コロナショックによる不況下で、多くの人は明日の生活に不安を覚えています。しかし、聖書にはこの世界の始まりと目的地の両方が記され、私たちの心の目を近視眼的な視点から解放してくれます。「初めに、神が天と地を創造した……」以降の記事は、創造主の偉大さを指し示し、多くの人々の人生観を変え続けてきました。
それに対応するように、世界のゴールは「私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない……」(黙示録21:1) と記されます。それはイザヤ書65章17節で預言されていたことを基にして記されています。そこでは主ご自身が、「見よ。わたしは新しい天と新しい地を創造する。先のことは思い出されず、心に上ることもない。だから、わたしが創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ」と語っておられます。
そこには弱肉強食の争いがすべて過ぎ去った、神の平和 (シャローム) が支配する世界です。私たちはこの世界がどのように始まり、どこに向かっているのかを理解するときに本当の意味で「いのち」を燃焼させることができます。
たとえば、創世記一章の解釈でも、十人の学者が集まると十通りの解釈が生まれると言われますが、2006年に出版されたモーセ五書解説の拙著「主があなたがたを恋い慕って」は、創造科学の主催者からも、この世の科学との調和を重んじる方々の両方から、ほぼ完全に同意できると評価をいただくことができました。
またこの世界の終わりへのプロセスでも、特に千年王国の解釈を巡って驚くほど多様な解釈がありますが、この世界のゴールが、神の平和が支配する「新しい天と新しい地」にあることは、すべての福音的な信仰者が一致できます。
私たちはそのように互いに受け入れ合うことができる大枠から聖書を読む時に、様々な恐れや不安から自由にされ、愛に満ちた神の救いのご計画に目を向け、世界の荒波に向かって出て行く勇気を持つことができます。
1.「初めに、神が天と地を創造した……」
「初めに、神が天と地を創造した」(1:1) での、「神 (エロヒーム)」とは、すべての神々を呼ぶときに使われる普通名詞です。当時の世界では、創造主という概念が忘れられていたので、「神々」を表わすのと同じことばで創造主ご自身を紹介せざるを得なかったのでしょう。
それは簡単に言うと、世には様々な神々がいるが、この方は、他の神々のように、生まれ出た神ではなく、時間空間すべての創造主であるということです。聖書は、唯一の神によって世界が創造されたということを記した最古の書物です。そしてこれが記された目的は、創造主を忘れた人々に、この世界が「神」の最高傑作であることを知らせ、創造主を礼拝できるように招くことです。
なお、「天と地」とはセットで全世界という意味です。古来、人間は自然の力を恐れて生き、そこから偶像礼拝が生まれましたが、私たちはこの全世界を創造された神だけを恐れて生きれば良いということがこの記事から理解されます。
「地は茫漠として何もなかった」(1:2) とは、最初の世界の状態の記述です。ユダヤ人の間で広く用いられている英語訳 (Jewish Publication society :Tanaka Translation) では、1-3節が一つの文章で、「When God began to create heaven and earth – the earth being unformed and void, with darkness over the surface of the deep and a wind from God sweeping over the water – God said, “Let there be light” and there was light」(神が天と地を創造し始められた時、地は形なく空しく、闇が大水の上にあり、神の息が水の上を動いていたのだが、神が『光があれ』と仰せられると、光があった)」と記されています。
つまり、原語では、「無からの創造」という概念は表現されておらず、最初の「地」は、私たちが知っているような地ではなかったということを経験的な普通のことばで述べているだけです。
たとえば、数学で、ゼロの概念の発見がいかに画期的なことだったかと言われることがありますが、それならば、当時の人々に、「無からの創造」という概念を説明することはできなかったことでしょう。それよりも、「生命が存在できないと思えるような茫漠とした地に、植物が生え、鳥が飛び……」という変化を知らせるほうが、神の創造のみわざの偉大さを明確に紹介することになったと思われます。
聖書は実際に起こったことを記述してはいますが、そこで用いられている言語は、三千年前の人々が理解できるものという限界があったことを忘れてはなりません。現代の自然科学との調和を考える以前に、大切なのは、神がこの記事を通して何を語ろうとしておられるのかという大枠を理解することです。
しかも、神による創造のみわざは何よりも、「光」の創造から始まっていることが強調されています。そのため、その原初の状態が、「闇が大水の面(おもて)の上にあり……」(1:2) と描かれます。
しかし同時にそこでは、「神の霊(息)がその水の面を動いていた」と説明されます。つまり、目に見える現実は、不毛な「闇」に包まれた世界なのですが、その上を「いのち」の源である「神の霊」が動いていたというのです。その意味で、ここには「これから偉大なことが始まる」という希望が満ちています。
そしてその上で、「神は仰せられた」と、おことばひとつで、「光」が創造されます。これこそが最初の創造のみわざです。その後も、「神は仰せられた」という表現で、新しい日が始まり、そのたびに「そのようになった」と記されます。
当時の王のことばには人を有無を言わせずに動かす力がありましたが、同じように神のことばは、必ず目的を達成するのです。
そして、「神は光を良しと見られた。神は光と闇を分けられた。神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた」と記されます。ここで「光」は、「闇」の支配の中に「昼」という時間をもたらすものとして描かれ、この「創造」は、物質というより、この世界の機能 (Function) の創造を描いているという解釈も可能です。
それによると、第一日目の神の創造は、昼と夜の繰り返しという「時間」が創造されたということと定義されます。聖書が描く時間がこのときから始まったということは、科学的な意味での地球の始まりに解釈の余地を残すことにもなります。
パウロは後に、「『闇の中から光が輝き出よ』と言われた神が、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせるために、私たちの心を照らしてくださったのです」(Ⅱコリント4:6) と記しました。ですから、私たちはこの世界にある「闇」の現実を、恐れる必要はありません。
黙示録22章では「新しい天と新しい地」の世界のことが、「もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない」(5節) と描かれています。つまり、私たちが置かれた時代は、「闇」に満ちた世界から「光」に満ちた世界への途上にあるのです。
2.「大空」「地」「大きい方の光る物」「鳥と海の生き物」「地の獣」の創造
ところで二日目に、神は、「大空」を「水と水との間に」造られたとありますが、この日だけは、「神はそれを良しと見られた」ということばがありません。これは、生き物が住めない世界が、住める世界へと整えられる通過点だからです。
当時の人々は、この地に雨が降るのは、大空の上に水が貯められているためと考えており、聖書の世界では雨の不足が飢饉に結びつきました。ですから、第二日目は、気象の機能の創造と理解できます。
三日目に神は、「乾いた所」としての「地」を創造し、植物を生じさせました。この日には「神はそれを良しと見られた」と二回繰り返されますが、それはこの日、地を覆っていた水が「海」に集められ、「茫漠として何もなかった地」が植物が豊かに育つ地へと変えられるという二段階のみわざがなされたからです。
そして、第三日目は、すべての地の生き物に食物を与える機能の創造と解釈できます。この最初の三日間では、「分ける」「名づける」という表現が繰り返され、「茫漠として」いる世界に、形が造られ、いのちを育む環境が整えられたと描かれます。
不思議にも、太陽の創造は第四日目です。しかも、「大きいほうの光る物」と表現され、名前がありません。エジプトでは、太陽が神として崇められていましたが、ここでは第一日目に創造された光を地に注ぐ媒体に過ぎないかのように描かれます。
しかも敢えて「創造」の代わりに「造る (do『する』)」という動詞が用いられ、その目的を「定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ」と描かれます (14節)。つまり、強調点は偉大な天体の創造というより、「種蒔きと刈り入れ」(8:22) という季節、人の営みのリズムが整えられたことに焦点が当てられます。
第五日目の創造は、海の魚と空の鳥ですが、これは二日目の大空と水の区別に対応します。
第六日目は、地の生き物の創造ですが、これも第三日目に地が造られ、植物が芽生えたことに対応します。興味深いのは、「海の巨獣」や「すべての鳥」に関しては「創造」ということばが用いられる一方、家畜や野の獣という陸地の生き物に関しては、「地は生き物を種類ごとに……生じよ」(24節) と命じられていることです。
また25節の動詞も「創造」ではなく「造る (do)」で、これらの箇所では、地から生まれ、地に依存して生きるということに強調点があります。
つまり、最初の三日間で形が造られ、そして、後の三日間で「何もなかった」(2節) 世界に、天体といのちが満たされているのです。
しかも「種類ごとに」という表現が繰り返され、神ご自身が、何よりも多様性を創造されたと強調されます。そして、「新しい天と新しい地」は、「もはや海もない」世界です (黙示21:1)。世界の最初は、海ばかりでしたが、神はそこに空と陸とを区別されました。危険が満ちた不毛の世界が、豊かな植物を育てる大地と青い大空に満ちた世界へと変えられました。
現在の世界は、予知できない危険と、神にある安心が共存しています。この世界に、「茫漠として何もない」と思える状態や、「闇」に支配されたと思えるときがあったとしても、それを新しい恵みの世界が生み出される前触れと見ることができます。この世界に何が起ころうとも、闇から光へ、危険から安全へという変化の一プロセスに過ぎません。
しかも、その日ごとに、「夕があり、朝があった」と記され、一日の始まりは、日没として描かれます。それぞれの日の創造のわざに、闇から光へというリズムが見られるのです。そして私たちも、神のことばによって創造された世界に、希望をもって目覚めさせていただくというリズムを感じ取ることができます。「闇から光へ」、「茫漠からいのちへ」という希望に満ちたリズムを神は支配しておられます。
それゆえに、私たちは、明日のことを思い煩う必要がありません。今日なすべきことを力いっぱいやって、後は、お祈りして寝るだけですが、神にあっての一日は、この夜の休みから始まっているというのです。
3.神がご自身の喜びを分かち合うために造られた人間
人間の創造は、第六日目の中で、野の獣や家畜の後ですが、その時まで、六回にわたって、「神はそれを良しと見られた」と繰り返されます。
その直後に、「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」(1:26) と仰せられました。神は、「われわれ」と、ご自身が交わりのうちに生きておられることを明らかにされました。それは、父、御子、御霊の三位一体の交わりです。
そして、神は、ご自身の愛の交わりを広げるため、人を創造されました。つまり、神はご自身の喜びを分かち合う対象として人を創造されたのです。当時流布していたバビロニア創世記では、人間は、神々が楽しく暮らせるために、下界に奴隷として造られたと記されていました。
しかも、当時の世界では、「王」だけが「神のかたち」と呼ばれましたが、すべての人間が、かけがえのない存在として、神を「現す者」として創造されたというのです。なお、「神のかたち」が、人と動物を区別するような、言語能力、記憶力、想像力などという「能力」を意味するなら、サタンこそ最もすばらしい「神のかたち」になってしまいます。
しかし、ここでは、「神のかたち」に創造されたことが、「地を従えよ……すべての生き物を支配せよ」(28節) という命令の前提として記されます。私たちは神の代理としてこの世界を治めるというクリエイティブな働きができるのです。
ただし、「神のかたち」としての「誇り」は、争いの原因にもなります。理想が高い分だけ、目障りな人が多くなるというジレンマがあります。つまり、「神のかたち」に創造された人間は、その最初から、この世界を美しく保つすばらしい存在であると共に、この地に争いを生み出す可能性を持った危険な存在なのです。
それにも関わらず、第六日目の創造の記事の終りには、「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった」と記されます (31節)。人は、過ちを犯す可能性を抱えた、ある意味で不完全な存在でしたが、それにも関わらず、それは「非常に良かった」と呼ばれる世界でした。
それは第一に、人は「神のかたち」に造られたからこそ、神との対話ができるからです。28節の二番目の文章では、「神は彼らに仰せられた」と記されていますが、それまではすべて、「神は仰せられた」という独白形式なのに、この箇所だけは、人との対話形式になっています。つまり、神のみことば聞き、神に祈るという生き方の中でこそ、私たちはこの地を平和に治めることができるのです。
第二に、「人」は「神のかたち」として創造されたからこそ、互いに愛し合うことができます。27節の二番目の文章では、「神のかたちとして創造し」ということばが、「男と女とに創造し」と言い変えられます。つまり神は、人を愛の交わりのうちに生きさせて、「生めよ。ふえよ」と命じて、地に増え広がることを喜んでおられます。つまり、「人」は互いに愛し合うことによって世界を治めるように創造されているのです。
人は不完全なままで完全なのです。神は人を、人の助けなしには生きられないひ弱な存在に創造されました。ほとんどの動物は、孤独に耐えかねて気が狂うなどということはないでしょうが、人は、心も身体も驚くほどひ弱に創造されています。
しかし、「互いに愛し合う」ことによって、生きることができるのです。私たちは神のみことばを聞き、神に向かって祈ることができるということにおいて、百獣の王であるライオンにまさる強さを持っています。それと同時に、神のあわれみなしには生きて行けないひ弱な存在であることを知るからこそ、人に優しくなることができます。その創造の秩序がわかったとき、私は自分の欠点すら喜ぶことができるようになりました。
この第六日目に、神はこの地からあらゆる生き物を生じさせ、この地から生える食物だけですべての生き物のいのちが育まれるようにされ、弱肉強食はありませんでした。そして「人」は「神のかたち」としてこの世界に神の愛を目に見える形で現し、この世界を平和のうちに治めるための神の代理として創造されたということです。
4.創造のクライマックスとしての安息日
神の創造のみわざのクライマックスは、六日目の人間の創造ではなく、明らかに2章1-3節の第七日目です。「第七日」ということばだけは三回繰り返され、「なさっていたわざ」「なさっていたすべてのわざ」「なさっていたすべての創造のわざ」と同じことばを繰り返し、拡大させています。
しかも、1章1節から2章3節までは「神」ということばが七の五倍の35回記されますが、2章1節から3節に記されているヘブル語の単語数も35です。第七日目を創造の記事から外すことは、頂上を見ない登山のようなものです。
神は、それぞれの日ごとにご自身のみわざを振り返り満足されたのですが、第七日目は、ご自身が「祝福された」最高の日であり、他の六日間とは分離された「聖なる」日です。それは、神が世界の王として就任された祝福の日と呼ぶことができます。
ところで、第七日目を安息日とするのはこの記事に由来しますが、「休まれた」(シャバット、2、3節) の本来の意味は、「安息」より「停止する」です。出エジプト記での安息日律法の説明では「六日間、働いて、あなたのすべての仕事をしなければならない……しかし、七日目は……あなたはどんな仕事をもしてはならない」(20:9、10) と「あなたにとっての仕事」から手を引くことが強調されています。
その理由として、「主が……休んだからである」(20:11) と不思議な説明が加えられますが、その際の動詞はシャバットではなくヌーアハという平穏の状態を指す言葉です。なお、神が「天と地」を創造したというのは、神がご自身の神殿を創造されたという意味に理解することができます。全宇宙は神の王座、地は神の足台でもあるからです (イザヤ66:1)。
そして七日目は、創造のみわざを停止して、ご自分の創造された「神殿」としての世界の中に入られたことを意味します。ダビデは神殿の建設を計画するに当たって「主よ、立ち上がってください。あなたの安息の場所 (メヌーアハ) に、お入りください」(詩篇132:8) と述べています。それはアメリカの大統領がホワイトハウスに入るように、神がこの世界のコントロール・ルームに入られるという意味に理解できます。
事実イエスは、38年間も臥せっていた人を安息日に癒されたことが非難されたとき、「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですから、わたしも働いているのです」(ヨハネ5:17) と言われました。
私たちはこの日に、日々の生産活動から離れることによって、神が今も生きて働いておられることを覚え、感謝をささげます。そのときに、すべてのことは、私たちの労働以前に、神によって守られているということがわかるのです。
しばしば、「自分がいなければ……」と言う人によって仕事が混乱します。ドイツでは、夏休みを四週間取ることが義務づけられており、休みを取らない人は、代理の人に見られては困るような仕事の仕方をしているのではないかと疑われます。休みは、一人ひとりの働きが、神の秩序に従って、チームワークによってなされていることを覚える良い機会です。あなたが休んで困るような状態の仕事の仕方こそ反省すべきでしょう。
そして、安息日に積極的になすべきことこそ、何よりも神との対話という「祈り」であり、また礼拝です。これは、「聖なる会合の日」(レビ23:3) と呼ばれるように、公同の教会で礼拝をする日でもあります。
なお、ヘブル書の著者は、「安息日の休みは、神の民のためにまだ残されています」(4:9) と表現し、これを「新しい天と新しい地」での安息の完成に結びつけます。現在の礼拝は、そこで完成する礼拝の前味です。
この世界は、神の住まい、神殿として創造されました。ですから私たちは、この世界にどんな悲惨や混乱があっても、神のご支配を信じて希望を持つことができます。そしてすべての人間はその神殿の本尊としての「神のかたち」に創造され、この世界を治めるのです。
しかも今、それを忘れた人のために、神の御子ご自身が人となってその生き方を指し示してくださいました。今、(原題 : Overcomer : 克服者)という映画が上映されています。薬物中毒になった二人の黒人の出会いから生まれた子が、父親に捨てられ、自暴自棄な生き方をしていましたが、15歳になって回心した父に出会い、彼女もキリストを信じて、自分の存在を神に選ばれた神の子として受け入れるようになります。
死を間近にした父親のコーチングでクロスカントリー競技で優勝し、周囲の人々に感動を与えます。
「救い」とは、自分を「神のかたち」、新しく造られた者として受け入れ、自信をもって生きられるようになることとも言えます。この世界は完成に向かっています。私たちの交わりの中に痛みが生まれたとしても、それは外科手術のようなものに過ぎません。そこに新しい生き方が待っています。
あなたの罪のためにキリストは十字架にかかり、あなたを義とし、生かすためによみがえってくださいました。今、あなたのうちにはキリストが生きておられます。あなたはキリストに生かされているものとしてこの地で地の塩、世の光として生かされます。
そして、キリストの教会を立て上げるために一人ひとりがここに集められています。この世界は、神の平和が支配する、「正義の住む新しい天と新しい地」に変えられる途上にあります。私たちがキリストに顔と顔とを合わせてまみえるとき「あのときの苦労が報われた……」と心から喜ぶことができるでしょう。
完成の約束された働きに加わらせていただけるほど大きな特権はありません。神はその途上で、あなたを召し仲間に加えてくださいました。