詩篇18篇 「主が私を喜びとされたから」
最近話題のイスラエルの歴史学者ユバル・ノア・ハラリはコロナ感染の社会的な影響に関して、「悪い変化も起きます。我々にとって最大の敵はウイルスではない。敵は心の中にある悪魔です。憎しみ、強欲さ、無知。この悪魔に心を乗っ取られると、人々は互いを憎み合い、感染をめぐって外国人や少数者を非難し始める。これを機に金もうけを狙うビジネスがはびこり、無知によってばかげた陰謀論を信じるようになる。これらが最大の危険です」と述べています。最大の敵は、人の心の中に住む悪魔というのは明言ではないでしょうか。
私たちは信仰の成長を、神に喜ばれる者となれるように頑張ることかのように誤解してはいないでしょうか。そこから生まれるのは、いつも「まだ、自分はダメだ、こんな自分は神から愛されるに値しないという自己嫌悪感です。そして、この自己卑下の気持ちこそ、悪魔にとっての最大の餌食になります。なぜなら、サタンの基本的意味は「告発する者」(詩篇109篇6節別訳) だからです。
この詩篇は「あなたを私は慕う。主 (ヤハウェ)、私の力よ (I love You, O Lord, my strength)」ということばから始まり、自分の訴えに応じて、「主が天を押し曲げて降りて来られた (9節) という劇的な描写がなされます。そしてその理由が、そのように主が私を特別に扱ってくださる理由が、「それは、主が私を喜びとされたから」(19節) と表現されます。これは「気に入る」とも訳されることばです。確かにダビデには驚くほどの心の素直さがありましたから気に入られて当然かもしれません。しかし、キリストにつながる私たちに対しても、「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」(ヤコブ4:5) と言われています。神の御霊によってイエスを主と告白している人はすべて、「神のお気に入り」なのです。
今あなたに問われていることは、「主が私を喜びとされた」という「愛」に応答して生きることです。あなたは、愛する人のために贈り物を選ぼうとするとき、愛する人の笑顔を思い浮かべながら、いろいろと迷いつつ思いを巡らすことでしょう。パウロは、「私たちの念願とするところは、主に喜ばれること」(Ⅱコリント5:9) と言いました。これは主に喜ばれる人間に変えられるという以前に、すでに今、「神のお気に入り」とされているという誇りを持ちながら、何をすることが主に喜ばれることかを思い巡らしながら、今このときを生きることに他なりません。
さらに、「あなたは……私を大きくするために低くなってくださいました」(35節)、または「あなたの謙遜は、私を大きくされます」(同新改訳)とは、「主は、天を曲げ、降りて来られた」(9節) ことを指します。誤った謙遜によって、主があなたを「大きく」用いてくださることを忘れてはなりません。神の御子が、ご自身を貧しくしてこの地に降りて来られたことの目的は、あなたをご自身の代理大使として整えて世に遣わし、神の平和をこの地に実現するためです。そして、「あなたは私の歩幅を広くされました」(36節) での「広く」とは、19節で「主は私を広い所に導きだし、私を助けてくださいました」と記されていたときのことばと同じ語源です。つまり、神があなたを「広い所」に連れ出されるのは、「広い歩幅」で歩かせ、働きを全うさせるために他ならないです。
この詩篇18篇は、出エジプト記からサムエル記に至る神の救いのストーリーを劇的に要約したものです。神の救いとは、あなたの日常生活のただ中で体験できるものです。あなたの目の前には、様々な不条理が横たわっているかもしれません。そのとき、「神がおられるなら、どうして……」と問うのではなく、「全能の神に呼び求めることを知らないで、どうして私はこの世の悪に染まらずに生きることができようか?」と問い直してみてはいかがでしょう。
前回ご紹介した曲は、「主よ、人の望みの喜びよ」の英訳詞でしたが、もともとの歌詞は、ドイツの人口が場所によっては三分の一にまで激減したという30年戦争の直後に、マルティン・ヤヌスが書いたもので、以下のようにキリストへの切実な愛を歌ったものです。英語の歌詞よりはるかに素朴で分かりやすいものです。
- イエスをこの心に持っている私は幸せ!
何と固く主を抱きしめることでしょう。
主はこの心を活かしてくださるから。
私がやまいのときも、悲しみのときも
イエスご自身が私のうちにおられる。
いのちを賭けてこの私を愛された方が。
ああ、だから私はイエスを忘れはしない。
たとい悲嘆に暮れることがあろうとも。 - イエスはどんなときにも私の喜び。
この心の慰め、生命のみなもと。
イエスはすべての中での守り手
主こそが私に生きる力を与える
主は私の目の太陽、また楽しみ
このたましいの宝、無上の喜び
ああ、だから私はイエスをいつも
こころの目の前から離しはしない。
バッハが後にこの賛美歌をもとにカンタータ147番を記し、そのアレンジされたメロディーは世界中の人々に愛されていますが、もともとはこのようなイエスへの愛の歌でした。
以下の二つのユーチューブで、それぞれの歌詞が歌われています。これを参照にしつつ、曲を味わっていただければ幸いです。
「主が私を喜びとされた」と言う自覚を基に、主への愛の歌を歌う時に、私たちの心は、このコロナ騒ぎの中でも豊かさを味わうことができます。
なお、これを音符に合わせて次のような歌詞にすると歌うことができます。曲はⅡ讃美歌228参照
- さいわいなるかな 主イエスを持つ身は
悩みのときにも 慰めたまえり
イエスは わがために いのちを捨てられ
破れしこころに ひかりをともせり - 主はわがよろこび いのちのみなもと
恐れのときこそ ちからをたまわる
主こそわがひかり 望みぞ、宝ぞ
いかなるときにも イエスを仰ぎ見ん