最近のアメリカや日本のニュースでは、徹底的に相手をやり込める論調が目立って悲しくなります。日本の場合はそれが暴動にまでならないのは幸いですが、ネットの世界での誹謗中傷はひどいものがあると言われます。それが冷静な分析を職業とする学者の間にも広まっており、「科学的」ということばが一人歩きすることがあります。
今回のコロナ対応を巡って、3月の当教会の役員会で大きな意見の違いがみられた時、ある方が、「これに正解はないですよね。まだウィルスの実態が分からないのだから……」と言ってくれ、それを機に、議論の仕方が変わりました。
3月以降、奉仕者中心の礼拝をネット配信しながら、担当者の方々は大変な苦労をされています。それでも、ときに原因不明のトラブルが起きます。
昨日はメッセージの中で、「日本の組織は、責任の所在を曖昧にしながら、空気で動いて行く傾向がある」という肝心の部分で音が切れてしまいました。その後、お話ししていたのは、そのようなときに、「だれがこの決定に責任を負うのか」と問いかけることで、暴走を食い止めることができることがあるし、また自分の信仰的な立場を守ることもできるという趣旨のことを話していました。これも日本の風土では大切なポイントです。
「自分の正義を振りかざして、徹底的に相手をやり込めようとする」という独善主義もほんとうに醜いですし、また、「責任の所在が不明確のまま、その場の空気で明らかに過った動きを止められない」という日本的な雰囲気も困ります。
そのようなときに、聖書が示す知恵は、自分の知恵や知識の限界を心の底から認識することと、自分の心の奥底にある不安感に優しく向き合うということかと思います。
心理学的には、「怒り」の第一次感情は「不安」であると言われます。詩篇の祈りの世界は、私たちを謙遜に導くとともに、自分の不安感を創造主に委ねることができるものです。
今日は、その代表とも言える詩篇131篇をともに考えてみたいと思います。まずは、以下の私訳でこの詩篇のリズム味わってみてください。
都のぼりの歌 ダビデによる
主 (ヤハウェ) よ。私のこころは 驕りません
また この目は 高ぶりません
さらに 私は 立ち入りません
自分に及びのつかない 大きなことや 不思議なことに。
その代わりに 私は 自分のたましいを
和らげ また 静めました。
乳離
れした子が 母親のもとにいるかのように
このたましいは私のうちで 乳離れした子のようです。
イスラエルよ 待ち望め 主 (ヤハウェ) を
このときから とこしえに至るまで。
この詩篇のテーマは、変えられない現実に関しての無意味な詮索をやめ、そこに神の愛の御手が働いていると受け止める生き方です。
聖書の中で、義人の代表と呼ばれているのはヨブです。彼は理由の分からない恐ろしいわざわいに会って、自分の苦しみを必死に神に訴えました。最終的にヨブは、自分がどうしてそのようなひどい目にあったかの理由はわからないままでした。しかし、主ご自身が自分に語りかけてくださったこと、またそのわざわいの原因が自分の側にはないということに、安心することができました。
そして、神に向かって「あなたには、すべてのことができること、どのような計画も不可能ではないことを、私は知りました……私は、自分の理解できないことを告げてしまいました。自分では知り得ない、あまりにも不思議なことを」と告白しました (ヨブ42:2、3)。
ダビデがここで、「主 (ヤハウェ) よ。私の心は驕りません。私の目は高ぶりません。私は足を踏み入れません」と三つの否定形を繰り返しながら、「及びもつかない大きなことや奇しい(不思議な)ことに」と告白しています(原文の語順)。
その背景にはヨブ記があるように思えます。人間の罪の始まりは、「神のようになって善悪を知る者となる」ことを願ったことでした (創世記3:5)。しかし、ヨブがわざわいの理由を知らないまま、主に信頼できたとき、アダムの罪を逆転させることができました。主は、ヨブに主をのろわせようとしたサタンに勝利したのです。ヨブ記は私たちにとって、サタンに対する勝利の歌となりました。
ダビデはさらに、「まことに私は 私のたましいを和らげ 静めました。乳離れした子が 母親とともにいるように」と告白しますが、その後のことばは、「私のたましいは 私のうちで乳離れした子のようです」と訳すことができます。
「乳離れした子」が「平安」の象徴として描かれますが、昔は乳離れの時期が非常に遅かったようで、少なくとも3歳ぐらいまでは母乳を飲ませたという記録があります。また、「アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した」(創世記21:8) と記されるように、それは子どもの成長を喜ぶ機会でした。
この時期の子は多少お腹を空かせても、母親が目の前にいることで安心し、待つことができます。それは幼児が泣くたびに、母が必要にすぐ答え、乳を飲ませ、安心させて来たからです。その積み重ねの結果として、子どもは泣いて叫ばなくても母親が自分を守ってくれるということを感じ、安心して待つことができるようになりました。
同じように私たちは、自分の心の中の叫びに、母親のように優しく耳を傾けながら、自分の「たましいを和らげ 静め」ることができます。私たちは自分のたましいの中に沸き起こる嵐や不安の思いに蓋をして、それを押さえ込むのではありません。
母親は子どもが泣くときに、たたいて黙らせる代わりに、優しく抱擁し、乳を含ませることでおとなしくさせることができます。私たちも、自分のたましいの叫びに、そのように対応することをとおして、自分のたましいが、私の中で、乳離れした子のように落ち着いてきます。
今私たちは目の前に多くの問題が山積し、解決の目処が立たないままの中で、「今よりとこしえまで 主 (ヤハウェ) を待ち望め」(3節) と自分に語りかけることができます。最初と最後記された「主 (ヤハウェ) 」という御名には、主がこの世界のすべてのことを御手の中に治め、すべての問題をご自身のときに、解決してくださるという全能性の意味が込められています。
祈り
主よ、私の内に働いて御心を行なう志を立てさせてください。私の内なるすべてのものが愛する御方の御心を静かに待ち望むことができますように。そしてついに満ち足りて乳離れした児のようにあなたを仰ぐことができますように」(エミー・カーマイケル)
以下のユーチューブで、この詩篇131篇の美しい黙想の歌をお聞きいただけます。その下に歌詞と私訳を重ねて記しております。お聞きになりながら味わっていただければ幸いです。
詩篇131篇 黙想の歌
O Lord, my heart is not proud
By Margaret Rizza
O Lord, my heart is not proud,
主よ 私の心は高ぶりません
nor haughty my eyes.
私の目は尊大になりません
I have not gone after things too great,
私は追い求めませんでした。大きすぎることや
nor marvels beyond me.
驚くべきことなどに 私を超えたところの
Truly I have set my soul
まことに私は自分のたましいを整えました
in silence and peace;
静まりと安らぎのうちにと
At rest, as a child in its mother’s arms,
子どもが母の腕の中にいるような憩いの中に
so is my soul
私のたましいも同じような憩いの中にいます。