いかがお過ごしでしょうか。今日はイエス様が弟子たちと最後の晩餐を祝い、その後、ゲッセマネの園で「苦しみもだえて……汗が血のしずくのように落ちた」(ルカ22:44) という祈りをささげ、その後、捕らえられて不当な裁判にかけられたことを覚える木曜日です。
短い間に世界を変えるできごとが起きましたが、それは同時に、私たちが矛盾に満ちた世界に遣わされる勇気を与えるためのものでもあります。
2月14日以来、行方が分からなくなっている岩手県出身の八王子の大学生、KSさんのことをお祈りいただいておりますが、お父様にお尋ねしたところ、まだ手がかりがつかめないとのことでした。消去されていたパソコンデータを警察で調べていただきましたが、示唆する情報が手に入らなかったとのことです。お父様は断腸の思いで、岩手に帰り、再び仕事を始めておられます。当教会の対応にも感謝しておられました。引き続きお祈りいただければ幸いです。
2月1日の彼のノートには次のように記されていました
ただ一つ分かっているのは、終わりの日が、着実に、預言者たちが記した事、裁きと報いと、怒りと憤り、妬みの日が着実に近づいていること。しかも、その日からは誰も逃れられない。正しい人も正しくない人も、恐れ苦しまなければならない。セトの子らが、カインの娘たちに誘惑されて……堕落して滅んでしまった。イエス・キリストを信じる人の中からも、おそらく堕落してしまう人がいるだろう……
残念ながら、彼は聖書を読みながら、誤った教えに導かれてしまったことは明白です。その特徴は、終わりの日への恐怖を搔き立てながら、それが日常生活からの逃避につながることです。
このように聖書を読みながら真の福音に出会っておられない方に対して、私たちは大きな責任を担っております。何ができるかをともに考えたいと思います。
どちらにしても、真の福音は、神の赦しの恵みを教えるとともに、私たちにこの世の困難の中に向かう勇気を与えるものです。
詩篇130篇では次のように歌われています
主よ、深い淵から私はあなたを呼び求めます。
主よ 私の声を聞いてください
私の願いの声に耳を傾けてください
主よ あなたがもし 不義に目を留められるなら
主よ だれが御前に立てるでしょう
しかし、あなたが赦してくださるゆえに
あなたは人に恐れられます
私は主を待ち望みます
私のたましいは待ち望みます
……
イスラエルよ 主を待て
主には恵みがあり
豊かな贖いがある
主はすべての不義から
イスラエルを贖い出される
この詩篇はプロテスタント宗教改革の原点とも言えるもので、マルティン・ルターはこのみことばをもとに「Aus tiefer Not(深き悩みより)」という讃美歌を記し、そこから多くのオルガン音楽も生まれています。
ルターはこの詩篇を信仰義認の教理の最重要テキストの一つと見ていました。ルターはカトリックの修道院生活の中で、「神はどんな小さな罪も見逃さない厳しいお方で、神のあわれみを受けることができるために徹底的な服従の生活を全うしなければならない」と、恐怖に震えていました。
しかし、この詩篇に描かれている神は、私たちが自分の罪に悩みながら、主のあわれみを求めるとき、「不義に目を留める」代わりに、豊かに「赦してくださる」方であると記されています。
中世の神学では、しばしば、「神の義」は、どんな小さな罪をも見逃すことができない厳しい基準で、何の罪もないイエス・キリストが初めてその神の義の基準を満足させることができたと説明されていました。
そのうちにイエスの十字架の苦難に倣って初めて、イエスが獲得された豊かな義を受けさせていただけると教えられ、イエスでさえも恐怖の対象になり、イエスの母マリアにすがるしかなくなって行きました。
しかし、ルターはこの詩篇を思い巡らしながら、イエスの十字架は何よりも、神の側から私たちの罪を赦し、私たちとの「和解」を望んでおられることのしるしであると理解できました (Ⅱコリント5:20参照)。
私たちに求められることは、神の義の基準に達するために善い行いに励む代わりに、私たちをそのままで赦し、神の子として受け入れたいと願っておられる神の圧倒的な恵みに自分の身を差し出すことだけだったのです。
その感動をルターは以下のように歌っています(私訳)。曲は讃美歌258番
- 深き悩みより 主よ われ叫ぶ
かえりみたまえや わが願いをば
主よ もし わが不義 目に留めたまわば
御前に立ち得じ - 御赦し受くるは ただ 恵みのみ
いかに善きわざも 誇ること得じ
御前にひれ伏し ただ主を恐れて
あわれみ乞うのみ - 主を待ち望みて わが義 頼まじ
われを義とせるは 主のまことのみ
くすしきみことば わがうちにせまり
慰めたまえり - いかなる罪にも まさる御恵み
主の恵みの御手 はばむものなし
われらの牧者は すべての不義から
あがない出したもう
この4節には、「あなたが赦してくださるゆえに あなたは人に恐れられます」と記されます。私たちの罪に対する「神の怒り」は「天から啓示されて」いますが、「福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませる」と記されています (ローマ1:17、18)。
つまり、神の前に義とされる信仰とは、私たちの罪を赦すためにご自身の御子を十字架にかけてくださった方の圧倒的な愛を受け入れることです。
そして、何よりも大切なことは自分の罪を認め、「自分の罪を告白する」ことです (Ⅰヨハネ1:9)。私たちが「主を待ち」または「望む」ことの内容は、「主には恵みがあり、豊かな贖いがある」こと、「すべての不義から……贖い出される」ことを信じ受け入れることなのです (7、8節)。
祈り
主よ、あなたが私たちの罪を赦すためにご自身の御子を十字架にかけてくださった圧倒的な愛を、心から恐れるとともに、感謝して受け入れます。どうか、日々の生活の中で、自分の罪に悩む私たちにあなたの圧倒的な愛を体験させてください。
上記のルターの歌を教会の子どもの聖歌隊が歌ったのが以下のビデオです
ルターから約200年後にJ.S.Bachはそれをもとに美しいカンタータを作曲しました。以下でお聞きいただけます
明日金曜日夜7時からの受苦日音楽礼拝ではこの曲の賛美から始まります。当教会のホームページから されます。