失踪者情報〜詩篇53篇

3月2日火曜日に中年の男性が突然、当教会を訪ねて来られました。2月14日から行方が分からなくなった八王子市安町在住の23歳の大学生のお部屋に聖書と関連文書があったので、近隣の教会を一件、一件訪問しているとのことでした。その時は、お手持ちの文書を見て、息子さんは、正統的な教会には行っていないと思いますと申し上げて、お祈りしてお帰りいただいたのですが、ちょっと自分の対応が冷たかったように反省して、翌朝、再びお越しいただきました。

それはファイルに入っていた様々な文書から、どこかのカルト的な宗教団体に入り込んだ可能性が高いと感じたからで、その文書からどこの団体かを判断できるかもしれないと思ったからです。ファイルを何枚もコピーさせていただいて、その初めの文書を入力すると、不思議なほどの、次々と、聖書以外の古典的な文書が出てきました。翌日、改めてお父様にお電話し、このような聖書には含まれなかった古典的な文書がいくつもあったとお話ししました。

するとそこから、お父様のお友達が、ネットで「異端、カルト110番」というサイトを捜しました。その責任者の方がさっそく息子さんのお部屋に行き、さらに調査を続けてくださって、以下のような詳しい捜査情報をまとめてくださいました。その責任者も僕のことを知っていてくださるクリスチャンなので、これによってお父様も正統的なキリスト教会のネットワークを信頼してくださいました。

先ほどお父様にお電話しましたら、山の捜索はまだ続けるとのことで、息子を発見するまで岩手には帰ることはできないと言っておられました。

岩手で建設関係の事業を経営しているのですが、息子さんを捜し出すために、ここに張り付いておられます。

以下の情報は、拡散してくださいとのことです。お父様はどんな小さな情報でも良いから教えて欲しいとのことでした。

https://cult110.info/%e6%9c%aa%e5%88%86%e9%a1%9e/sasakikazunobu-htm/

ところで、聖書には一見、誤解を与える記述が多数あります。たとえば、詩篇14篇と53篇の両方で、「愚か者は心の中で『神はいない』と言う」と記されています。しかし、現実には、世の中に神の存在を否定する優秀な科学者はたくさんいます。このみことばは、神からの特別な啓示が与えられたイスラエルの民に向けて語られています。簡単に言うと、伝統的に読まれている聖書の啓示を否定して、神の存在を認めないイスラエル人は、「愚か者」であるという意味です。

ですから、詩篇が語る「愚か者」の対象には、伝統的な啓示の書を否定して、「これは今まで埋もれていた古典文書だけれど、ここにこそ隠された真実が書いてある」という教えを広める人も含まれます。

では、私たちはどのように正統の教えと異端を見分けるのかと言えば、ヨハネの手紙第一4章には次のように記されています。

愛する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん出てきたので、それらの霊が神からのものか吟味しなさい。神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です (Ⅰヨハネ4:1-3節)

ただこれに関しても、先の一伸さんが持っていたファイルには、人となったイエスを神の子と認めており、彼も聖書を通読していたことが分かっています。

ただ黙示録にこだわっていたことと、聖書やカトリックが認める外典などからもはずれた文書をきれいにファイルしていたということです。これはすべてネットで無料で手に入ります。

実は、人となったイエスを主と告白するとは、何よりも、この地上での日常生活を神から与えられたものとして、日々の務めを誠実に果たすことと切り離せないのです。日常生活を軽く見させる教えこそ、異端のしるしと言えましょう。

以下は、詩篇53篇の解説です。

この詩は詩篇14篇とほとんど同じことが記されています。ただ、14篇では主 (ヤハウェ) という神の名が四度記されているのに対して、ここではすべて神 (エロヒーム) という普通名詞が用いられていることです。それは42篇から83篇にほぼ共通します。

最初に、「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。彼らは腐っており、忌まわしい不正を行っている」と記されます。14篇とは違い、ここでは「不正」ということばが「忌まわしい」に付け加えられています。

なお、「愚か者」とはヘブル語でナバルと記されます (Ⅰサムエル25:25参照)。後にダビデの妻となったアビガイルは、愚かさのため自滅した夫のナバルに関して「あのよこしまな者」と呼びました。家来もナバルを避けていました。

彼は自分の羊の群れがダビデによって守られていたことを知ろうともせずに、ダビデの怒りを買いました。

「愚か者」とは、「知性が足りない」ことではなく、世界を自分の尺度で計り、見るべきものを見ようとしない「傲慢さ」を意味します。

使徒パウロはローマ人への手紙3章10-12節で、この1-3節を引用するようにしながら、「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」と記しています。

そこでの「義人はいない」という表現は、この詩の1節全体の要約とも言えましょう。「神はいない」と宣言すること自体が、神の怒りを買う罪であるからです。

なお、この2節では、「神は天から人の子らを見おろして……いるかどうかをご覧になった」と、神の観察の様子が描かれます。それをパウロは、「彼らが神を知ろうとしたがらない」(同1:28) ということの結果として予め記したのではないでしょうか。

つまり、この2節にあるように、「神を尋ね求め」ようと「意志しない」こと自体が、罪の始まりとされているのです。

そして、「不法を行う者ら」は、「パンを食らうように、わたしの民を食らい、神を呼び求めようとはしない」とその罪が指摘されます (4節)。彼らは民を搾取して、食い物にしている罪と、神を呼び求めないという罪が、並行しているという事実を「知らない」のです。

そして、この5節は14篇と決定的に違い、「彼らは恐れのないところで恐れる」と記されますが、それはレビ記26章36節では、神のさばきとして、「彼らの心の中におくびょうを送り込む、吹き散らされる木の葉の音にさえ彼らは追い立てられ……追いかける者もいないのに倒れる」と記されていることの成就とも言えましょう。

そして、その理由が、「それは神が、あなたに対して陣を張る者の骨をまき散らしたからだ」と記されます。ここでの「あなた」とは、神を恐れるこの詩の読者と言えましょう。

神は、ご自身を恐れ、礼拝する者の味方となり、敵に復讐をしてくださいます。その上で、「あなたは彼らをはずかしめた」と記されているのは、神を恐れる者の「幸い」を見る神の敵自身が、自分たちの「愚かさ」を認めざるを得なくなるということだと思われます。

多くの人々は自分を神とし、自分の尺度で現実を判断し、自分の力で問題を克服しようとします。しかし、神はそのような人に、「恐れ」の心を与えることによって、神を恐れるように招いておられます。私たちも神を恐れることの幸いを証ししましょう。


祈り

主よ、「神はいない」という愚かさから私たちを救い出してくださり感謝します。様々な「恐れ」に囚われている人々に、神を恐れることの幸いを証しさせてください。