東日本大震災から10年〜詩篇44篇

今日は東日本大震災から10年目の記念日です。皆様はいかがお過ごしでしょうか?

遠い昔のようでありながら、ついこの前の記憶として様々なことがよみがえります。いろんなことがありました。そして、今もいろんな不安な事態が日々起きています。

でも、振り返ってみると、いつもそこに信頼できる新たな友との出会いがありました。「何で、こんなことが起きるのか?」と嘆いた分だけ、そこに、互いに祈り合える、また支え合える友が生まれました。

以下は、約10年近く前に「百万人の福音」に投稿した記事です

ああ、しかしあなたは、私たちを拒絶し、辱めたのです……

しかも、あなたのために、私たちは一日中、殺されています。

まるで、ほふられる羊のようにみなされています。

起きてください。どうして眠っておられるのですか。主よ。

目をさましてください。いつまでも拒絶しないでください……

贖い出してください。あなたの慈愛(ヘセド)のゆえに。

詩篇44篇抄訳

東日本大震災の翌週、福島原子力発電所の原子炉建屋が水素爆発を起こしたというニュースを見ながら必死に祈っていました。ところが、すぐにもうひとつも爆発し、またひとつは火災を起こし、そしてひとつからは放射能汚染水が海に流れ出てしまい、放射能漏れは留まるところを知らないかのようです。みなが心を合わせて祈っているのに、神は沈黙を続けておられます。

しかし、ふと、「どうして眠っておられるのですか主よ。」という祈りを思い起こし、逆説的な慰めを受けました。それは、未曾有の悲惨の中で、神の沈黙に戸惑いながら、なお、神に信頼し続けた多くの信仰の先輩を思い起こしたからです。

というユダヤ人の哲学者は、第二次大戦中に多くの同胞が虐殺された悲劇を振り返りながら、「ヒトラーの民族絶滅計画—それは千五百年にわたって福音が宣布されたはずのヨーロッパに生まれた……」と西欧のキリスト教の無力さを批判しながらも、同時に、「ヒトラー経験は多くのユダヤ人にとって、個人としてのキリスト教徒たちとの友愛のふれあいの経験でもあった。それらのキリスト教徒たちは、ユダヤ人に対してその真心を示し、ユダヤ人のためにすべてを危険にさらしてくれたのである」と記しています。

つまり、「キリスト教文化は何と無力なことか……」としか思えないような悲惨な現実があったとしても、それを、個人的な交わりの中に身をおいて見るとき、福音の力を感じることができるというのです。

身近な人の苦しみを見ながら、心が痛むという能力は、神からの最大の贈り物ではないでしょうか。実際、多くの信仰者は、神が眠っておられるかのような悲惨の中で、イエス・キリストが自分とともに苦しみを味わっておられるという神秘を体験してきました。

「起きてください……主よ」

福音をヨーロッパに最初に伝えた使徒パウロは恐ろしい迫害を受けました。彼は死ぬ一歩手前までの鞭打ちの刑を受けたことが五度もあり、「一昼夜、海上を漂ったことも」「労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(Ⅱコリント11:24–27)。

そのような中で、彼は自分の気持ちを詩篇のことばを用いて、「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた」と表現しています (ローマ3:36、詩篇44:22)。

多くの人々は、パウロのような偉大な信仰者は、苦しみのただ中でも、「ハレルヤ!」と神を賛美し続けていたと思うでしょうが、実際は、「起きてください。どうして眠っておられるのですか。主よ。目をさましてください。いつまでも拒絶しないでください」(23節) と、泣きながら神に訴えていたのではないでしょうか。なぜなら、彼が先に引用した詩篇のことばと、この不思議な祈りは同じ詩篇の中にセットで記されているからです。

しかし、そこには不思議な展開が見られます。パウロは自分の身を嘆いているようで、その直後に「しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです」と告白しているからです (ローマ8:37)。

これは、将来の勝利の約束ではなく、苦しみのただ中で、「すでに圧倒的な勝利者とされている」という確信です。それは、「今、ここで」、私たちのために死んでよみがえってくださったキリストを身近に感じることができているからです。

信仰とは、自分で自分の心を励ますことではなく、さまざまな気持ちを、正直に神に訴えることです。イエスご自身の祈りの生活に関しても、「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことができる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そして、その敬虔のゆえに聞き入れられました」(ヘブル5:7) と描かれています。

もし神を遠く感じたとしても、同じように神を遠く感じた体験をお持ちのイエスご自身が私たちの内側で祈りを導いてくださっているということが分かるとき、まさに苦しみのただ中で、圧倒的な勝利者となっていることを体験できるのです。

不安や悲しみや怒りは、私たちのたましいを窒息させる方向に働きます。そのようなときこそ神に祈ることができればよいのですが、実際には多くの場合、祈る気力すら湧かなくなりがちです。人によっては、呼吸が浅くなり、過呼吸に陥ることさえあります。そこで何よりも大切なのは、息を吐くことです。それさえできたら、自然に必要な酸素は体内に入ってきます。

日本では、しばしば、「男は人前で泣いてはいけない……」などと言われ、強い人間は否定的な感情を抑えることができるべきだと訓練されます。しかし、強がっている人が、ふとしたきっかけで重いうつ状態になったり、ときには自分のいのちを絶つことさえあります。

それに比して、詩篇には、「女々しい」ともいえるような祈りが満ちています。それは、神が私たちの内側に押さえ込まれている否定的な感情を受け止めてくださるというしるしです。私たちは詩篇のことばに合わせて、息を十分に吐き出すことができるのです。

「神の前で子どもになる」

この詩篇44篇の著者は、最初に、先祖の時代には神が圧倒的な救いのみわざを示してくださったことを思い起こしながらも、今は、神ご自身が自分たちを苦しめていると訴えています。彼はそのことを、次のように神の不当な仕打ちを責めるかのように大胆に表現します。

ああ、しかしあなたは、私たちを拒絶し、辱めたのです……

まるで食用の羊のように私たちをおとしめ、

国々の中に散らしてしまわれました。

ただ同然にご自分の民を売り渡し、

何のみかえりも得られませんでした。(9–12節)

その上で、先の「起きてください……」という祈りが記され、最後は、「立ち上がって、私たちを助けてください。贖い出してください。あなたの慈愛(ヘセド)のゆえに。」という必死の嘆願として閉じられます。

子どもは、激しく泣きじゃくった後に、見違えるほどの笑顔を見せることがありますが、私たちも神の御前でそのような子どもになることが許されています。世界の歴史を変えたと言われる大伝道者パウロも、神に自分の気持ちを赤裸々に訴えながら、同時に、「私たちは圧倒的な勝利者となっている」と告白したのではないでしょうか。

「苦難のただ中に現れる神のみわざ」

神は私たちの嘆きを優しく受け止めてくださいます。そして神の愛は、私たちがほかの人の痛みを優しく受け止めるという行動の中に現されます。

今から百数十年前、ハンセン病の患者がハワイのモロカイ島という孤島に隔離されていました。 が単身でその島に乗り込んで以来、多くのカトリックのシスターたちが、そこで献身的な看病をするようになりました。そして、その島を訪ねた英国の文豪 は次のような詩を書きました。

この病の惨(いた)ましさを一目見れば、
愚かな人々は神の存在を否定しよう。
しかし、これを看護するシスターの姿を見れば、
愚かな人さえ、沈黙のうちに神を拝むであろう

今、日本は第二次大戦後最大の試練の中に置かれています。しかし、そのような中で自分のいのちを危険に曝しながら、放射能漏れと戦っておられるかたが、また、被災地において、献身的に人の痛みに寄り添っておられるかたがいます。

すべての人は、神のかたちに創造されました。だからこそ、私たちは互いに愛し合うことができます。逆説的になりますが、「神よ、どうして……」と共に嘆き合っているところに、神の愛が全うされているということがあります。

神の愛は、今、東日本大震災という舞台の上で、生きた人を通して現されようとしているのではないでしょうか。