前回は、神殿で幼児期を守られていたヨアシュ、謙遜に「神の人」に聞いてエドムに勝利したアマツヤ、ダビデ時代の栄光の一部を回復したウジヤという三人の王の生涯を見ました (24-26章)。みな最初は模範的な王でしたが、最初の二人は隣国と戦いに負けた後、家来たちに殺され、最後のウジヤは神の怒りでツァラアトに冒され、隔離生活のまま寂しく生涯を閉じました。
そして今日の箇所にも三人の王が登場します。ヨタムは主に喜ばれた王でしたが、その子アハズはエルサレム神殿を閉鎖し偶像礼拝を推進した最悪の王となりました。しかしその子のヒゼキヤは、ダビデ以来の最高の王として描かれます。忠実な王のもとで最悪の王が育ったと思ったら、さらにそこから最高の王が育ったという不思議が見られます。
預言者エゼキエルは、「子は父の咎について負い目がなく、父も子の咎について負い目がない。正しい人の義はその人の上にあり、悪しき者の悪はその者の上にある」(18:20) と記しています。これは父の社会的な評価が子の評価につながりがちな家父長制とは全く異なった価値観です。
主 (ヤハウェ) はあなた一人の歩みに目を留め「恵みを与えようと待ち……あわれみを与えようと立ち上がられる」方です (イザヤ30:18)。
1.「主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行った王ヨタム」
27章にはウジヤの子ヨタムの支配が描かれます。彼は「25歳で王となり、エルサレムで16年間、王であった」と記されますが、最初の十年間は父ウジヤがツァラアトに冒された時期と重なる可能性が高いと思われます。そしてこの時期は、北王国が滅亡に向かっているペカの時代でした。
そしてヨタムの評価に関しては、「彼は、すべて父ウジヤが行ったとおりに、主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行った。ただし、主 (ヤハウェ) の神殿に入ることはしなかった」(27:2) と記されます。ウジヤは国を繁栄に導いた偉大な王でしたが、自分の成功に酔い痴れて、主の神殿に入って香をたこうとしました。それは祭司の働きを侵害することで、神のさばきを受けましたが、ヨタムはウジヤの最後の失敗は別として、ウジヤの誠実さに倣ったというのです。
ただそれにしても「民は依然として滅びに向かっていた」(27:2) という記述は驚くほど不気味です。
3、4節では「建てた」という同じ動詞形が四回繰り返されます(4節終わりの「築いた」も「建てた」と同じことば)。それは、主 (ヤハウェ) の宮の門、エルサレム城壁、ユダの山地の町々、森林地帯の城塞とやぐらです。そして「彼は」という主語はここで3節の始まりだけに記されますが、これが5節で再び「そして、彼は」と繰り返され、アンモン人との戦いにおける勝利が描かれます。
アンモン人は伝統的には北王国イスラエルの支配下にあることが多かったのですが、このとき北王国が弱体化していたため、ユダ王国がこの地をも支配したということです。彼らは三年間にわたって大量の銀と食物をユダ王国に納めることになりました。
6節では「ヨタムは勢力を増し加えた」と記され、その理由が「彼が、自分の神、主 (ヤハウェ) の前に、自分の道を確かなものとしたからである」と描かれます。これは彼の父ウジヤについて、「しかし、彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた」と記されていたのとは対照的です。
不思議にも8節には1節と同じ「彼は25歳で王となり、エルサレムで16年間、王であった」という表現が繰り返されます。これは21章5、20節でヨラムという愚かな王の場合にも用いられていた書き方ですから意味はないのでしょうが、ヨタムはヨシャファテ以来の平穏な生涯を終えられた王として記憶されたことは確かです。
2.「主 (ヤハウェ) の怒りを引き起こした王アハズ」
28章1節では、ヨタムの子アハズは「20歳で王となり、エルサレムで、16年間、王であった」と記されます。アハズは、最悪の王の一人ですが、父ヨタムと同年月の間王位にあったというのは、父の功績をすべて無に帰してしまうという意味があったかのように思えます。
1-4節では彼の堕落の様子が、ダビデの子でありながら、北王国の「イスラエルの王たちの道に歩み……主 (ヤハウェ) がイスラエルの子らの前から追い払われた異邦の民の、忌み嫌うべき慣わしをまねて、自分の子どもたちに火の中を通らせた」と描かれます (レビ18:21参照)。
これは、これはソロモン王が「エルサレムの東にある山の上に高き所を築いた。アンモン人の、忌むべきモレクのためにも、そうした」(Ⅰ列11:7) と記されていたことを思い起こさせます。
歴代の王に関しても、「主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行った」ということばとともに、「ただし、高き所は取り除かれなかった。民はなおも、その高き所でいけにえを献げたり、犠牲を供えたりしていた」ということばが繰り返されていました (Ⅱ列王12:3、14:4、15:4)。そこにユダ王国の堕落の種があったのです。
さらにそこにアハブの娘アタルヤによって大々的に導入されたバアル礼拝が結びつき、イスラエルの民の偶像礼拝が加速されます。そしてアハズ王は、まさにその偶像礼拝の誘惑に身を任せてしまいました。
それに対する神のさばきとして、「主 (ヤハウェ) が彼をアラムの王の手に渡され……彼らは……多くの者を捕虜としてダマスコに連れ去った」(28:5) という大敗北になります。
そればかりか主 (ヤハウェ) は彼を「イスラエルの王の手にも渡され……レマルヤの子ペカは、ユダで一日のうちに12万人を殺した。みな勇士たちであった。彼らがその父祖の神、主 (ヤハウェ) を捨てたからである……イスラエルの人々は、自分の同胞の中から、女たち、男女の子どもたち20万人を捕虜にし……分捕り物をサマリアに持って帰った」(28:5、6、8) という悲惨が起こされます。
ただ、興味深いのは、そこにオベデという「主 (ヤハウェ) の預言者」が遣わされ、ユダの敗北は、「主がユダに対して憤られたため」であると言い、「あなたがたの同胞の中から捕らえた捕虜を帰しなさい。主 (ヤハウェ) の燃える怒りがあなたがたに臨んでいるからだ」(28:9、11) と説得し、それが聞き届けられます。
その理由は、「私たち(北王国)の罪過はすでに大きく、燃える怒りがイスラエルの上に臨んでいるからだ」(28:13) とあるように、アッシリア帝国による攻撃を、主のさばきの現れと見ていたからです。
ところが皮肉にも、「そのとき、アハズ王はアッシリアの王たちに人を遣わして、助けを求めた」(28:16) と驚くべきことが記されます。これは滅亡に瀕している北王国イスラエルが主の前に遜って、捕虜を帰したことと驚くほど対照的です。
ここにアハブの救いがたいほどの愚かさが描かれていると言えましょう。
それに対する神のさばきの現れで、「エドム人も再び攻めて来て、ユダを打ち、捕虜を捕らえて行った」(28:17) と記されます。エドムは長らく、ユダ王国に服従していたのですから、これは決定的な力関係の逆転が起きたことを意味しますが、その背後には、北のアラムがエルサレムを南からも攻撃させるためエドムを助けたという動きがあったようです (Ⅱ列王記16:6)。
そればかりか、地中海岸のペリシテ人がかつてのサウル王の時代のように勢力を回復して、ユダの村々を占領したということが記されます (28:18)。そしてその理由が「これは、主 (ヤハウェ) がイスラエルの王アハズのゆえにユダを低くされたためである。彼がユダにおいて好き勝手にふるまい、甚だしく主 (ヤハウェ) の信頼を裏切ったからである」(28:19) と記されます。
28章20、21節に記されたアッシリアの王ティグラト・ピレセルとの出会いと貢物のこと、またその際にダマスコの祭壇を真似たことはⅡ列王記16章7-16節に描かれています。
それによるとアッシリアの王はアラム王国を滅ぼしダマスコを占領しますが、そこにアハズが尋ねたということかと思われます。そこではアッシリアの王はアハズの願いに応えるように、アラムを滅ぼしたと描かれますが、アッシリアの王が南に攻めて来るのは、彼自身の世界制覇の夢に従ってのことですから、アラムが滅びるとユダ王国が攻撃の対象となってしまうのは歴史的必然です。
それが28章21節でアハズの贈り物が「何の助けにもならなかった」と描かれます。そして22節では「その苦しみの中で、このアハズ王は、さらに主 (ヤハウェ) の信頼を裏切った」(私訳) と記されます。これはアハズの、自分を襲う試練が神のさばき、または回心への招きであることを認めようとせずに、より強大な王に頼ってダメなら、別の神に頼るという節操のなさを示したものです。
28章23節は「彼は、自分を打ったダマスコの神々にいけにえを献げた」と記され、Ⅱ列王記16章10節では、これはアハズがダマスコでアッシリアの王に会ったときのことを指します。これはアハズにとって「ダマスコの神々」、「アラムの王たちの神々」とは、アッシリアの神々と同じと思えたということだと思われます。
事実、アハズがエルサレム神殿の礼拝施設を取り除いたのは「アッシリアの王のため」(Ⅱ列王16:18) であったと記されています。つまり、彼はアッシリアの王からの迫害を受けた結果として、彼の神にすがって、さらなる助けを求めたということです。
その彼の行動が、「アハズは……主 (ヤハウェ) の宮の戸を閉じ、エルサレムの街角のいたるところに祭壇を造った」(28:24) と描かれます。アハズは、神の都エルサレムを偶像礼拝の町に変えてしまったというのです。ただ、それはエルサレムの人々の反感も買ったことになり、彼は死んだとき、「イスラエルの王たちの墓に入れられなかった」(28:27) という不名誉で終わります。
神のさばきは、神の民をご自身のもとに立ち返らせるために下されるものですが、残念ながら、不幸に会えば会うほど、創造主から離れて行く人がいます。
預言者イザヤは、アハズがこのような妥協に走る前に、主のことばを彼に、「気を確かに持ち、落ち着いていなさい。恐れてはならない」(イザヤ7:4) と伝えました。そしてその同じ文脈の中で、「立ち返って落ち着いていれば、あなたがたは救われ、静かにして信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15) と言われます。
それでも、彼らが人間的な解決に走って、さらなる絶望に追いやられるときの神のあわれみの姿が、「それゆえ主 (ヤハウェ) は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主 (ヤハウェ) が義の神であるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は」(イザヤ30:18) と記されています。
「貧すれば鈍する」ということわざがあるように、人は絶望的な状況になると、ますます頭が働かなくなり、愚かな行動に走ってしまうことがあります。しかし、神はそのような私たちが、絶望の中でご自身に立ち返るのを心待ちにしておられます。
3.「主 (ヤハウェ) の宮をきよめた王ヒゼキヤ」
29章1節では「ヒゼキヤは25歳で王となり、エルサレムで29年間、王であった」と記されますが、これが、北王国イスラエルが滅亡した紀元前722年の前なのか後なのかについて意見が分かれます。
Ⅱ列王記18章1節によると、彼の即位はサマリアがアッシリアに滅ぼされる6年前のときと思われますが、30章の過越しの祭りで北王国の残りの民を招いていることを考えると、彼は長らく父アハズとともに国を治めており、その治世の第一年とは、父アハズが死んだ後の紀元前716年を指していると理解すると調和が取れます。
とにかくヒゼキヤは、父アハズと真逆に、主の前に徹底的にへりくだった政治を行います。そのことが、「彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行った」(29:2) と描かれます。17章3節ではヨシャファテの歩みもダビデに倣うものであったと記されますが、これほど簡潔にダビデと同じように「主 (ヤハウェ) の目にかなうことを行った」と描かれる王は初めてです。
彼はその治世の最初に「主 (ヤハウェ) の宮の戸を開いてこれらを修理した」(29:3) と、アハズの過ちを正したことが描かれます。
そしてその際、ヒゼキヤが最初に行ったことは、祭司とレビ人を集め、「今、あなたがたは自分自身を聖別しなさい……主 (ヤハウェ) の宮を聖別しなさい。聖所から忌まわしいものを取り除きなさい」(29:5私訳) と命じたことでした。
そして、先祖が主に背いた姿勢を、「彼らは玄関の戸を閉じ、ともしびを消し、聖所でイスラエルの神に香をたかず、全焼のささげ物を献げることもしなかった」(29:7) と描かれます。そのようにして、主 (ヤハウェ) の御怒りを買ってしまった結果が「私たちの先祖は剣に倒れ……息子たち、娘たち、妻たちは捕虜になっています」(29:9) と描かれます。
そして、ヒゼキヤはレビ人たちに「主 (ヤハウェ) と契約を結ぶ」ように命じました。それは彼らが「主 (ヤハウェ) の前に立って仕え……奉仕する者、香をたく者」となるためでした (29:11)。
そして29章12-14節に記されるレビ人の家系描写は基本的にⅠ歴代誌15章4-10節でダビデが集めた家系と同じで、それに加えて聖歌隊の指揮者の家系「アサフ」「ヘマン」「エドトン」が記されます。
ここにヒゼキヤが、ダビデが整えた礼拝の形を復興させようという断固たる意志を見ることができます。そして彼らは16日間かけて神殿にあった「汚れたもの」を取り出して、「キデロンの谷」に捨てました (29:16)。
その後、29章20-24節では、彼らは雄牛や雄羊の血によって祭壇をきよめたことが描かれます。これはアハズ王がエルサレムの街角のいたるところに祭壇を造った、偶像礼拝をしたことを巻き戻すように、主の宮の祭壇をきよめるためでした (28:22)。またそれは同時に、「全イスラエルのための宥め」を行うためでした (28:24)。
さらに25-30節では、王はダビデが整えた楽器や聖歌隊によって主を礼拝した様子が描かれます。特に興味深いのは、27、28節ではヒゼキヤ王の命令で、「全焼のささげ物が献げ始められると、イスラエルの王ダビデの楽器に合わせて、主の歌とラッパが始まった。全会衆は伏し拝み、歌い手は歌い、ラッパ奏者はラッパを吹き鳴らした。このすべては、全焼のささげ物が終わるまで続いた」と記されていることです。
全焼のささげ物が燃えている間中、「ダビデおよび先見者アサフのことばをもって」(29:30) とあるように現代にまで残っている詩篇歌が聖歌隊によって歌われ続け、それをダビデの竪琴やラッパの奏楽が支えていたというのです。
そして最後に「彼らは喜びつつ賛美した。そして、一同はひざまずいて伏し拝んだ」と描かれます (29:30)。全焼のささげ物は、神への祈りと献身の現れでしたから、彼らはアハズの時代の過ちを悔い、神の前に再献身の思いを現わすように伏し拝む姿勢を取ったのでしょう。
29章31節では、ヒゼキヤ王が「感謝のささげ物を主 (ヤハウェ) の宮に携えて来なさい」と命じると、多くの人々が驚くほど多くのささげ物を携えてきました。これは主の怒りが過ぎ去ったことへの感謝と言えましょう。
そして36節では、「ヒゼキヤとすべての民は、神が民のために備えてくださったことを喜んだ。このことが突然のことだった(共同訳:速やかに行われた)からである」と記されます。これは、ヒゼキヤが即位して三週間もたたないうちに、滅びに向かう民から、主に感謝のいけにえを献げる民へと急速に変化したことが、すべて、主ご自身が民の心を整え、またこれほど多量のいけにえを備えてくださったことを描いたものです。
現代の私たちはこのような大量の動物をいけにえとする代わりに、「賛美のいけにえ」と「善を行い、分かち合う」という「いけにえ」を献げるように期待されています (ヘブル13:15,16)。
そして私たちは、ダビデ、ヒゼキヤの時代からずっと続く、詩篇を用いての「讃美のいけにえ」を今、喜んでささげることができます。
4.「北王国の残された者を集めて過越しを祝った王ヒゼキヤ」
30章1、2節では、ヒゼキヤがユダの全土ばかりか、北王国の残りの民にも「手紙を書いて」、「第二の月に過越しの祭りを行う」(私訳) ように呼びかけています。本来、それは「第一の月に行う」はずですが、民数記9章11節には死体に触れて身を汚している人のために、「第二の月の14日の夕暮れに行う」ことができると記されていました。
ヒゼキヤの支配の第一の月は、神殿をきよめることで忙しくしていたので、この第二の月の規定を用いて、国の再出発を祝う祭りを大々的に開こうとしたのだと思われます。
30章5-11節では、アッシリア帝国に滅ぼされた北王国の全域に使者を遣わして、エルサレム神殿に来て、「主 (ヤハウェ) に仕えなさい」(8節) と訴えたことが描かれます。その際、「そうすれば、主の燃える怒りがあなたがたから離れるでしょう」と、「主 (ヤハウェ) に立ち返る」(9節) ことを勧めました。
それに対し、「彼らを笑いものにして嘲った」(10節) という対応も見られましたが、一方で「ただ、アシェル、マナセ、およびゼブルンの一部の人々は、へりくだってエルサレムに上って来た。また、ユダには神の御手が臨んで、人々の心を一つにし、主 (ヤハウェ) のことばどおり……命令が実行された」という感動も描かれます (30:11、12)。
そして30章13節では「こうして、第二の月に多くの民が、種なしパンの祭りを行うためにエルサレムに集まった。それは、おびただしい数の大集団であった」と描かれます。そして「第二の月の14日に、彼らは過越しのいけにえを屠った」(30:15) と記されます。
ただ、そのような中で、「民のうちの大勢の者、エフライムとマナセ、イッサカルとゼブルンの多くの者は、身をきよめずに、しかも、記されているのとは異なったやり方で過越しのいけにえを食べてしまった」(30:18) という事件が起きます。これは、神のさばきに値する行為ですが、ヒゼキヤは、彼らが主のみ教えから長らく離れており規定どおり行えなかったという趣旨で主の理解を求め、「心を定めて……彼らの父祖の神、主 (ヤハウェ) を求めています」という心を見るようにと訴えます (30:19)。
その結果が、「主 (ヤハウェ) はヒゼキヤの願いを聞き、民を癒された」(30:20) と記されます。
そして30章21節では、「エルサレムにいたイスラエルの子らは、七日の間、大きな喜びをもって種なしパンの祭りを行った。レビ人と祭司たちは、毎日主 (ヤハウェ) に向かって力強い調べの楽器を奏でて、主 (ヤハウェ) をほめたたえた」という、エルサレムの信仰復興の様子が描かれます。
さらに、「エルサレムには大きな喜びがあった……ソロモンの時代以来、エルサレムでこのようなことはなかったからである。レビ人の祭司たち……の祈りは、主の聖なる御住まいである天に届いた」(30:26、27) と描かれます。
ヨタムは父ウジヤに対する神のさばきを見、しかも、父の王権のもとで10年間、国を実質的に治めた後、王として神を恐れる政治を全うしました。
その子アハズは、国が平穏の中で育ち、わがままになったのかもしれません。彼は困難に出会うたびに強大な権力者にすがり、またその権力者の神々にすがって、ますます神の怒りを受け、家来たちからも軽蔑されて生涯を閉じます。
ヒゼキヤは父アハズのもとで12年間ぐらい共に国を治めた後、父の死後、人々をすぐに神のもとに立ち返らせます。彼は自分の父が神の怒りを買って、国を混乱させる様子を見て、激しく心を痛めていたのでしょうが、行動を起こすタイミングを待っていました。
そして、時が来たとき、驚くべき勢いで、ユダ王国ばかりか、神の怒りを受けて滅びた北王国にまで手を差し伸べ、彼らを神に立ち返らせました。彼は父が生きている間は、ひたすら忍耐し、神の時を待っていたのではないでしょうか。
父の愚かさや失敗から学ぶことができたヨタムもヒゼキヤも、神に喜ばれる王となることができました。私たちは今回のコロナ蔓延の中で、手っ取り早い解決を求めて堕落したアハズのような歩みか、心を痛めながら忍耐して神の時を待ったヒゼキヤの生き方に倣うかが問われています。
多くの場合、試練は避けられませんが、そこでどのように生きるかは、自分で決められます。