詩篇100篇

カミュの「ペスト」には、感染症が終息して行く時期の、希望を持つこと自体に疲れてしまっているという倦怠感と同時に、心の底に「大きな希望が波立っていた」という心の揺れが描かれています。私自身の中にも同じような心の揺れがあります。

私たちはこの時期、全能の創造主の御手の中にある揺るがない希望を思い起こしながら、同時に、目の前の危険に目を開き、冷静に一つ一つの課題に対処して行きたいものだと思わされています。

詩篇93篇以降では、「主 (ヤハウェ) は王である」という表現が繰り返され、主 (ヤハウェ) の王としてご支配の現実が歌われました。私たちの人生を襲う、すべての幸いも、わざわいも、主の御手の中で起きています。

「神は、どうして、このようなことを許されるのか?」という理由は説明できませんが、今ここで、イエス・キリストの生き方に倣うことが求められているということは理解でき、そして、その私たちの誠実な生き方に、王である主 (ヤハウェ) が豊かに報いてくださるということも分かります。

この100篇はそれら一連の詩篇を締めくくるような、主の民への呼びかけの歌です。標題には「感謝の賛歌」と記されますが、これは「感謝のために交わりのいけにえ」また「ささげ物」との関係を示すと思われます (レビ7:11-15)。

イスラエルの民は自分たちの収穫物を、ときに遠く離れた主の幕屋または神殿の「大庭」にまで携えて来て、家族や奴隷とともに「主 (ヤハウェ) の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい」(申命記12:8) と命じられていました。

彼らはこの祭りを自分たちの住んでいる町ではなく、たとえ遠隔地にあっても、エルサレムに神殿ができてからは、そこの主の門を通った主の大庭に来ることが命じられていました。それは、私たちが主を礼拝するためにともに集まることに結びつきます。

今、私たちは一時的に、ともに集まることを自粛せざるを得ませんが、このような試練をとおして、ともに集まることの祝福が改めて理解できることでしょう。

しかも、そこでの感謝の礼拝と交わりは、「全地よ」とあるように、全世界の人々を、「主に喜び叫び、主に仕える」ことへと招くことでもありました。私たちは主によって創造された「主の民」であり、主に養われている「主の牧場の羊です」。

私たちが働いて収入を得たとしても、それは私たちが自分の力で獲得したものではなく、すべては主の恵みです。私たちの心も体も能力も、すべて主の賜物であり、私たちは同じように主によって創造された方々との交わりの中で働きを進めているに過ぎません。

この世界のすべての環境が、主からの恵みの賜物です。私たちはそのすべてを主に感謝するのです。

その際、主の「いつくしみ(善)」、「恵み(ヘセド:変わらない契約の愛)、「真実(信頼できること)」というご性質を思い起こし、感謝し、主の御名をほめたたえるのです。

これは多くの教会の礼拝で最も愛用されている招詞の一つです。原文の語順では次のような美しい三行詩が四つ組み合わされています。

これは詩ですから、その意味と同時にことばの繰り返しやリズムを、朗読しながら、心の底に落として味わい、そのことばが自分自身を動かすことを期待すべきでしょう。以下のように訳すことができます

喜び叫べ 主 (ヤハウェ) を 全地よ。

仕えよ 主 (ヤハウェ) に 喜びをもって。

来たれ 御前に 喜び歌いながら。

知れ 主 (ヤハウェ) こそ 神であられることを。

この方が私たちを造られた。私たちは主のもの

私たちは主の民、主の牧場の羊である。

来たれ 主の門に 感謝をしながら、

主の大庭へと 賛美しながら。

主に感謝し 御名をほめたたえよ。

それは 主 (ヤハウェ) が いつくしみ深く

主の恵み (ヘセド) は とこしえで

主の真実は 代々に至るから。

祈り

主よ、私たちが毎週、「主の大庭」である礼拝の場に集うことができることを感謝します。私たちは主の牧場の羊として、主からの恵みを、主の民とともに喜び祝います。主への賛美の輪が、この礼拝の場から全世界に広がり続けますように。