去る4月29日はイスラエル共和国の72回目の独立記念日でした。それは南ドイツのダッハウ絶滅収容所からユダヤ人が解放された75年目の記念日でもありました。そのとき解放されたAbba Naorさん(92歳)は、「アメリカ軍が僕の命を救ってくれた、それは決して忘れられないことだ。それにしても私たちが見た最初のアメリカ兵は日系人だった。そのような人々を私たちはそれまで見たことがなかった」と言っています。それは、日系アメリカ人によって構成された442連隊でした。この連隊は米陸軍で最多の勲章を得た勇猛な部隊で何と31.4%もの兵が死傷したとのことです。残念ながら1992年に至るまでダッハウ収容所を解放したのは日系人部隊であったことは隠されていました。
僕は1979年にユダヤ人の友人に連れられてダッハウ収容所を見学しました。そのような歴史を知ることもなく……第二次大戦が始まると米国の日系人はみな収容所に強制移住させられました。そのような中で、米国内の日系人の立場を守るために、多くの日系二世が志願して対ナチスとの戦に赴きました。いつも、悲しみと喜びはセットになっています。
本来、今年の4月29日には、日本からゴスペルクワイヤがイスラエルに派遣されて、イスラエルで愛唱されているアル・コル・ヘレ (Al Kol Eleh – Over all these) が歌われるはずでした。フェイスブックを見られる方は2月に派遣式のために撮影されたビデオを以下で見ることができます。
https://www.facebook.com/bfpjapan/videos/1598802723603102/
フェイスブックを開かない方も、以下で独立70周年記念祭のときのものをご覧いただけます。
次のような意味です(意訳)
蜂の蜜と針は切り離せない
苦みがなければ甘みは分からない
この私たちの幼子たちを
善い神よ お守りください
燃える火の上に
透きとおった水の上に
故郷に帰ろうとする人々の上に
はるか遠方の地から
アル・コル・エレ(これらすべての上に)
これらすべての上に
善い神よ 守りの御手を
蜂の蜜と針の上に
苦みと甘さの上に
どうか植えられたものが引き抜かれないように
希望(ハチィクバ)を忘れてはならない
故郷へと導いてください、私は帰ります
善き地に向かって
現在のイスラエル国家の建設を聖書の預言の成就と全面的に喜んで良いかどうかに関しては、信仰者の中でも様々な見解があります。
ただ、ユダヤ人が神にとって特別な民であることは誰も否定できない事実です。彼らはいつでも旧約聖書のことばから自分たちの歴史を見ようとしています。
その代表が、詩篇126篇です。これは2500年余り前のバビロン捕囚からの解放を喜んだ歌です。そして、現在のイスラエル建国を祝う際にも必ず朗読されます。
これは現代の私たちにとっても大切な意味を持っていますアル・コル・エレの歌にもあるように、蜂蜜と蜂の針は切り離せません。苦みがなければ甘みは分かりません。今のコロナ騒ぎがなければ見えなかった世界があります。私たちは悲惨な現実の中に、新しいことの芽生えを見る必要があります
詩篇126篇は、新約の視点からはキリストにある「新しい創造」を歌った、私たちに与えられた「救い」の喜びを最も美しく表現した詩の一つと言えましょう。イスラエルの民は自業自得でエルサレムを滅亡に導きました。しかし、ペルシャの王キュロスがバビロン帝国を滅ぼしたとき、主は彼の霊を奮い立たせ、イスラエルの民がエルサレムに帰還し、主の宮を再建できるように導きました (エズラ1章)。
そのときの民の感動が、「私たちは夢を見ている者のようであった。そのとき 私たちの口は笑いで満たされ……舌は喜びの叫びで満たされた」と描かれます (1、2節)。
そればかりか、それまでイスラエルの苦難をあざ笑っていた「諸国の人々さえ」、「主 (ヤハウェ) は彼らのために大いなることをなさった」と、主のみわざを認めざるを得ませんでした。
そして、主の民も同じ表現で、「主 (ヤハウェ) が私たちのために大いなることをなさった」と、主のみわざを喜びました。
これは新約では、私たちが罪と死の支配からキリストの十字架と復活によって解放され、キリストにある復活のいのちを生き始めることを意味します。私たちもその福音を最初に味わったとき、「夢を見ている」ような感動に満たされたかもしれません。
ところが、イスラエルの民はその後、その感動が徐々に薄れて行きます。神殿再建は中断され、再建できても、そのうち「神に仕えるのは無駄だ。神の戒めを守っても……何の得になろう」(マラキ3:14) などと言うほどに、倦怠感に満たされて行きます。
同じことが現代の私たちにも起きることがあるのではないでしょうか。そのような中で、この詩篇作者は、「主 (ヤハウェ) よ 繁栄を回復させてください ネゲブの流れのように」(4節私訳) と大胆に訴えます。
ネゲブとはユダの荒野の南に広がる乾燥地帯ですが、雨が降ると突然、水に満たされ、まもなくすると一斉に美しい花が咲き誇るという不思議な現象が起きます。それはイザヤ35章1、2節で「荒野と砂漠は喜び、荒れ地は喜び踊り、サフランのように花を咲かせる。盛んに花を咲かせ、歓喜して歌う」と描かれている情景と同じです。
そして、主の祝福が見えなくなっている中で、それでも「涙とともに種を蒔く者は」やがて、「喜び叫びながら刈り取る」という祝福を体験できると保証されます。同じように、「種入れを抱え 泣きながら出て行く者」とは、凶作に苦しんだ後に、「この種が実らなければもう生きて行けない……」というような不安に苛まれながら、種を蒔く姿ですが、その人が、収穫時には、「束を抱え 喜び叫びながら帰って来る」と保証されているのです。これこそ、私たちが今、コロナ騒ぎの中で覚えるべきみことばです。
そして、これを前提に、使徒パウロは「失望せずに善を行いましょう。あきらめずに続ければ、時が来て刈り取ることになります」(ガラテヤ6:9) と記しました。さらに彼は、キリストの十字架こそが自分たちの信仰の出発点であることを、「大事なのは新しい創造です」(同6:15) と記しています。
イエスを救い主と告白する私たちはすでに「新しい創造」の世界に生かされています。その者にとっては「自分たちの労苦が主にあって無駄ではない」というのは信仰の確信の基本です (Ⅰコリント15:58)。パウロはそれを前提に、「苦難さえも喜んでいます」(ローマ5:3) と告白しました。そこに私たちを成長させる神の愛の御手を見ることができたからです。キリストにある「新しい創造」は、「新しい天と新しい地」の実現の保証です。私たちの世界は、喜びの完成に確実に向かっているのです。
祈り
主よ、あなたの民はバビロン捕囚からの解放を、「夢のようだ」と喜んでいましたが、やがて倦怠感に陥ってしまいました。主よ、私たちが同じ落とし穴にはまることがないように、キリストにある「新しい創造」をいつでもどこでも覚えさせてください。