ヨブ記2、3章「死を待ち望む絶望感に寄り沿う」

2020年12月27日

横田早紀江さんは、ある日突然、愛娘のめぐみさんを北朝鮮の工作員によって拉致されて、20年間もその原因が分からずにいました。そのよう中で、友人から聖書を送られ、ヨブ記を読むようにと勧められました。そこで彼女は、自分以上の苦しみに会った人のことが、神に特別に愛されていた人であることが分かって、不思議な気持ちになりました。

そして、彼女はヨブの気持ちに自分を重ねることで、祈ることができるようになりました。彼女は、そこで起きた変化を、「息がしやすくなった」と表現しています。

何度か自殺未遂を行った人が、「そのときはまさに頭の中に絶望感が満ち満ちていて、苦しくてたまらなくなっている、すべての理屈を乗り越えて、ただ、その苦しみから逃れること、また自分の思考を停止させることしか、考えられなくなっている」と言っていました。

そして、ヨブが「自分の生まれた日を呪った」(3:1) というときの気持ちもそうであったかと思います。しかしそのような絶望の中にある人も、このヨブ記のことばに合わせて、死を待ち望む思いさえも神に告白できるなら、神の前に呼吸がしやすくなるのかと思います。

祈り」とは神の前における呼吸に他なりません。ヨブ記では、彼の三人の友人たちは、最後に、神に関して「確かなことを語らなかった」(42:8) と厳しく非難されますが、彼らが七日七夜、地に座って一言も話さないまま寄り添っていたころまではよかったのかなと思います。ひょっとしたら、ヨブの嘆きは、彼らがヨブの痛みに寄り沿った結果として出てきたものかとも思わされます。

同じようにヨブの妻のことばも、サタンのことばのようでありながら、ヨブと同じ苦難を味わった者としての正直な気持ちとも言えます。意外に、ヨブの妻も三人の友人も、このヨブ記の中では、建徳的な役割を果たしているとも見ることができるかもしれません。

1.「おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく彼を呑み尽くそうとしたが」

2章1-3節は1章6-8節とほとんど同じ表現が繰り返されますが、先に「サタンもやって来て、彼らの中にいた」とサタンが御使いの中に混ざっていたような表現が、ここでは「サタンも彼らの中にやって来て、主 (ヤハウェ) の前に立った」と、サタンが主 (ヤハウェ) の前に立ったことが特に強調されます。

その上で1章7節と同じように、サタンが地を行き巡って、神の前に告発すべき人を探していたことが描かれます。なお、サタンとは、「告発する者」(詩篇109:6) とも訳されます。

ゼカリヤ3章1、2節には、大祭司ヨシュアの「右手に立って」、彼を訴えるサタンの姿と、それに対し、主ご自身がサタンを「とがめる」ようすが描かれています。

とにかくサタンの働きは、主 (ヤハウェ) にその人が「主の前に立つ」のに相応しくないと告発することにあります。

そして、不思議に3節では、 (ヤハウェ) がサタンに、1章1節、8節と同じ言葉を用いながら、「おまえは、わたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように誠実(完全)ですぐな心を持ち(まっすぐで)、神を恐れて悪から遠ざかっている者は、地上には一人もいない」とヨブが地上で最高の人格者であることを自慢するかのように言われます。

ただここでは、「彼はなお、自分の誠実(完全)さを堅く保っている。おまえは、わたしをそそのかして彼に敵対させ、理由もなく(無駄に)彼を呑み尽くそうとしたが」ということばが付け加えられています。これはまるで、主ご自身がサタンにそそのかされ、理由もなくヨブを滅ぼす敵対者にさせられたかのような表現と受け取られかねません。

しかし、ここでの「理由もなく」とは、1章9節で、サタンが「ヨブは理由もなく神を恐れているのでしょうか」と言ったときと同じことばですが、これは「無駄に」とか「不必要に」とも訳すことができます。

ですから、ここはサタンの計略が「無駄に」なり、期待した結果をもたらさなかったことを言ったにすぎません。神は、サタンの願ったとおりに動いたように見えましたが、ヨブが誠実を全うできることを知っておられたのです。神はサタンにそそのかされたかのように、見せかけていただけと言えましょう。

さらに2章4-6節でも1章10-12節とほとんど同じ会話が進みながら、先にはヨブに属するすべて財産も子どもを奪い取ることをサタンに任せたことに対し、ここではヨブの「いのち(たましい)には触れるな」と命じられています。

サタンは4節で、主 (ヤハウェ) に向かって、「皮の代わりは、皮をもってします。自分のいのち(たましい)の代わりには、人は財産すべてを与えるものです」と言います。ここでの「」とは、神がヨブの身体を財産という「」で覆っていたことを思い起こしながら (1:10)、人は自分のいのち(たましい)を守るもう一つの「」のためには、全財産をも賭けることができると言ったのだと思われます。

そして5節でサタンは、「しかしながら、あなたの手を伸ばして、彼の骨と肉とを打ってごらんなさい。彼は必ずや、あなたの顔に向かって呪うに違いありません」と神に提案します。ここでは1章11節の「彼のすべての財産(彼に属するすべてのもの)」の代わりに「彼の骨と肉」という表現を用いています。

そして6節で、何と主 (ヤハウェ) はサタンに、「では、彼をおまえの手に任せる。ただ、彼のいのち(たましい)には触れるな」と言われます。ここでも1章12節の「彼に属するすべてのもの」の代わりに彼をおまえの手に任せる」と言い、さらに「彼自身には手を伸ばしてはならない」の代わりに「ただ、彼のいのちには触れるな(たましいだけは守れ)」と命じられます。

つまり、どちらにしても、ヨブの生活は再び、神の御許しの中で、不条理にもサタンの「手に任せ」られてしまうのです。これほど理不尽なことはないとも思えます。これは、現代的には、神の御許しの中で、新型コロナウィルスの感染を受け、集中治療室に入れられるような重症化に耐えながら、ただ最後のこの肉体的ないのちだけは守られるようなものです。

当時は現在のように痛みを徹底的にコントロールする麻酔薬などはありませんでしたから、ヨブは自ら死を望むほどの苦しみにまで追いやられることになります。

2.「三人の友は、ヨブとともに七日七夜、地に座っていた」

2章7節では、「サタンは主 (ヤハウェ) の御前から出て行き、ヨブを悪性の種物で打った、足の裏から頭の頂まで」と記されます。なお申命記28章35節では、同じ表現で、主の御声に従わない者に対するさばきが、主はあなたの膝とももを悪性の種物で打たれ、あなたは癒されることがない。それは足の裏から頭の頂にまで及ぶ」と描かれます。

しかし、ここでは何の罪もないヨブに、「 (ヤハウェ) の前に」立っていたサタンが、神の御許しを受けて、彼の全身を悪性の種物で打ったと描かれています。

この「悪性の種物」の病名は不明ですが、8節で「ヨブは土器のかけらを取り、それでからだをひっかいた」と描かれていることから、激しい痒みをもたらす皮膚の病だと思われます。先にサタンが「皮の代わりは皮をもってします」と言ったことの関係で、ヨブの皮膚にサタンの攻撃が加えられたのだと思われます。

なお、この8節の終わりは、「その間、彼は灰の中に座っていながら」とも訳すことができます。「灰の中に座る」とは徹底的な悲しみの表現です。彼は自分に突然訪れたありとあらゆる悲惨に、ただ深い悲しみとともに泣くことしかできません。

そのような中で、ヨブの妻は、「あなたはそれでも自分の誠実さを堅く保とうとしているのですか(まだ完全さに固執しようとするのですか)。神を呪って死になさい」と驚くべきことを言います。これは悪女のつぶやきの典型とも解釈できますが、ヨブの妻は、彼と同じようにすべての財産や家族を失い、また今は、自分の夫が恐ろしい病にかかっているのを傍らで見ていながら、ヨブがなお誠実さを保とうとしていることにやるせない気持ちを味わっていたのかと思います。

しかも、彼女は、直感的に「この病の原因は神にある」と悟っているのです。恐ろしい洞察力と言えましょう。そればかりか、今のヨブの状況は、長生きすればするほど苦しみが増し加わりますから、神に別れを告げて、すべてを終わらせた方が楽にも思えます。

これは人間的には極めて合理的な応答です。ヨブの妻は、夫の気持ちを汲み取ってこのように言ったのかもしれません。しかし、神を呪う」ことこそ、サタンがヨブに苦難を与えた目的でした。その意味でヨブの妻の反応こそ、サタンが何よりも望んでいたことです。サタンの誘惑は、意外に私たちにとって身近な感覚と言えましょう。

しかし、ヨブは、妻のこのことばを聞いて、サタンがどのように自分たちの心にささやきかけるかに気付いたのかもしれません。彼は妻に、「あなたは、どこかの愚かな女が言うようなことを言っている。私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けるべきではないか」と言います (2:10)。

ここでヨブは妻を嘲っているようでありながら、「おまえはその愚かな女の一人ではないよね」と念を押すように言いながら、同時に「私たち」ということばを用いて、「幸い」も「わざわい」も妻と一体の者として体験しているということを告白しています。まさに、ヨブの妻は悪女のようでありながら、サタンのささやきをヨブに気づかせ、またヨブの愛のことばを引き出した大切な存在ともいえるかもしれません。

とにかくこれらの結論として、「ヨブはこのすべてのことにおいても、唇によって罪に陥ることはなかった」(2:10)と描かれます。これは彼が「神を呪い」はしなかったという意味です。「面と向かって神を呪う」(1:11、2:5) ように惑わすことこそ、サタンの目的でした。

そこでヨブの三人の友人が登場します。彼らは「ヨブに降りかかったこれらすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分のところから訪ねてきた」(2:11) と描かれます。その三人とは、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダテ、ナアマ人ツォファルであると、それぞれの出生地と名が記されます。

テマンとはエサウの孫、エドム人の祖先の名で、その知恵によって有名な地域です。シュアハ人とはアブラハムが晩年に迎えた妻ケトラの子でアラビアまたはエドムに住んだ民だと思われます。ナアマ人とはカインの子孫のトバル・カインの娘の名に由来し (創世記4:22)、シェバの女王と同じ出身地だとも言われます。

とにかく「彼らは互いに打ち合わせて来た」と記され、その目的が「ヨブに同情し、慰めるため」と描かれます。ここにこの三人も互いに友人の関係のうちにあり、純粋にヨブの痛みに同情し、慰めるために来たことが分かります。

後にヨブは、彼らに「私の言い分をよく聞いてくれ。それを、あなたがたから私への慰めとしてくれ」(21:2) と不満を述べるように変わりますが、この三人がヨブを訪ねてきた初期の動機は、まさに友として相応しいものでした。

さらに、彼らの反応が2章12節で、「彼らは遠くから目を上げて彼を見たが、それがヨブであることが見分けられなかった」とまず描かれます。それほどにヨブを襲った悪性の種物は重症だったのです。

それを見て「彼らは声をあげて泣き、それぞれ自分の上着を引き裂き、ちりを天に向かって投げ、自分の頭の上にまき散らした」と、ヨブの悲しみ痛みを自分自身のことかのように嘆き、悲しんだ姿が描かれます。

そして13節では、「彼らは彼とともに七日七夜、地に座っていたが、だれも一言も彼に話かけなかった。彼の痛みが非常に激しいのを見たからである」と描かれます。かつて、ヨセフは父ヤコブのために七日間葬儀を行ったという記述があるように (創世記50:1)、七日間とは、徹底的な悲しみを表す期間です。

また預言者エゼキエルは、エルサレムを襲う神のさばきを聞いて、「七日間、茫然として彼らの中に座っていた」(3:15) とも描かれているように、ことばにならない悲しみを完全に味わったという意味になります。しかもここでは、七日七夜」と記されるように、寝ることもできないほどにヨブの痛みに共感した姿が描かれます。

そしてここでは、「だれも一言も彼に話しかけなかった」と記されます。もし彼らが、その沈黙のままヨブに寄り添っていたとしたら、神の怒りを買うことはなかったことでしょうし、ヨブも彼らに反論して神への激しい訴えのことばを口にする必要もなかったことでしょう。三人の態度は、ここまでは模範的だったのです。

3.「苦悩する者、心の痛んだ者は……死を待ち望む」

3章1節では、「そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った」と描かれます。ここでは厳密には、「自分の日を呪った」とのみ記され、「生まれた」ということばは追加ですが、それは続く文脈から明らかになることでもあります。

そして3節でヨブは、「私が生まれた日は滅び失せよ。また『男の子が宿った』と言われたその夜も」と述べます。まさに彼は自分の生まれた日も夜も呪ったのです。

さらに4節では、「その日は闇になれ、神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな」と記され、自分の誕生の日が存在しなかった方が良かったという不思議なことを述べます。

そして5、6節は「その日は闇と死の陰に贖われ、雲に覆われ、日を暗くするものに脅かされていたらよかったのに。その夜は暗闇に捕らえられ、年の日々のうちで喜ばれることも、月の日数に数えられることもなかったらよかったのに」と訳すこともでき、9節の終わりまで、「こうであったらよかったのに……」という非現実的な願望を述べた表現になっています。

さらに8節では、「日を呪う者たちが、その日に呪いをかけるように、それはレビヤタンを巧みに呼び起こす者たちである」などと、海の恐ろしい怪獣を呼び起こすような呪いをかける者が、ヨブの誕生の日に呪いをかけて、誕生を阻止してくれればよかったのに、というあり得ない願望として描かれます。

さらに9、10節では「その夜明けの星は暗くなれ……その日が、私をはらんだ胎の戸を閉ざさなかったから」と記されます。本来、誕生の瞬間は、夜明けの星が輝く喜びの瞬間なのですが、その星が暗くなることを望みながら、「胎の戸」が閉ざされずに自分が生まれたことが不幸の始まりだと嘆いているのです。

これは、ヨブが現在の激しい痛みのゆえに、「生まれてこない方が良かった」と心から嘆いているという意味です。たとえばイエスは、イスカリオテのユダの裏切りを予告した際、「人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は生まれて来なければよかったのです」(マタイ26:24) と言われました。

ヨブが自分の誕生の日を呪った意味はまったく違いますが、生まれて来なければよかったと思ったということでは同じです。

3章11-19節の文章は、11節初めの「なぜ」という問いにすべてかかってきます。最初は、「なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか」と問いながら、自分が母の乳房を吸うこともなく、生まれてすぐに死んでいればよかったと嘆きます。

興味深いのは、死後の世界について「今ごろ私は安らか(静かに)に横になり、眠って安らいでいた(休んでいた)だろうに」と描かれていることです。これはヨブが今、生きていること自体が苦痛であることとの対比で、「死んでしまっていたら、そのような苦痛がないはず……」という期待を述べたことばにすぎません。

私たちは死後の世界に関しては限られた情報しか得ていません。ヨブはここで聖霊の導きで死後の世界を知ったというよりは、単に「彼の骨と肉が打たれる」(2:5) という苦痛から自由になっている状態と期待したという意味です。

しかもそこでは、「自分たちのためにあの廃墟を築いた王たちや地の指導者たち」という、地上での失敗者としての権力者たち、さらにその反対に豊かな富を築いたこの世の成功者の「首長たち」も、同じように静かな休息のうちにあると述べられます。

さらに3章16節では、ヨブは11節の「なぜ」を受けて、「(なぜ)私は、ひそかに堕ろされた死産の子、光を見なかった嬰児のようにならなかったのか」と言いながら、ここでも生きて生まれたことを嘆いています。

そればかりか、17、18節では死後の世界が「かしこでは」と描かれながら、「悪しき者は荒れ狂うのをやめ……力の萎えた者も憩い、捕らわれ人たちもみな、ともに安らかで、激しく追い立てる者の声も聞こえない」と描かれます。

これはこの世の権力者と迫害される者に何の区別もない「休息のとき」が与えられるという願望です。さらにそのことが19節では「かしこでは、下の者(小さい者)も上の者(偉大な者)も同じで、奴隷も主人から解き放たれている」と身分の区別や奴隷も隷属状態から解放されていると描かれます。

これは死後のさばきを否定しているようにも思えますが、聖書では主の前でのさばきは、死んだ後すぐにではなく、新しい身体によみがえる復活の後として描かれています。

死んだ直後の世界は、深い眠りと同じ状態になりながら、同時に意識も明確にあるという不思議な状態かと思われます。それは新約においてはパラダイスとハデスという区別になると思われます。

ただ最終的なさばきは、ダニエル書に12章2節にあるように、「ちりの大地の中に眠っている者のうち、多くの者が目を覚ます。ある者は永遠のいのちに、ある者は恥辱と、永遠の嫌悪に」というようにキリストの再臨の際の私たちの復活後に行われるものです。

そして3章20-26節には、さらにヨブが死を恋い焦がれる気持ちが描かれます。ここでも20節の「なぜ」が26節までの文章を支配します。まず「なぜ、苦悩する者に光が与えられるのか、心の痛んだ者にいのちが……」と問われます。それは「」や「いのち」が、苦しみを増し加える舞台になっているからです。

だからこそ、そこで苦悩する者、心の痛んだ者は「死を待ち望む」(21節) のです。ただし、願ったようには「死はやって来ない」のです。さらに彼らは「隠された宝にまさって死を探し求める」と記されます。

そして皮肉にも、彼らは「墓を見出したときに、歓声を上げて喜び楽しむ」と言われます。さらに23節では20節からの流れを受け、「自分の道が隠されている人、神が囲いに閉じ込めた人」という表現を用いて、「なぜ彼らに光が、またいのちが与えられるのか」という問いかけがなされます。これは、1章10節で、サタンが神に「あなたは垣を巡らされたではありませんか、彼の周りに……」と言ったことに対応し、ここでは神がヨブを出口の見えない苦難の囲みに閉じ込めたと訴えているのです。

そして24、25節では、「まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかったからだ」と、「おびえ」と「恐れ」に圧倒されているようすが描かれます。

そして24節では、自分に「安らぎ」も「休み」も「憩い」もなく、すべてが「混乱している」ことが最後に強調されています。まさに、これらの箇所では、早く死んでしまいたいという気持ちが切々と述べられるのです。

イエスが飼い葉桶に生まれた意味を、福音記者ルカは、「宿屋には彼らのいる場所がなかったからである」と記しています。ヨブはまるで神とサタンとの取りに引きの中で、この想像を絶する苦難の中に置かれ、自分の「死を待ち望む」とまで言いました。

生きることが苦痛でしかないと思える人は、この世界に本当に多くいます。しかし、神は傍観者的にヨブに苦しみを与えて、サタンに対する勝利を宣言しようとしておられたのではありません。神は何とご自身のひとり子イエスを、ヨブよりもさらに苦しい立場に置かれたのです。

そこでは神ご自身も苦しんでおられました。ですから神は、ヨブが早く死んでしまいたいと願ったその気持ちにも寄り添っておられたのではないでしょうか。目の前の人の呼吸を助け、「どう祈ったらよいかわからない」という中で、御霊ご自身の「ことばにならないうめき」による「とりなし」が起きるからです (ローマ8:26)。