今週は受難週ですが、私たちは人間としてのイエスの苦しみをどれだけ理解しようとしているでしょうか?
愚かにも50年近く前の私は、マタイ福音書を読んで、「イエスはなんと往生際の悪いことか……」と思ってしまいました。イエスが全世界の罪を負って、父なる神の裁きを受けるという神秘が理解できなかったからです。
ダビデの以下の詩篇を、罪人の代表者となったイエスは心から祈られました
主よ 御怒りで私を責めないでください……
主よ 私を癒してください。私の骨は恐れおののいています
私のたましいは ひどく恐れおののいています……
死においては あなたを覚えることはありません……
私は嘆きで疲れ果て……私の目は苦悶で衰え
私のすべての敵のゆえに弱まりました (詩篇6:1-7抜粋)
そして、ヘブル書では人間イエスの敬虔さが次のように描かれています
この方は、ご自分の肉体の日々において、祈りと願いとをご自分の死(の支配領域)から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって、ささげられ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。 (5章7節私訳)
神のみこころを確信して十字架に向かわれたイエスが、「大きな叫び声と涙とをもって」「祈りと願いをささげる」必要があったということは、理屈では納得できません。しかし、誰よりも感性豊かな人間であったイエスは、ご自身の恐れと悲しみをまっすぐに父なる神に訴えられ、それが全世界の癒しにつながったのです。
バッハのマタイ受難曲に登場する有名な讃美歌があります。バッハの編曲前のメロディーは、現代の音楽と大きく異なりますが、それだけ感情に迫るものがあります。原歌詞では O Welt, sieh hier dein Leben(世界よ、ここで、おまえのいのちの主を見よ)という歌詞から始まります。
1647年に が作ったもので、もともと15番まである讃美歌ですが、以下は、私たちの教会の受苦日礼拝(今週金曜日夜7時から あり)で歌う教会讃美歌の名訳です。
あまりにも歌いにくいので、普通の礼拝ではあまり歌うことはありませんが、僕の最も好きな讃美歌の一つです。イエスの十字架の意味が、感情の奥底に迫ってきます。
オリジナルのメロディーは以下で味わっていただくことができます
見よ、十字架に 主はかけられて いきたえしを
いのちのきみは あめよりくだり 死の恥受けたもう
来たりて思え 血潮流るる くしきみわざ
わが主の胸は 悲しみ深く 苦しみに痛む
主の苦しみと 嘆きの声は 今も聞こゆ
とわの休みに 入るその日まで 導かせたまえ