政府の緊急事態宣言が解除されそうですが、何か手放しで喜べない現実が続きます。いろんなことをことばにしようとしても、何か空しく思えるときがあります。
私たちのことばの限界を詩篇39篇は次のように語っています。特に1-3節の訳はリンビグバイブルの訳が原文の意味をよく伝えています。
私は自分に言い聞かせました。
「不平を言うのはやめよう。
特に、神を信じない者たちがそばにいる間は。」
ところが、おし黙っている私の心の中では、
すさまじい暴風が吹き荒れているのです。
思いにふければふけるほど、
体の中で火が燃え上がります。
私はたまりかねて口を開き、
神にとりすがりました。」
彼は神に不平を言いたくてたまらないのですが、神を信じない者が近くにいるので、神の御名を汚す罪になることを恐れて沈黙せざるを得ませんでした。
2節の「よいことにさえ、黙っていた」という訳は、英語の ESV, NRS では「I held my peace to no avail(平静を保とうとしても無駄だった)」と訳されていますが、その方が文脈に合っています。2、3節は上記のリビングバイブルの意訳がここの葛藤を最もよく表していると言えましょう。
4節では突然、「お知らせください。主 (ヤハウェ) よ」(私訳) という訴えと共に、自分の終わりについて問いかけながら、再び、「私が、どんなに、はかないかを知ることができるように」と繰り返しています。
5節では、「私の日を手幅ほどに」短くされたのは、神ご自身のみわざであると訴えながら、同時に、すべての人に適用できる現実として、「まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです」と告白されます。
6節の最後は、「だれがそれを集めて自分のものにするのかを知りません」という意味です。
5-6節のリビングバイブルによる以下の意訳の方が印象的かと思われます。
私の一生など、神から見れば
ただの一瞬にすぎません。
人は、なんとおごり高ぶることでしょう。
人のいのちは息のようにはかないものです。
しかも、どんなにあくせくしようと、
何一つ残せるわけではありません。
他人に渡すために、富を築くようなものです。
伝道者の書5章11-14節では、「財産が増えると、それを消費する人も増える。持ち主はそれを目で見る以外、何の得もない……富む者は満腹しても、眠りを妨げられる……蓄えられた富が、その所有者に害をもたらす。その富は不幸な仕事によって失われ、息子が生まれても、その手に何もない」と記されています (私訳) 。
ダビデはイスラエル王国を安定させた途端、高慢になって罪を犯し、それが子供たちの罪につながり、彼も一時、エルサレムから逃げ出さざるを得なくなりました。その子のソロモンも上記のような真理を分かっていながら、高慢になって民を苦しめ、後の王国分裂の原因を作りました。私たちはこの世的な成功の下に隠れている罠にいつも目を見張る必要があります。
ただダビデは、神の懲らしめを受けた結果として、次のように告白します
「主よ。今、私は何を待ち望みましょう。
私の望み、それはあなたです」(7節)
ダビデは、今、神ご自身との交わり自体を喜んでいるのです。
ただ、彼にとって、今の状況は、あまりにも苦しいものなので、この詩の終わりにかけて、なお大胆に神の救いを求めて、必死に祈っています。そこでは、神に対する不平のようなことばではなく、子供のような気持ちで、「助け出してください」、「愚か者のそしりとしないでください」(8節)、「あなたのむちを私から取り除いてください」(10節)、「私の祈りを聞いてください……叫びを耳に入れてください……黙っていないでください」(12節) と、泣きすがっています。
ダビデは苦しみのただ中で、神の永遠のご支配の現実と自分の人生のむなしさを知りました。ただそこで、自分で自分を納得させようとするのではなく、必死になお、主にすがっています。これこそ神との対話です。
この詩篇は珍しく、神に対する叫びだけで終わっています。美しい結論がないのです。しかし、それは私たち一人ひとりが、全能の主に、合理的なことばで表現できない気持ちを訴えることができた結果として、聖霊ご自身が一人ひとりに与えて下さるものでしょう。
この世界は無駄なことばが多すぎます。他の人に説明できない混乱した感情を正直に訴えることができる幸いをともに味わっていただければ幸いです。
祈り
主よ、この世的な成功のむなしさをお知らせくださり感謝します。しかし、私は目の前の苦難が恐ろしいです。どうか、引き続き、愛の眼差しを注いでください。
ことばを超えたコミュニケーションということで、映画ミッションでスペイン人の宣教師がことばの通じない南米の方々にオーボエを演奏する場面が印象的です。
友人から紹介されましたが、とっても美しい演奏です。