マタイ12章15-32節「神の御霊によって、もう神の国は来ている」

2020年9月13日

イエスの時代の多くの人々が期待していた救いとは、「国々よ、御民のために喜び歌え。主がご自分のしもべの血に報復し、ご自分の敵に復讐を遂げて、ご自分の民とその地のために宥めを行われる」(申命記32:43) というようなものでした。それはしばしば、神がローマ帝国に復讐し、ダビデ王国を再建するというように理解されました。

しかし一方で、イザヤ40章~55章に描かれた「 (ヤハウェ) のしもべ」としての「救い主」の姿は「蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた」(53:3) という意外な姿でした。いつの時代も、人々は目の前の問題の速やかな解決ばかりを願います。それはたとえば、最低賃金を急速に引き上げた結果、失業者が急増するとか。新型コロナウィルスの感染を徹底的に封じ込めようとして感染の疑いのある人の人権を侵害するなどということにつながります。

しかし、イエスはローマ帝国の支配を否定することなく、人々の目の前に「神の国」を広げて行かれました。問題を抱えたままの私たちが、今ここで神の国の到来を喜び、シャローム(平和、繁栄)の完成を先取りして生きることができます。

1.「傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」

12章15節は、「イエスはそれを知って、そこを立ち去られた」とまず描かれます。これは先に、イエスが敢えて「安息日」に緊急的な必要のない「片手の萎えた人」(12:10) を堂々と癒して、パリサイ人たちの律法解釈を真っ向から否定したことで、彼らが「どうやってイエスを殺そうかと相談し始めた」(12:14) ということを、イエスが「知って」、反対者がいるところから「立ち去られた」という事態を指します。

そこで続けて、「すると大勢の群衆がついてきた。それで、彼らをみな癒された」と描かれます。マルコ3章7-9節の並行記事によると、この際、ガリラヤばかりか異邦人の地と見られる幅広い地域からイエスのもとに人々が集まってきました。そしてイエスは一人ひとりの必要に親身に応えておられました。

ただ、イエスは「ご自分のことを人々に知らせないようにと、彼らを戒められた」(12:16) と記されますが、この「戒める」とは「強く警告する」という非常に厳しい表現です。それは当時の人々が抱く「救い主」のイメージ、ローマ帝国の支配からの解放する戦いに指導者のような姿が独り歩きすることを強く懸念していたからだと思われます。

そしてイエスが示そうとした「救い主」の姿はイザヤ42章1-4節に記されていた預言を成就するものでしたので、その引用がここに記されます。それはギリシャ語七十人訳からの引用ではなく、基本的にヘブル語聖書をマタイが翻訳したものだと思われます。なおヘブル語からの直訳は次のようになります。

見よ。わたしのしもべ、わたしがささえる者を
わたしが選んだ、わたしの心が喜ぶ者を。(1)
彼の上にわたしの霊を授け
彼は国々にさばきをもたらす。
彼は叫ばず、声をあげず
ちまたにその声を聞かせない。(2)
傷んだ葦を折ることもなく
衰えゆく燈心を消すこともない。(3)
彼はまことをもってさばきをもたらす。
衰えることも、傷つき果てることもない。(4)
地の上にさばきを確立するまでは。
島々もそのおしえを待ち望んでいる。

最初にイエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられたとき、「神の御霊が鳩のように……降って……天から声があり、こう告げられた。『これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ』」と記されていたのは最初の三行目までの預言の成就であることは明らかです。

ヘブル語で続くことばは「彼は国々にさばきをもたらす」ですが、以前の訳では、「国々に公義をもたらす」と訳されていました。ヘブル語で「さばき」と訳されることばは「公正な支配」を意味しますから、もとの訳の方が良いようにも思えますが、それ以上に私たちは聖書が示す「さばき」の意味の原点に立ち返る必要がありましょう。

神の「さばき」とは悪人を地獄に落とすというようなこと以前に、この地に神の公正な支配を実現することですから、私たちはまず日本語の「さばき」ということばの豊かさに帰る必要があります。そこには「魚をさばく」「大岡さばき」というような用法があるのと同じです。従来の神学的な偏りから自由にされて聖書を読む必要があります。

しかもこのマタイでは、「さばきを告げる」と記され、父なる神の公正な支配の実現を「知らせる」という面が強調され、その方法が「彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない」という穏やかなものであったという面がヘブル語原文以上に強調されています。

傷んだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(12:20) とは七十人訳もヘブル語も全く同じです。「」という植物はどこにであるものですから、傷んだ葦は折って捨て去るのが当然と見え、またくすぶる衰えゆく)燈心も消して交換する方が効率的ですが、救い主は、この世から見捨てられるような者を惜しんでくださるというのです。

なお、マタイは「さばきを勝利に導くまで」と訳していますが、この部分は七十人訳でもヘブル語でも、「彼はまことをもってさばきをもたらす。衰えることも、傷つき果てることもない。地の上にさばきを確立するまではと記されたことを簡略化した表現です。

そこに「さばき」ということばが重なって記されますが、福音書ではこれからイエスがくすぶる灯心のように「衰え」、傷んだ葦のように「傷つき果てる」姿、忌まわしい十字架に物語が展開します。それでここでは、そのような救い主の苦難が、実は、神の「さばき(公正な支配)」を「勝利に導く」というプロセスであるという意味をより明確に表現しようとしたものと言えましょう。

そして、最後にヘブル語の直訳では「島々」と記されたことばが、当時の人により分かりやすいように「異邦人」と訳されています。それによって、「救い主」が「異邦人」にも希望を与えることが強調されます。

イエスはまさにイザヤ42章に預言された「 (ヤハウェ) のしもべ」でした。この主のしもべの歌は42章9節まで続くものです。さらにこの歌はイザヤ49章1-13節、50章4-9節でさらに展開され、52章13節~53章12節において最も知られる形へと展開されます。

そこに共通するのは、人々が期待する「救い主」とは正反対の苦難のしもべの姿でした。イエスは人々にご自分の癒しのみわざばかりを宣伝しないように戒めながら、人々の心をイザヤの預言に向けようとされたのではないでしょうか。なお、この箇所はマタイによる福音書の中では最も長い旧約聖書からの引用です。イザヤ預言から救い主を知ることが大切です。

2.「もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」

12章22節では、「そのとき、悪霊につかれた人が連れて来られた、それは目が見えず、口もきけない人であった。イエスは彼を癒された。それでその耳の聞こえない者は話し、見えるようになった」と記されます。ここでは悪霊の働きで、聾唖と盲目という複合的な障害を抱えた方が瞬時に癒されたという劇的なことが簡潔に記されています。

そして、それに対する人々の驚きが、「もしかすると、この人がダビデの子なのではないだろうか」という声として現れました。

なお、イザヤ35章では、「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる……彼らは主 (ヤハウェ) の栄光、私たちの神の威光を見る……神は来て、あなたがたを救われる。そのとき、目の見えない者の目は開かれ、耳の聞こえない者の耳は開かれる。そのとき、足の萎えた者は鹿のように飛び跳ね、口のきけない者の舌は喜び歌う」(1-6節) と描かれていました。

ここではそこに記された「目が見えず、耳が聞こえず、口もきけない」という三重苦がたちどころに癒されたのですから、当時の人々は、「あなたの神が王となられた……主 (ヤハウェ) がシオンに戻られた」(イザヤ52:7、8) という預言の成就として見たのでしょう。

そして(ヤハウェ) がエルサレム神殿に戻られることと、ダビデの子が救い主として現れることは当時の人々にとってセットで実現することと思われました。

ただ、当時のパリサイ人にとって、「ダビデの子」の現れは、ローマ帝国からの独立戦争の始まりとも思えました。彼らはローマ帝国の支配を憎みながらも、独立戦争による混乱は避けるべきであるという現実主義者でしたから、人々の心がイエスになびいて、それが暴動に発展するような事態になることを避けようと必死になりました。

それで彼らは、「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼベルによることだ」(12:24) という苦肉の解釈を思いついて発言しました。まさに、信じたいという心のない人には、信じないためのあらゆる理屈が成り立つことの実例でしょう。

しかし、それにしても彼らのことばは余りにも実質のないものなので、そのことがイエスは「彼らの思い(アイデア)を知って、言われ」ということばに含まれます。彼らは「サタンの国」を甘く見過ぎています。

そのことをイエスは、「どんな国でも分裂して争えば荒れすたれ、どんな町でも家でも分裂して争えば立ち行きません。もし、サタンがサタンを追い出しているなら、仲間割れしたことになります。それなら、どのようにしてその国は立ち行くのですか」(12:25、26) と言われます。

イエスがここで、「サタンがサタンを追い出しているなら」と言われたことは注目すべきです。それは、悪霊はサタンと一体で、サタンに従属しているので、サタンの力で悪霊を追い出すとは、サタンがサタンを追い出すという矛盾だと述べたことです。

つまり、悪霊どもの頭によって悪霊を追い出すという論理が、「サタンの国」を全く理解していないことであるということを示したと言えます。

イエスはさらに彼らの矛盾をついて、「もし、このわたしが、ベルゼブルによって悪霊どもを追い出しているとしたら、あなたがたの子らは誰によって追い出しているのですか。そういうわけでは、彼らがあながたの審判者となります」と言われます (12:27)。

ここでの「あなたがたの子ら」とは当時の宗教指導者の弟子たちを指しますが、今から二千年前の医療では宗教指導者が自分の弟子たちを使って悪霊追い出しを行って人々を癒すということが頻繁に行われていたようです。

ですから、パリサイ人は「ベルゼブルによって悪霊どもを追い出すことができる」と言うことによって、弟子たちも悪霊の親分に頼っているという理屈を作り出すことになってしまい、彼らの弟子たちが彼らの審判者となるという皮肉を述べたのです。

その上でイエスは、「もし、神の御霊によって、このわたしが悪霊どもを追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところに来ているのです」(12:28) と驚くべきことを言われました。

これは先にイザヤ35章、52章7、8節の引用をしたように、離れておられた神が再びイスラエルの王としての支配を始められたという意味で、神の国がイエスにおいて到来したことを意味します。まさにイエスは、これを「神の国」の預言の成就という聖書全体の救いのストーリーの中で理解することの必要性を説かれたのです。

イエスの癒しのみわざは、イザヤ書が預言している「神の国(支配)」の到来という預言の成就でした。私たちはイエスによる圧倒的な癒しのみわざを見ながら、「ほんとうにそれが起きたというのなら、どうして今、私たちはコロナを初めとする様々な災いにおびえる必要があるのだろうか……。実はイエスは、奇跡など起こしはしなかったのではないか……」などと疑問を持つことがあるかもしれません。

しかし、天地万物を無から創造された神を信じるとは、ことば一つで光が創造されたことを信じることであり、神の御子にそれができないと考える方が愚かとは言えないでしょうか。

しかも、イエスのみわざはすべて神の御支配の現れを預言したイザヤのことばの成就であるのですから、それが文字通り起きることなしにイエスを救い主として見ることができないということも事実です。

そして、私たちは今、「神の国(神の御支配)」はイエスの十字架と復活によってこの私たちの間に実現していると信じています。それは、このコロナの蔓延も神の御支配の中で起きていると信じることであり、神はこのすべての問題をご自身のときに完全に収束させてくださると信じることです。

私たちが待ち望むシャロームとは、戦争がない状態という以前に、何の欠けもない完全な世界がこの地に満ちるということを意味します。私たちはその完成の途上に置かれています。

3.「聖霊に逆らうことを言う者は赦されることはありません」

その上でイエスは、サタンの国との戦いをイメージしながら敢えて、当時の人々に身近な乱暴なことばを用いながら、「どうしてできるでしょうか、誰かが強い者の家に入ることが、またその家から家財を奪い取ることが、もし最初に強い者を縛り上げることがなければ。そうして初めてその家を略奪するのです」(12:29) と言います。

ここでの「家財を奪い取る」とか「家を略奪する」というのは激しい表現ですが、サタンの家の家財の一部または奴隷とされている人々を解放する戦いと理解するなら意味が理解できます。そのためにはまず、「強い者を縛り上げる」必要があります。それはサタンとの全面対決に他なりません。

イエスがバプテスマを受けて公生涯に入られた初めに、「四十日四十夜、断食をし」、「悪魔の試みを受け」たという記事があります (4:1-11)。その第一は、パンまたはこの世の富に関する誘惑、第二は、人々の歓心を得られる働きへの誘惑、第三はこの世の権力を手にする誘惑でした。お金と評判と権力の誘惑に縛られている人は、サタンの奴隷になっているとも言えます。

それは私たちにとって極めて現実的な身近な誘惑であり、サタンとの戦いはまさに、毎日の仕事の中で体験せざるをえません。

そして、そのような戦いにおいては、中立はありえないという意味で、イエスは「わたしと共にいない者は、わたしに逆らう者であり、わたしとともに集めない者は、散らしているのです」(12:30) と言われます。ここで問われているのは、どれだけイエスに信頼しているかということ以前に、あなたがイエスの側についているか、どうかが問われているということです。

なお、ルカ9章49、50節では、イエスに従おうとする立場を明確にしないままイエスの御名によって悪霊を追い出している人がいたときに、弟子たちはそれをやめさせようとしたことに対し、イエスは、「やめさせてはいけません。あなたがたに反対しない人は、あなたがたの味方です」と言われたという記事があります。

それは、「誰がイエスの側についているか」ということが明確でない場合の判断基準になります。それは、私たちの信仰に反対しない人は。イエスの側についているとさえ言うことができることを指しています。ですから、あなたの信仰を応援しているご家族の方は、明確な信仰告白に至っていなくても、イエスとともにいる仲間と見ることができるでしょう。

たださらに、「わたしとともに集めない者は、散らしているのです」ということばも、イエスの側につくということの適用例として理解できます。たとえば、あなたの家族が、あなたのパソコン操作を手伝って、あなたの伝道の働きを応援しているとしたら、その人は「イエスの側について、ともに集めている人」と見ることができます。

実はイエスは、私たちが思い描く信者か未信者かという区別よりもずっと広い見方をしておられる方なのです。

ただし、続けてイエスは、「ですから、わたしはあなたがたに言います」と注意を促しながら、すべての罪も冒涜も、人のために赦されます。しかし、御霊に対する冒涜は赦されません。また、たとい人の子に逆らうことばを言ったとしても赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は赦されることはありません、この世でも、後に来る世でも」と言われました (12:31、32)。

私たちはまず、すべての罪も冒涜も神は人の弱さを知っているので赦していただくことができること、たとい人の子として現れたイエスに逆らうことばを言ったとしても赦していただけるという福音を心の底から味わう必要があります。

たとえばレビ記24章16節には「 (ヤハウェ) の御名を汚す者は必ず殺されなければならない」と記され、その直後には、神をののしった者が宿営の外に連れ出されて、石打ちの刑によって殺されました (同24:23)。

レビ記に記された「罪のきよめのささげ物は」は「気づかずに罪に陥り、その一つでも行ってしまった」ような場合には有効ですが、意図的に犯した罪の赦しの道はありませんでした。

ヘブル10章28、29節では、「モーセの律法を拒否する者は、あわれみを受けることなく、二人または三人の証言に基づいて、死ぬことになります。まして、いかに重い処罰に値するかがわかるでしょう、神の御子を踏みつけ、自分を聖なるものとした契約の血を汚れた (common:普通の)ものと見なし、恵みの御霊を侮る者は」と記されています (私訳)。

なお、イエスは「人の子に逆らうことばを言ったとしても赦されます」と言われたのですから、ここでの「神の御子を踏みつけ」ということばをあまりにも広く解釈してはなりません。とにかくキリストにある罪の赦しの可能性は驚くほど広いものです。

ダビデが家来の妻を奪ったあげく、その家来を戦いの前線に残してだまし討ちにしたような意図的な罪まで赦されたという現実がありますが、それはキリストにある罪の赦しを先取りしたものです。

ただ、イエスはここで「御霊に対する冒涜は赦されません……聖霊に逆らうことを言う者は赦されることはありません」と述べておられます。これは先のヘブル書との関係でも明らかなように、「自分を聖なるものとした契約の血」を軽んじることと同じです。

つまり、聖霊に逆らうとは、神が差し出した赦しの道への戸を自分で閉じてしまうことに他なりません。ですから、「御霊に対する冒涜」をあまり広く捉える必要はありません。これは自分が救われる必要があることを拒絶することだからです。

ただし、そのように考えるとあなたの家族も、福音を聞いていながら、それを拒絶しているとしたら、それが「御霊に対する冒涜」になり得ます。ときに私たちは、家族に回心を強く迫りすぎることで、かえって相手に「聖霊に逆らうことを」言わせる可能性もあるのですから、信仰告白は神のタイミングに任せて、家族や友人を教会の応援者の立場に置くこと、キリストの味方と見られる立場に置いておくこと自体が恵みであることを忘れてはなりません。

つまり、家族の救いの可能性を閉ざさせず、広く開けておくということがいかに大切であるかが分かります。

私たちが何よりも気を付けるべきことは、聖霊の働きに心を閉ざすことがないようにすることです。使徒パウロは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい」という勧めに続いて、「御霊を消してはなりません」と命じました (Ⅰテサロニケ5:16-19)。

ここでの「消す」とは、主のしもべが「くすぶる(衰えゆく)灯心を消すこともな」と言われる場合と同じことばです。私たちは自分の願望に縛られた強力な意思によって、かすかな聖霊の導きの声を窒息させてしまうことがあります。

自分の願望ではなく神のみこころの実現のために、心を開ことが何よりも大切です。そのとき私たちは、目の前に様々な問題を抱えたままで、「神の国」が今ここに広がっていることを発見し、喜ぶことができることでしょう。