詩篇69篇は僕の人生を変えた祈りです。僕はそれまで、自分の感性自体を恥じていました。たとえば、「このように感じるのは、自分がおかしいからでは……」などと。
ところがこの詩篇を読んでとっても気が楽になりました。まず、1-4節に次のように記されています
救ってください!神よ。 (1)
水が喉元にまで迫っています。
私は深い泥沼に沈み、足がかりもありません。 (2)
大水の底に沈み、奔流に押し流されています。
私は叫ぶことに疲れ果て、喉は涸れ、
目は、私の神を待ちわび、衰え果てました。 (3)
ゆえなく私を憎む者は髪の毛よりも多く、 (4)
あざむいて滅ぼそうとする敵は強いのです。
それで私は、盗まなかった物さえも、
返さなければならないのでしょうか。
これほど、自分の絶望感ややるせない気持ちを表現した詩を見たことがありませんでした。しかも、これはライオンと素手で戦ったことがあるダビデが書いたものです。そして、「盗まなかった物さえも返さなければらない」という気持ちは、知らないうちに自分が加害者にされてしまったというやるせない気持ちです。
その中でダビデはさらに、自分の孤独感を次のように記します。
あなたは、私が受けている そしり、恥、侮辱をご存じです。 (19)
私に敵対する者はみな、御前にいるのですから。
そしりが心を打ち砕き、 (20)
私は傷ついています。
理解してくれる人を待ち望んでも、誰もなく、
慰めてくれる人も、見いだせませんでした。
彼らは食物の代わりに苦味をよこし、 (21)
渇いたときには酢を飲ませたのです。
自分の必死の思いが誤解され、自分の思いを弁明しようとすればするほど、かえって関係を壊してしまうようなことがあります。しかし、そのような中で、「人の同情など求めるからいけないのだ、神を仰ぎ見なさい」というもっともな声が聞こえてしまいます。
そのとき、あのダビデでさえ、理解してくれる人(同情者)や慰めてくれる人を求めたのだと安心できます。それどころか、これはイエス様が十字架で「わたしは渇く」(ヨハネ19:28) とおっしゃったときの気持ちなのだと分かった時、自分の葛藤は、イエスの御苦しみにあずかっているものなのだという喜びさえ湧いてきました。
それと同時に、その頃、深く慰められたドイツの新しい歌があります。
これを作詞したジーバルドさんは、それが生まれた経緯を次のように記しています
多くの人々は明らかな病気や経済的困窮以前に、それまでの傷ついた心から心の奥底で『他者への憎しみ』のような気持ちを隠すようになっている。それが他者との関係を妨げ、また自分自身も受け入れることができなくさせている。しかし、イエスはあなたの全ての罪を赦し、その見えない重荷を取り除いて、新しい出発を与えてくださる
歌詞を直訳すると以下のような意味になります
イエス様 あなたのもとに私はこのままの姿で行くことができるのですね。
あなたは、「だれでも来ていいんだよ」とおっしゃってくださった。
私はより良い人間になれるんだ……などと証明しなくても良いのですね
そのためのすべてを、あなたは十字架で成し遂げてくださったのだから
あなたは、私が戸惑いを見て、ご自身の手を差し伸べて、言ってくださった
そのままの自分の姿で来て良いのだよと
イエス様 あなたの御前に このままの自分を差し出して良いのですね
私はあなたの御前で、正直であること以上のことは求められない
私は自分のうちにある みにくい思いを一切隠す必要がないのですね
私の内にある あなたに結びつく思いと引き離す思いのすべてをご存じで
また、私のうちにある光の部分と影の部分のすべてを御前に置いて
このままの私を差し出して良いのですね
イエス様は 私はあなた御前で このままの状態にとどまる必要はないのですね
あなたは私のうちにある自分と周りの人を傷つける思いを取り去ってください
このままの私から ご自身のお気に入りの者へと変えてくださるのですね
そして、このまま私をあなたの御手の愛の手紙へと造り変えてくださるのですね
あなたはずっと昔から、私の最善の状態を願って計画してくださった
私はこのままの状態にとどまる必要はないのですね
この歌の日本語訳の歌を原作者の許可を得て作りました。以下のサイトでご覧いただけます。
なお、続けてダビデは次のように記します。
私は、卑しめられ、嘆いています。 (29)
神よ。御救いが私を高く上げてくださいますように。
神の御名を、歌をもって私はたたえ、 (30)
感謝をもってあがめます。
それこそ、雄牛にまさって、主 (ヤハウェ) に喜ばれましょう。 (31)
角と割れたひずめを持つ若い雄牛にまさって。
悩んでいる人々は、これを見て、喜びます。 (32)
神を尋ね求める人々よ。あなたがたの心は生き返ります。
自分の絶望感を必死に訴えていたダビデは、ここで神にある不思議な逆転を体験しました。
僕が「心を生かす祈り」(二十の詩篇の私訳交読文と解説)という本を書いたのは、同じような葛藤を味わっている人のご相談に載りながら、いつもこのような詩篇を分かち合うことに行き着いた結果です。タイトルの「心を生かす祈り」とは32節の「あなたがたの心は生き返ります」ということばから来ています。
ある教会員が感謝なことに、この絶版になった本をHPで読まれるようにアップしてくださいました。一字一字確かめる大変なご苦労があったようです。以下のサイトでご覧いただくことができます。
そうしたら、いのちのことば社さんから、アマゾンを通して復刻版をすぐに印刷して発行できるようにしてくださいました。
昨日、この本の読者が Facebook に次のような感想をお寄せくださいました。
私は長い間誤解していた。
立派な人を目指して生きるのが、人生の幸福。
幸福を叶えるために、神に願い事をするのが祈り。
どんなに不可能なことでも、正しいことなら叶うと信じ続けるのが信仰。
信仰を持って30年以上そう思い込み、いつか立派な信仰者になるのだと邁進し、その度に挫折し、ついに破綻を迎えた。
その時、高橋秀典先生と出会い、先生のお書きになったこの本に出会った。
普段本には何も書かない私が、アンダーラインを引き、印象深い言葉に印をつけて、砂漠が水を吸い込むような勢いで読んだ。
涙が止まらずに、ボタボタとページに落ち続けた。
極めて個人的な、かけがえのない1冊。
ちょっと最後は宣伝になってしまいましたが、お時間のあるときにお読みただければ幸いです。