、以下のように告白されています
天の御座についておられる方は言われる。
「わたしが わたしの王を立てたのだ。
わたしの聖なる山シオンに。」
……
主は私に言われた
「あなたはわたしの子。
わたしが今日、あなたを生んだ。
わたしに求めよ。
わたしは国々をあなたへのゆずりの地として与える」
(6-8節抜粋)
十字架は、イエス様の玉座でした。王としてできる最大のことは、国民のために自分の身をささげることです。イエス様はイスラエルの歴史を新しくし、彼らから新しい神の国が始まるようにご自身の身を犠牲にされました。
そのためには、イスラエルを支配している「のろいの律法」から彼らを解放する必要があります。
それは、すべてのアダムの子孫に関しての場合は、「死の力」から解放し、「死の恐怖の奴隷」状態となっている人々を、サタンの支配下から救い出すことです。それが以下のように記されています
それはご自分の死によって、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、無力化するためであり、また、死の恐怖によって一生涯奴隷となっていた人々を解放するためでした (ヘブル2:14、15私訳)
イエスの十字架は、死の力を持つ悪魔と、いのちの主であるイエスとの戦いの舞台でした。罪のないイエスが、人々の身代わりとしてご自分の身を差し出した時、罪を犯した者を、ご自分の支配下に置くという悪魔の権利は奪い取られました。イエスにつながる者はすでに、悪魔の支配下から贖い出されているのです。
そのことを誰よりも明確に、歌として記したのが宗教改革者マルティン・ルターでした。私はこのルターの讃美歌を味わうことで、この古典的な贖罪論が腹の底に落ちてきました。しかも、それは聖餐式の恵みにまでつながっています。
以下は私訳です
「キリストは死につながれたり」
Christ lag in Todesbanden
Martin Luther 1524
曲J.S.バッハ編曲 Ⅱ讃美歌100番、聖歌165番参照
- キリスト死にたもう われらの罪負い
主はよみがえりて いのちをたまいぬ
喜びあふれ、御神をたたえ
声上ぐわれらも ハレルヤ - いまだに死のとげ たれも折るを得じ
われらの罪こそ 死の支配招く
脅しの力 襲いかかりぬ
とらわれ人らよ ハレルヤ - 神の子キリスト 死のさばきを受く
死の力 もはや われらに及ばず
残るは すでに、力なき影
とげ今 折れたり ハレルヤ - くすしき戦い 死といのちにあり
いのちは勝ちを得 死をのみ尽くしぬ
罪なき死こそ 死の力 砕く
死は死を呑みたり ハレルヤ - まことの過ぎ越し 御神の小羊
燃え立つ愛もて 十字架にほふらる
気高きその血 頼れるわれらを
さばきは過ぎ越す ハレルヤ - この日を祝いて 喜び集まる
光を造りし 主にこの身ゆだね
惑えし心 ひかりを受けたり
罪の夜 過ぎ去る ハレルヤ - めぐみのみことば われらに及べば
昔のパン種 取り去りて祝う
キリストこそは この身を生かせる
まことの糧なり ハレルヤ
これをもとにバッハはカンタータ4番を作曲しましたが、その をご覧いただけます。
また約22分間の全曲を以下でお聞きいただけます。最後の20分50秒あたりだけでもお聞きいただければ、この曲のメロディーが良くわかります
今晩の応答の賛美として歌いますので、事前にその部分だけでもご覧いただければ幸いです。